議論が分かれる際、誰でも自分では一生懸命考えている気持ちになっている。しかし本当は無意識に様子を見ているだけという場合が多い。最終的には自分にとって都合のいいほうにつくようになっている。問題は自分では自分で考えて結論を出したと思っていることである。
テレビの番組、特にワイドショーを見ている人はその傾向が強い。自分では自分なりの意見を考えているつもりだが、実際はコメンテーターの意見に従っている。コメンテーターも心得たもので大衆の支持を得やすいことばかり言う。もちろん反権力的ではあるほうがいい。かと言ってあまりに極端なことを言うと逆に批判の矢面に立たされ降板させられる。だから世の中に批判的でなおかつ多数の賛同を得られる意見に集約されていく。その意見を聞いた視聴者は、それをあたかも自分の意見のように語り始める。
「報道ステーション」を見ているとどうしても古館さんの顔色を見てしまう。古館さんの後ろに大衆がいるからである。自民党の人が「報道ステーション」を毛嫌いするのもわからなくもない。(もちろん、自民党が古館さんより正しいと言っているのではない。)
なぜ人たちは多数派になびくのであろうか。そのほうが生きやすいからである。特に日本人は昔からムラ社会を形成し、そのムラから外れることができなかった。自分だけ目立つ行動をとれば村八分になり、社会から除外されてしまうのである。だから猫のように周囲に気を配りながら目立たないように生きる。
その傾向は子どもにも伝わる。「いじめ」社会が形成される。個性を育てる教育をしているはずの日本の教育現場はどんどん個性を隠すこどもだらけになる。みんな表面上は健全で明るい人間関係を保ちながら、その裏では巨大な闇を抱えることになる。孤独と戦いながら孤高に人生を歩むか、妥協しながら楽に生きるか。結果は明らかに後者を選ぶ。一生生きにくい生き方を選ぶのはさすがに厳しい。生き延びるためには妥協も必要だと考えるようになる。
このようにして日本人は空気を読みながら生きることになる。
しかし、ただ周りに流されながら生きているという生き方には抵抗がある。自分がなくなるからである。そこで自分で判断する形をとりながら、実際には大衆の意見に従うことになるのである。しかも権力に対する批判ならばなおよし。権力に対して批判的なほうが、「権力に流されない自分」をアピールできるのである。
このようなことを無意識に行われている。その人は自分は自分は自分で判断していると考えれいるが、実は様子を見ながらどっちにつくか判断し、一瞬で自分の理屈を形成し、勝ち組にのってしまうのである。
この手の人はなかなか手ごわい。実際には自分では何にも考えていないのに、自分ではさまざまな情報を整理統合して自分で判断したと思いこんでいる。だから議論になっても議論の根拠となる他者の意見はしっかりと言えるが、そこから自分がその結論に至った論理がない。論理がないから、議論が議論にならないまま、折り合うこともできない。
「みんながそう言ってるじゃないか。」
この一言で終わってしまう。
議論が議論にならないのは日本の国会ばかりではない。あらゆるところでそれは起きている。本当に正しいのかどうかわからない大衆の意見が形成され、それは社会を押しつぶし、いつか来た道を歩み始める。
「なぜこうなってしまったんだ。」
気づいた時にはもう遅い。
本当に議論のできる社会になるためには何が必要なのか。
本当に自分で考えることから始めるしかない。