安養寺桜は枝垂れ桜で、益田市美都町の安養寺境内に咲く一本桜である。
益田市の中心部より25分程度を要する山中の寺である。ここの奥5分ほどのところに金谷城山桜もある。
<了>
安養寺桜は枝垂れ桜で、益田市美都町の安養寺境内に咲く一本桜である。
益田市の中心部より25分程度を要する山中の寺である。ここの奥5分ほどのところに金谷城山桜もある。
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邑智郡美郷町に前川桜と呼ぶ樹齢120年のしだれ桜がある。老木と呼ぶほどではないが、それなりに堂々としている。
訪れた時は4月4日であったが、花は満開に近かった。
<了>
当該ブロガーのみの感覚であろうが、桜と云えば京都のイメージが強く。田舎の桜は鄙びてみえる。その田舎の桜である。三瓶川の河畔に桜並木があり、冠雪の三瓶山を背景に見ることができる。
満開の手前七分咲きほどであった。水面に浮かぶ花筏も見ものではあるが。
<了>
前回まで記述したように考えると、タイ北部窯に於ける鉄絵陶磁の出現について、従来の持論を多少なりとも修正する必要がありそうだ。器物の形状や文様の類似性は、手本とする景徳鎮陶磁、安南陶磁があれば、どこでもできるであろうと考え、その類似性を語るには、焼成窯の構造や築窯材料の特徴まで含めた比較検証が必要と考えていた。
しかし日本では上述のごとく、そうはならなかった。陶器しかなかった日本において、鉄絵や染付で文様が描かれた陶磁器をみて、それを真似ようと考えたと想定してもよいと思われるが、そうはならなかったのである。やはり真似るだけの技術やその基礎が、当時の日本になかったと思わざるを得ない。
となると、先達諸氏が唱えられている、タイ北部諸窯における景徳鎮青花、龍泉窯青磁、安南陶磁の影響は、単にその器物だけではなく、元寇の南下圧力により、彼の地の陶工が移動して来たかどうかは、未だに疑問をもつが、技術や技能の何らかの伝播があったと思わざるを得ない。
過去、それらの類似性を語るには、単なる器物の形状や様式、さらには陰刻や陽刻、絵具による文様の比較だけでは、それらを単純に比較検討するには無理があり、窯の築窯形体・窯構造やその材料まで検証する必要があると考えていた。いまもその想いはもっているが、どのような窯の構造であれ、必要な焼成温度が得られ、焼成雰囲気が制御可能であれば、窯の構造に固執する必要はなく、先進の器物を参考にしたり、その技術や技能をもつ陶工や関係者の助言で焼造できる基礎の有無が、左右するのでは・・・と思われてくる。
当日の現地説明会の出土陶磁をみて、以上のようなことを考えた次第である。これは従来の持論と異なることから、もう少し仔細に調査・検証が必要である。
後日譚
年末の’09,12,22に島根県立古代出雲歴史博物館へ行ってみた。定年退職後田舎に引っ込みながら、なかなか行く機会がなかったのであるが、たまたま所用で近くを通りかかったので訪れた。荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣、16本の銅矛、6個の銅鐸や加茂岩倉遺跡から同時出土した39個の銅鐸(いずれも国宝指定)が一同に展示されている。ディスプレーの巧みさと相俟って、見る目を圧倒しているすばらしさである。
それのみに留まらず、中世の展示に釘つけになった。それは先の銅剣、銅矛、銅鐸の圧倒するようなインパクトはないが、中世の陶磁に興味をもつ小生には、何にも増して興味ある展示であった。
それは写真の龍泉窯青磁の鉢と碗である。これは出雲市荻杼古墓(鎌倉時代)の出土品で奈良国博が所蔵し、重要文化財に指定されている。県立古代出雲歴史博物館開館にあたり、奈良国博が無期限に貸しだししており、実質的に出雲に里帰りしている。この三つの青磁は13世紀南宋時代の龍泉窯青磁で、日本出土の遺品では極上の出来栄えで、しかも完品である。
