<続き>
“なぜ双魚文なのか”という命題探求は頓挫するとともに、暫し頭からも離れ、忘れてしまうことになった。
2010年7月21日、韓国・釜山へ旅をした。その7月23日、釜山市街の北に位置する梵魚寺へ向かった。韓国禅宗の総本山とのことだが、それは金井山の麓で脇には渓流が流れる絶好の地である。その梵魚寺の鐘楼を見ていると上の梁から魚の形をした、多分木魚であろうものが吊り下がっている。それを叩く槌状のものがあったかどうか記憶にない。この木魚も他と同様極彩色に彩色されている。この木魚を当地ではどのように呼ぶのであろうか?
日本では何種類かの呼び名がある。京都の黄檗宗・万福寺では彩色はしてないものの、これを開梆(かいぱん)と呼び、山口の瑠璃光寺では梆(ほう)と呼んでいる。いずれも彩色はないが、瑠璃光寺の梆は梵魚寺の木魚と形が似ている。それぞれ上から万福寺の開梆(かいぱん)と瑠璃光寺の梆(ほう)の写真を掲げておく。
そしていずれも口内に玉をくわえているが、これは煩悩の象徴で、木魚の腹を棒(槌)で叩いて煩悩をはきださせるとか? 一般的には修行僧に時を告げるために用いられた。
ところで仏教では如来、菩薩や天部の仏像以外の造形物や図像は架空の霊獣文や仏杵文、法輪文や吉祥文などで、生物なかでも動物では象(特に白象)、猿など少数であるが、そこに何故魚がモチーフとなっているのであろうか? よく喧伝されるのは、魚の卵は多産で家門繁栄の証と云うが、これは中国古来からの風俗・風習、つまり道教的土俗であって、この見方は仏教にはあてはまらないと思っているが、何かがありそうだ。
その木魚について意識が新たな当日の午後、金海市の金首露王陵を観光すべく出掛けた。その金首露王である。西暦42年に亀旨峰に降誕したとの説話がのこり、しかも卵生説話で南の風俗を思わせる。その陵墓は別名納陵と呼ばれ、正門には婆娑石塔に似た白い石塔をはさんで、インド゙で一般的に見られる双魚の模様がある・・・と解説板に記述されている。
(金首露王陵正門)
首露王妃は三国遺事によると阿渝陀国(インド゙に比定)から来たと記録されている。その旦那である王陵の正門に、インド古代の文様・双魚文がある、との記述である。三国遺事は13世紀末の私撰本であり、納陵正門も李朝の時に建立されたものであり、これらの話の信憑性には多少疑問を感じないでもない。
しかし、さきの梵魚寺の木魚に続いての魚である。何かありそうだとの直感。思い出した。京都・智積院で見た仏足石に刻まれている魚文である。これは単魚のようにみえるが、どうもこれが双魚文のようだ。仏足石ではこれを双魚相と云い、それが刻まれている場合が多々あるようだ。
(智積院仏足石)
一説によると、この双魚相は不滅の生命力を表すという。釈迦の前世の最初が魚であるとの伝承や古代インド神話に、陸地の生物が地面の爆発で全滅した時、海の中の魚だけが生き残ったというところから、不滅の生命力・・・云々の伝承になったとのことである。
ここまでくると、ことの真偽はどうなっているかとも思うが、日本も韓国も古来似たような伝承が残っているとすれば、双魚文は古代からの中国の道教的土俗とばかり思っていたが、釈迦入滅前後の古代インドにも魚や双魚の形で、その生命力にあやかりたいとの願いがあり、仏教の南伝と東伝とともに各地に伝播していったのであろうと思われた。またまた、“井の中の蛙、大海を知らず”とばかりに、無知をさらけだすことになった。
<続く>