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本展は日タイ修好130周年を記念して開催されている。7月4日からは九博に続き、東京国立博物館でも展観されるという。
〇第2章・スコータイ 幸福の生まれ出づる国
13世紀に至るとアンコール帝国の軛を脱し、タイ族のムアンが強大になり、ラームカムヘーン王(第3代王)によりスコータイ朝は最大版図を得ることになった。
(ラームカムヘーン王像:現地にて撮影)
歴代の王は、スリランカから受容した上座部仏教を信仰し、豊かな経済力を背景に多くの寺院を建立した。第6代・リタイ王は、自ら出家するなど篤く仏教に帰依した。以降、王たる資格として仏法の擁護者であることが求められるようになった。
(スコータイ:ワット・マハータート布薩堂跡 現地にて撮影)
現地に立つと、多くの仏教遺跡を目にすることができる。これらを見ていると、当時の繁栄振りが容易に想定される。
一方、北ではメンライ王がハリプンチャイを攻略し、ランナー王国を建国した。特にワット・チェットヨートは緑豊かな境内に高い仏塔を囲むように6つの塔が建ち並んでいる。建立は15世紀で、ランナータイ王朝の9代目王ティロカラートによって造られた。釈迦が悟りを開いたインドのブッダガヤにあるマハーボディ寺院をモデルにしたといわれており、1477年上座部仏教の第8回・世界結集が行われた。
(現地にて撮影)
北タイもスコータイと同じように仏教を奉じたのである。以下、スコータイとランナーの遺品・遺物を紹介する。
スコータイやシーサッチャナーライに残るクメールの遺構はスコータイ時代にも祠堂または仏塔として利用された。出品番号52の『天人像』の漆喰装飾はそれらを飾っていた。残念ながらパンフレットの写りは良くなく、分かり辛い点容赦願いたい。下の写真は上述ワット・チェットヨートの外壁を飾る像で、天人か菩薩かハッキリしないが、漆喰像である。52に似ているように見える。
1361年、リタイ王はスリランカのアダムスピーク山頂の仏足跡の写しを持ち帰らせ、これを模した仏足跡をスコータイのプラバートヤイ山頂に祀った。以降、仏足跡信仰が流行したと云われている。
2年後の1363年、リタイ王は自ら出家し受戒した。王は仏教徒である一方で、バラモン僧から占星術を学び、近くの神殿にシバとビシュヌ神像を奉納したことが碑文に記されており、58のハリハラ立像の造立を裏付けている。
54、55の仏陀座像は、このリタイ王の時代に造立された。降魔印を結ぶ座像はポピュラーで数多くの仏陀座像が造立された。
スコータイで花開いた上座部仏教は、時を経ずしてランナーでも受容された。それが66のランナー様式仏陀座像である。
最後になったが、スコータイ独自の仏像が誕生した。それは遊行仏(出品番号56)と云われ、これから仏法を広めようとして、歩行している姿である。スコータイ、シーサッチャナーライの古寺では、よく見ることができる。次回は第3章の展示を紹介したい。
<続く>