世界の街角

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近衛龍春著『毛利は残った』

2022-10-07 08:32:20 | 日記

過日、ブログ【Dr.Kの日記】に掲載されていた近衛龍春著『九十三歳の関ケ原 弓大将大島光義』、『忠義に死す 島津豊久』の読後感に触発され、先の二冊のほか『毛利は残った』を先ほど読み終えた。近衛龍春氏の著作は、いずれも論文・古文書・研究書・小説・史料・地方誌を100編以上読み漁り、それらをバックに構成されている。登場する主人公は、お世辞にもその時代に脚光をあびた重要人物ではない点が、いずれの歴史小説にも共通している。今回取り上げる毛利輝元もその一人であろう。

毛利と云えば元就で、中国・九州の十一ヶ国を支配する太守に登りつめた。嫡男隆元、次男元春、三男隆景への訓話・三本の矢が名高い。その元就の話しでも嫡男隆元、両川(元春・隆景)の話しでもなく、元就の孫・輝元が主人公の小説である。

輝元の父・隆元は夭折する。隆元の嫡男で元就の孫である輝元は、病床の元就から、備前で浦上宗景と戦っている場から呼び戻される場面から小説は始まる。

家康が奥州・上杉討伐に出陣した際、安国寺恵瓊の策により、家康不在の大阪に輝元は軍を率いて上阪する。この事を予見していた、吉川元春嫡子の広家の諫言を無視しての上阪であった。そして恵瓊の策通り、西軍の総大将になることを了承させられてしまった。広家が最も避けるべきとしていた事である。

関ケ原前哨戦で、広家は黒田長政に毛利は徳川に敵対心がないことを伝えている。それは関ケ原に布陣した際も同様であった。このような工作を輝元は知らない。お坊ちゃんか阿保か?

関ケ原敗戦後の仕置が進むなかで、毛利は周防・長門の二ヶ国に減封となる。ここから坊ちゃん・輝元の隠忍自重の政(まつりごと)が始まる。そして剃髪し法名・宗瑞となのる。

秀吉に安堵された八か国・百二十万五千石から周防・長門二ヶ国、計二十九万八千四百八十石に減封された。実に旧領の四分の一である。家臣の扶持は五分の一に減らさなければならない。苦境を救うため年貢を七割三分の高率に上げた。想定した一揆が発生したが、なんとか抑えることが出来たのもつかの間、伏見城の普請と近江佐和山城の普請を命ぜられた。次は慶長十年の江戸城普請である。

輝元には萩・指月山への築城が認められるが、三度目として駿府城の普請を命ぜられた。更に追い打ちとして名古屋城の普請命令である。結果、毛利は関ケ原後十年で五度の普請である。慶長十七年には、再び江戸城の普請を命じられた。家康と本多親子の政は老獪である。

しかし、坊ちゃん・輝元は耐えた。荒蕪地を墾田し慶長十五年の検地の結果は、五十三万九千二百石にほぼ倍増するまでになった。幕府は、他の外様大名とのバランス上、認めた石高は三十六万九千四百十一石となった。以降、幕府が命ずる賦役は先の石高が基準となる。更に殖産振興を進め幕末には、百万石を越えたとか。それに対し幕府は260年の眠りに入る。その260年後、毛利は討幕の狼煙をあげた。

輝元(宗瑞)死去、寛永二年四月十七日、享年七十三歳。死に際し関ケ原では負けたものの改易にならず、生き残ったのは勝ちと認識したであろう・・・との物語であった。

ところで、当該小説には二大永代家老の福原広俊、益田元祥(もとなが)が頻出する。

(益田元祥騎乗絵図)

元祥は石見国人益田氏第二十代当主である。父の藤兼が毛利元就に従ったことから、元祥もそれに従った。元祥は石見益田七尾城八万石の城主であった。関ケ原後、家康から仕えれば旧領安堵との誘いを受けたが、離間策にはのらず、輝元に従い防長二州に移り、自らは須佐一万二千石を有する、毛利家永代家老として毛利の礎を築いた。よろしければ

 萩市須佐歴史民俗資料館・#2

 石見国益田氏遺跡で考えたこと(1)

をご覧願いたい。

<了>

 



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2 コメント

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mash1125さんへ (Dr.K)
2022-10-07 18:02:17
近衛龍春著の『毛利は残った』を読まれましたか。
私も、何年か前に読みました。
毛利元就は有名ですが、毛利輝元はそれほど知られていない人物ですよね。
ところが、そのような人物こそ、明治維新という歴史の大きな転換期の元を作っているんですよね。薩摩の島津家しかりですね。
そのような意味も込め、私は、前回に読んだ『忠義に死す 島津豊久』に続いて、今は、井川香四郎著『島津三国志』を読んでいます(^_^)
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Unknown (mash1125(世界の街角))
2022-10-08 07:06:01
Dr.Kさん
またまた面白そうな書籍の紹介ありがとうございます。
探してみます。
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