おやままさおの部屋

阿蘇の大自然の中でゆっくりのんびりセカンドライフ

阿蘇山上古坊中へ

2012年08月19日 06時21分12秒 | 日記
昨日はたいへんな暑さではあったが、今詳しく調べている古き阿蘇修験者の場所=阿蘇古坊中に登った。

本当は修験行者が修行した山林修行の片鱗でも感得できたらいいと阿蘇麓坊中の西巌殿寺から阿蘇山上までの約15キロを歩いて登ろうと思っていたのだが、この暑さでは途中倒れるのではないか不安に思うので少し涼しくなって実行しようと考えている。

我が家から車で南ルートを登れば15分くらいで山上に到着する。

先日の大雨(九州北部災害ーこのネーミングはおかしい被害が最も大きかった阿蘇の地名をなぜ付けなかったのか?)で山肌は土砂崩落でギザギザに削られている。砂防ダムが彼方此方に作られているので、これで大分救われたという側面もある。土砂はそのダムをも乗り越えて瓦礫・木々を流していた。


頂上に着くとロープーウェイ乗り場に車を置いて、先ずは西巌殿寺の奥の院にお参り。



ここが修験基地になったところ。この寺天台宗という最澄禅師の開いた宗派なのだが、現代日本人宗教には興味を示さない。人寄せのために恋愛成就、結婚成立とかけばけばしい張り紙、幟、お守りもそれ一色で情けない思いがしたが、若い人の手を合わせる意味が違うのだがしっかりお祈りした。

その上にある「阿蘇神社上宮」は誰も訪れないような閑散とした社の風景だった。ここでハプニング火口から漂ってくる火山性ガスが鼻を突き危ないと感じたのですぐロープーウェイ乗り場に避難。



そこは観光客で一杯だった。驚いたことにこの時期に韓国人観光客が大勢来ていた。こういう外国人が来なければわが県の観光地も今や成り立たない状況になっている。情けない

ここを出て、近くの古坊中跡へ。今は史跡であることの石碑があるだけで説明する看板もなし。貴重な資料である梵字が刻まれた板碑などが無造作に集められていた。



ここに8世紀から秀吉の時代まで37坊52庵の僧侶衆徒、行者、山伏が多数居住して修行していたのだ。

今のように情報を瞬時に得るようなスピードの時代ではなかった。人々は自然の力に頼って、生産活動をし、食べていた時代。時に自然が猛威を振るうような時には、その力に恐れ、霊威を感じ、カミとして崇めてきた。原始宗教の起こりだった。

阿蘇の山の信仰は文献では8世紀、最栄という仏師によって開かれたとされる。

カミは火山の中でも火口に鎮座した。だからこの火口縁に今も阿蘇神社の上宮と西巌殿寺が並んでいる。

熊本城を作った加藤清正がこれを阿蘇の麓黒川に移して再興させたのが「麓坊中」。

この麓坊中も明治の廃仏毀釈、神仏分離令、国家神道化政策によって西巌殿寺のみを除いてすべて取り壊されて仏教徒は離散して言ったのだ。

阿蘇修験は悲しい歴史を持っている。

今、この阿蘇修験について「夏休みの自由研究」で50枚の論文を書いているのだが、あと少し

しかし、厳しい山林修行をこの山で行った修験道のポイントに、今は縁結びで人集めをしているというのは情けない。

世を経るにつれて日本人から宗教的なこころが失われるのは残念なことと思っている。