夏目漱石の『三四郎』の読書メモ。今回は七章。
この章は三四郎と美禰子との直接のからみはない。広田による現代評とそれにからんだ美禰子評が語られる。それが興味深い。
広田は言う。昔は他本位であったが、近代になり西洋文明が入って来ると自己本位に変化した。その結果、昔は偽善であったものが、今や露悪になってきている。
これはわかりやすそうでわかりにくい。自分なりに整理をする。3つの段階に分類することができる。
1.善 自分を犠牲にして利他的行動をとる。決して利己的ではない。
2.偽善 利他的行動のように見えるがそれは利己的である。
3.露悪 利己的そのもの。自分の主張を明確に示す。
美禰子だけが露悪であるわけではない。現代人はみんなそうである。この後に、広田は二十世紀になってから「偽善を行うに露悪を以てする」ようになったというのだ。人の感触を害するために、わざわざ偽善をやるということだ。これがよくわからない。政治家とか、和田アキ子のようなものだろうか。広田は美禰子が「偽善を行うに露悪を以てする」とは言っていない。しかしもし美禰子がそうだったらどういうことになるのだろう。これがわからない。
原田がやってくる。美禰子の画を描くことになったと言う。当人の希望で団扇を翳している所を描くのだという。ここがまたつじつまがあわない。後で美禰子は絵は三四郎と最初に会ったときから描き始めていたのだということが語られる。しかしこの場面ではやはり絵については運動会、もしくはその後から描くことが決まったとしか解釈できないのである。わからないことだらけだ。