とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」⑤〔「小説」と「物語」の違い〕

2019-02-01 15:13:12 | 国語
 そもそも「小説」とは何か。「小説」と「物語」は何が違うのか。これについて説明しておく。「小説」も「物語」もありふれた名詞なので、この違いについては様々な考え方ができる。ここで紹介するのは多くの人が言っているものではあるが、もちろんこれが絶対というわけではない。しかし、この区別の仕方が今のところ一番、文学研究に適していると思われる。

 まずは「物語」である。「物語」というのは「物語」というのは出来事を時系列順に並べていったものだ。基本的にはそこに語り手や作者が介入はしない。英語でいう「ストーリー」にあたるものだ。

 それでは「小説」というのは何か。「小説」は構造が複雑になる。「小説」とは「物語」を語る場を想定し、それを記述したものである。「語り手」が「物語」を「聞き手」に語り聞かせる場面を、「小説」の「作者」が「読者」に伝えるために文章化したもの、それが「小説」なのだ。この説明はわかりにくい。具体的に説明していく。

①「物語(ストーリー)」の段階
 私たちは「物語」をどのように享受するのだろうか。おそらく幼いころ母親や祖母などが語ってくれたのを聞いて享受していることだろう。その時のことを思い浮かべてほしい。

 例えば「桃太郎」を例にする。「桃太郎」の最初の部分の「物語(ストーリー)」は次のようになる。

 「むかしある所におじいさんとおばあさんがいた。
 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯にいった。
 おばあさんが洗濯していると、川上から大きなももが流れてきた。
 おばあさんはその桃を川から拾い上げ、家に持ち帰った。」


 このように「一連の出来事を順に並べたもの」が「物語(ストーリー)」である。

②「『物語(ストーリー)』を語る『語りの場』」の段階

 これが語りの場を想定するとどうなるだろうか。

 「むかしむかしあるとことにおじいさんとおばあさんがいました。昔っていうのはね、ずっと昔のことで、私が生まれるよりも昔で、私のおばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんが生まれたころかな。それとももっと昔かな。それくらいの大昔のことです。おじいさんとおばあさんは田舎の家でしずかに暮らしていました。のんびり生きてたんでしょうね。ある日、おじいさんは山に芝刈りに行きました。しばかりっていうのはね、枯れ木をけって集めることだよ。もうすぐ冬が来るから、薪にする木を集めていたんだね。おばあさんは川に洗濯に行きました。昔は川で洗濯してたんだよ。今は洗濯機で勝手にやってくれるけど、昔は自分でゴシゴシ洗濯物をこすり合わせて洗濯していたんだね。たいへんだったんだろうね。
 そうやって洗濯していると、おばあさんが川上に何かを見つけます。
 『おや、あれは何だろう』
 おばあさんはじっと見てみます。すると、
 『あらまあ、大きな桃じゃないか。食べたらおいしいかな。おじいさんに食べさせてあげたいな。』
 おばあさんは川の中に入っていって、桃を待ち構えました。
 いい、お前はまねしちゃだめだよ。川って流れが速いから、子供が入ったら絶対に長さてしまうんだからね。流されておぼれて死んじゃうんだ。おばあさんだって流されないように必死に踏ん張ってなんとか、桃を手にいれたんだ。よかったね。もしおばあさんがここで死んでいたら「桃太郎」なんて生まれなかったし、だとすると鬼を退治することができないから、いまごろ日本は鬼の国になっていたかもしれないよね。鬼の国になってたらどうする?
そう考えたら、おばあさんのおかげで、今の日本の平和があるんだよね。
 とにかくおばあさんは大きなももを拾い上げ、なんとか岸までたどりつき、洗濯物と桃をもって家にもどったんだ。」


 このように、「物語(ストーリー)」の中に「語り手」は自由に入っていく。そして解説したり、因果関係を明確にしたり、先を予想したり、出来事の順番を逆転させたりする。これによって「語りの場」は構造化されるのである。

③「小説」の段階

 「小説」というのは「語りの場」を作者が頭の中で作り上げ、それを文章化したものである。「語りの場」は「語り手」と「聞き手」の関係によっていくらでもバリエーションがある。その中で作者は自分の意図にあったものを選び、文章化する。いくつかの例を考えてみよう。

③-1(近代小説風)
 「ある日の午後のことである。ひとりの老婆が川で洗濯をしていた。
 季節は秋である。山で生活をしている老婆にとってこの時期の洗濯はつらいものではあった。しかし冬になれば洗濯をすることもままならない。今日は天気がいい。洗濯するしかないと思い、重い腰をあげたのだった。
 老婆は年老いた男と一緒に暮らしていた。ふたりに子供はできなかった。さびしさを感じつつもそれを言葉にするわけにはいかない。しかしお互いに話すこともあまりなくなり、ただ寄り添うだけの生活を続けていた。翁は山に出かけた。まもなく冬である。そこしでも薪となる木を蓄えなければいけない。生きるためだけに生きる、今の人にとってみればさみしいことではあるが、当時においてはそれが当たり前であった。
 「おや」
 老婆が顔を上げると、もちろんそこには「桃」がある。そこからの話は誰もがよく知っていよう。ここで語るまでもない。結局桃太郎は鬼退治をして戻ってきたのだ。
 しばらく桃太郎は老夫婦とともに生活していたが、桃太郎はこの山奥におさまる男ではない。老夫婦はそれを感じながらも、それを恐れていた。」

 少し気取った感じの語り手が語っている風に書いてみた。私がかいたのからへたくそではあるが、なんとなく小説っぽいと感じてはくれないだろうか。

③-2(自伝風)
「私は目の前に光る金属を見た。同時に世界は開けた。この世に誕生したわけだ。
 目の前に動いているものがある。これはのちに人間というものであることがわかる。もちろん年老いた男と年老いた女である。そして私もその人間というものの一種であることもいつかは気が付くことになる。
 桃から生まれたのだから桃太郎と名付けられた。安直であるが、きらいではない。私は老夫婦に大切に育てられた。わたしの人生におけるよろこびはそこで育てられた」

 これは主人公が語り手となっている小説である。

 このようにだれが語り手になり、どのような語りを行い、どのように「物語(ストーリー)」をアレンジしていくのかを作者は考え、それを作品にしていく。これが「小説」である。
 
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