益田氏御土居遺跡出土品、荻杼古墓出土品と短時日に、これらの渡来陶磁を見ることができたのは、何か印象に残るものがある。
奈良三彩は遣唐使の随伴者が、その技術を持ちかえり開花させたものと思って、大きな齟齬はない(一説によると唐三彩の成立と、その直後にあたる7世紀末の30年間は、唐との直接交渉が中断した。中断後、第7回大宝2年(702)、8回養老元年(717)に派遣されたが、この時に唐三彩の技法がもたらされ、奈良三彩につながったと考えられている。
延喜式によれば、遣唐使の中には「玉生」と呼ばれるガラスや釉薬に長じた職人たちが含まれ、遣唐使とともに長安に赴き唐の都長安で唐三彩の技術を習得し、日本へ持ち帰ったものと云われている)ものと思っている。それは平安時代初頭(9世紀)の緑釉陶器につながるが11世紀前半で、その施釉陶器は姿を消す。
再び施釉陶磁をみるのは、秀吉の朝鮮出兵までまたなければならない。なぜ姿を消すのか?それと中世の輸入陶磁、この関係を追及している研究者は多いものと考えられる。この窯業・焼成技術の断絶が、中世の龍泉窯青磁を倣った陶磁の出現に繋がらなかったと思われ、何らかの人的交流があってこそ、技術は伝播するのであろうと思われる。
<了>
<続き>
ところが御土居遺跡発掘現場から、多くの中国陶磁に混じりベトナムの陶磁が出土し、それが展示されていた。それらは14-16世紀の景徳鎮窯の青花磁器片、多分龍泉窯と思われる青磁磁器片、元の鉄絵瑠璃釉片、15―16世紀の象嵌青磁をはじめとする朝鮮陶磁と、当時の日本の瀬戸、越前、備前の破片、ベトナムの14-15世紀の鉄絵皿(申し訳ないが安南陶磁のみ写真無し)である。
これらは実に興味深い事柄を提供してくれている。
先ずは益田氏の資力を伺い知ることができる。遠くから来た安南陶磁までも入手できた財力である。かつて室町将軍家より始まった対明勘合貿易だが、大内氏は西国の雄になるに従い、それを独占するに至った。当時大内氏と同盟していた益田氏も、それに習い対明貿易により資力を蓄えたことを、これらの出土品の豊富さが物語っている。この居館から2km河下の河口港址から、多量のそれらの陶磁が過去の発掘調査の結果出土している。これは前述のように、益田氏の繁栄ぶりを示すとともに、一般庶民にもそれらの陶磁が普及し始めたであろうことを想定させる。
二つめが本題である。14-16世紀の景徳鎮、安南、朝鮮陶磁は、当時の日本では先進の器であったが、これを手本に類似の焼物がなぜできなかったのか?・・・との単純な疑問である。陶磁史上は秀吉の朝鮮出兵まで待つことになる。鉄絵文様陶磁の日本での初出は、絵唐津と志野の鉄絵文様がほぼ同時期で、16世紀末の桃山時代までくだり、例えばサンカンペーン窯の鉄絵双魚文から約200年後のことである。
これは何を物語るのであろうか?種々のことが考えられるが、それらを箇条書きすると以下のようになる。
① それなりの頻度で勘合貿易が行なわれており、朝鮮、中国、ベトナムからもたらされる陶磁の量で、必要な需要量に応じていたので、日本で焼造する必要がなかった
② 潜在的な需要はもっと多いが、一種のステータスの意味合いをもっており、価格を意図的に維持していた。更にいうなら渡来の陶磁であることに意味があり、国産することによりその旨味を自ら放棄はしなかった
③ 渡来の陶磁を手本に焼造する基礎や技術を持っていなかった
上記①、②は武士等の支配者階級や商人が考えそうなことであるが、彼らは人口構成の一部である。社会としては、それら渡来の陶磁がそれなりの価格で取引されているとすれば、それを何とか真似ようとする動きは必然的に発生するが、結果として上述のごとく秀吉の朝鮮出兵まで待つことになった。とすれば、③の想定が的を射ていると思われる。
<続く>