過日、『ธง(トゥン:旗・幟)とは何ぞや』なる一文をUpdateしたが、その続編に相当する。北タイで見られ、祭礼・儀礼に用いられるトゥンについてである。特に寺院に掲げられるトゥンは、干支が描かれ『先祖供養』の意味合いを込め、まだ昇天できない迷い霊を改めて空へ送るという役割があると云う。
また、死者を弔たり、寺院の祭礼の時に掲げられる。寺、仏塔、木(菩提樹か?)、供花、ナーガ、象、馬、鳥などの動物、人が載った船などの模様が描かれるとのことである。また布地ではないが、その原形と思われる竹の枌(へぎ)制のターレオ・ヤーオが稲の精霊の祠(ケーン・ピー)に掲げられている。これは、稲の精霊の在処つまり神聖な空間であることを示している。
さて、このトゥンは日本で云えば幟(のばり)や旗の類である。春祭りや秋祭りでみる村の鎮守の幟は何なのか、それについて考えてみたい。
歴史を遡のぼり、紀元前後と思われる幟・旗の初出から見ていくこととする。まずは魏志倭人伝である。
『其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。』其の六年とは正始六年のことで、その年に詔して倭の難升米に黄幢(こうどう・こうとう)を賜い、郡に付して假授せしむ・・・とある。黄幢の黄色は皇帝の色である。幢とは幡(旗)である。つまり、魏の正規軍を示す旗で、軍の指揮に用いるものである。魏皇帝は、卑弥呼に魏皇帝(転じて卑弥呼女王)を示す幡を贈ったのである。ここで假授とは現在の漢字では仮授である。
この黄幢であるが、どのような幡であったのか。諸葛孔明に扮した金城武が出演した『レッドクリフ(赤壁)』、そこには将軍や国名を明記した軍旗が映し出されているが、黄幢はそのような軍旗とは異なるようである。三国時代(魏・呉・蜀)に建造が始まった遼陽壁画墓に、黄幢が描かれている。それをスケッチしたのが下の写真で、騎馬上の人物が捧げ持っている。
これは、どう見ても幡ではなく、“♪てんてんてんまり てん手まり”の 髭奴が捧げる『毛槍』のように見えるが、これが後世において貴人に差し掛ける蓋(きぬがさ)に繋がっていったものと思われる。
いずれにしても魏志倭人伝に、蓋や幡につながる黄幢が記されていることを紹介した。次は本邦の史書である。
『日本書紀 巻第一神代上 一書(あるふみ)第五』は、以下のように記している。“イザナミ尊は、火の神を生むときに、からだを焼かれてお亡くなりになった。それで紀伊国の熊野の有馬村に葬った。土地の人がこの神をお祭りするには、花のときに花をもってお祭りし、鼓・笛・旗をもって歌舞してお祭りする”・・・とある。これをどのように解釈するのか。山折哲雄氏は、『古代神の登場』と題する一文で次のように記されている。有馬村の葬送場面は、“歌舞音曲を奏し、飲食をして弔っている。神聖な場で旗を立てることが重要な意味をもっていた。死んだ人の霊魂をそれに依りつかせるという意味だったであろう。あるいは死んだ人の魂を鎮めるために諸々の神の降臨をあおいで、葬送の儀を行った、そのための法具の一つだったとおもわれる”・・・と、記されている。イザナミ尊の葬送場面の旗は神聖な場を示すためのものであったことになる。
同じく『日本書紀・欽明天皇十三年条』に以下のように記されている。“欽明天皇十三年冬十月、聖明王は西部姫氏達卒怒唎斯致契(せいほうきしそつぬりしちけい)らを遣わして、釈迦仏の金銅像一軀(ひとはしら)・幡蓋(はたのきぬがさ)若干・経論若干巻をたてまつった”・・・とある。幡蓋(はたのきぬがさ・はんがい)の幡は、仏教初伝の6世紀の段階から、仏像・経論とともに最重要な役割をはたしていたことになる。仏教における幡蓋とは以下の”4Travel.jp”の写真のようなものかと思われる。これは、遼陽壁画墓に描かれた黄幢に似ているが、これも幡蓋と称し幡の一種のようである(仏教に関しては疎いので、これ以上の講釈は無理である)。
この蓋(きぬがさ)は、古墳時代に埴輪のモチーフとなった。先ずは蓋飾りの木製パーツから見て頂くことにする。
(上掲3葉は、滋賀県守山市埋蔵文化財センターにて)
(鳥取県湯梨浜町羽合歴史民俗資料館にて)
ここで、幡・旗で思い出すのは、八幡や八幡神(=応神天皇)である。八幡神の『八幡・ヤハタ』とは何か。これは間違いなく旗である。八幡(やはた)は、八つの旗を意味し、神功皇后の三韓征伐の際立ち寄った対馬では、八つの旗を祭壇に祀り、神功皇后から応神天皇が誕生した際に、家屋の上に八つの旗がひらめいたとされている。
このような謂れから、後世に清和源氏、桓武平氏など全国の武家から、八幡神(=応神天皇)は武運の神として崇敬され、神仏習合とあいまって『八幡大菩薩』と唱えられるようになった。これらのことから、山折哲雄氏は、『幡(はた)』とは、神の寄りつく依代(よりしろ)としての旗を意味すると記されている。
戦場における八幡神の旗の事例も幾つか知られている。源の頼朝は奥州の戦で、八幡神の加護にあやかるため、八幡神の神号が入った錦の御旗をもちいたとされる。戦国大名では井伊直政が八幡大菩薩の神号入り幟を用いた。このように神の依代としての幡(幟)の加護に期待したのである。
以上、長々と北タイのトゥンに相当する、幟(幡)について弥生の昔からのことどもについて述べて来た。その幟(幡)の役目は、北タイと同様に神あるいは魂の依代、更には葬送場面での神聖な空間(場所)を示すことや、亡くなった人の魂鎮めの役割が見えてきた。鎮守の神様の幟は、その神様の依代で、祭りがありますとの合図ではないことになる。今回はここまでとして、次回ないしは別の機会にエンディングを紹介したい。
<了>