とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

「羅生門」⑦〔「この局所」〕

2019-02-08 18:35:57 | 国語
 「羅生門」において「この局所」という表現が定番の発問になっている。この発問は実は意味をなしていない。しかし、この部分は作者(文中の「作者」とは違う意味の作者、つまり、芥川龍之介)の隠された意図が読み取れる個所なのだ。以上のことについて以下で述べたい。

 「羅生門」の第一段落で、つぎのような個所がある。

 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまはない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、飢え死にをするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊したあげくに、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。

 授業において傍線を引いた「この局所」とはどこかという問題が出題される。例えば教育出版の教科書準拠の「学習課題ノート」にもその問題がある。解答を見ると

 「飢え死にを避けるには盗人になるほかないという結論」

と出ている。しかし本文をよく読んで論理的に考えればこれはおかしな解答である。この解答は、「飢え死にをしないために手段を『選ばないとすれば』盗人になるほかないという結論」という意味である。しかしすぐ直後に「しかしこの『すれば』は、いつまでたっても、結局『すれば』であった。」とあり、その時点では「盗人になる」ということまで考えを進めていないと「作者」が説明しているのである。だとすれば「盗人になるほかはないという結論」は含まれないはずなのである。しかし当然「飢え死にを避けるためには」で思考がとどまるはずはない。

 さあ混乱してきた。ここをどう考えるべきなのか。

 私たちはこの個所が「作者」の解説だと気づかなければならないのである。この個所は、「下人は飢え死にをしたくないのでもはや盗人になるしかしょうがないと思いながら、盗人になる勇気がなくうじうじしていた。」ということを、「作者」と名乗る「語り手」が本文のように表現したというだけなのである。一種のレトリックであり、「この局所」という部分だけを質問するのは、的外れな質問だということになろう。

 ここにおける「作者」は、一見理知的であるが、逆に言えば何でも館でも理屈っぽくいってしまうインテリを気取った男である。言ってみればこの作者は近代知識人(もどき)である。その近代知識人(もどき)が平安朝のできごとを冷めた目で見ているという構造になっている。

 芥川龍之介は「作者」と名乗る「語り手」を物語に介入させることによって、俯瞰的な視点を読者に意識させようとしている。読者は下人にも感情移入しにくいし、老婆にも感情移入しない。もちろん「作者」と名乗る「語り手」も理屈っぽいだけであることにも気づく。客観的にみればどいつもこいつも胡散臭い。すべての人物が相対化し、どの人物にもこっけいさを感じずにはいられなくなるのだ。しかし考えてみればわれわれは日常的にこんな胡散臭い人間ばかりに囲まれている。自分だって胡散臭いに違いない。われわれは日常的にちょっとした人間不信を感じながら生きている。芥川はそんなことを感じさせる構造を仕掛けたのである。
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