壱話完結の不定期連載シリーズの3回目である。道祖神と云えば、柳田国男氏の『石神問答』に詳しい。他に岩田慶治氏は、雲南や北タイ小数民族の風俗と道祖神の関連を説いておられる。荻原秀三郎氏もその著書『神樹』で、道祖神について見識を述べておられるので、その著述内容を紹介し、後に当該ブロガーの所感を紹介したい。
“道祖神は、単に道祖神と書いて石に刻んだ碑の形のもの、男女二体の神像であるもの、自然石や石棒、陰陽の性器をかたどっているものなどがあり、中には猿田彦を祀るところもある。サエノカミ、塞の神、石神(しゃくじん)、ドウロクジンなどとも云う。祭りの時期については、正月が圧倒的で、二月八日に行うところもある。祀る場所が道や辻、峠、村境や村の広場などであるところから、神の性格を道や境を守護する、外部から侵入する疫神の防御にあたる“境の神”とするのが一般的である。しかし男女二神像を焦点とする道祖神信仰は、子授けや豊穣、性神としての面も強く、境の神ときめつけることはむずかしい。“
(出典:Wikipedia 道祖神文字碑 衢神文字碑 長野県軽井沢)
(双体道祖神像:出雲・宇賀神社)
(石棒型道祖神:信州・北沢川 出典:Wikipedia)
(陰陽自然石型道祖神:出雲・長浜神社)
(才ノ神(塞ノ神) 松江・乃木)
(猿田彦神社 石見大田・苅田神社境内)
(松本市入山辺の双体道祖神像の下部には性交像を刻んでいる。これを見ていると、荻原秀三郎氏が記す“子授けや豊穣、性神としての面も強く、境の神ときめつけることはむずかしい“・・・との感慨が理解できる。)
“「令義解(りょうのぎげ)」に道饗祭(みちあえさい)の祝詞が記載されており、その中に「八衢比子(やちまたひこ)と八衢比賣」の二柱の男女神がみえる。あるいは「久那斗(くなと)」と「布那斗(ふなと)」という一対の精霊も登場する。衢(ちまた)は路の分岐点のことで、クナトは、クナ(来な)で、トは門の意味、つまり邪神を「来るな」と止める意味である。クナトと対をなすフナトの語源は不明であるが、衢神同様にクナト、フナトで一対の男女神であったろう。猿田彦も境界の神とみなされているが、天の八衢(あめのやちまた)に現れて天孫降臨の案内をするとき、それに対応するように猿田彦の前に女陰に裳帯(もひも)を垂れて現れるのがアメノウズメである。つまり、男女一対の性神であると云える。境の神が男女神であることと、始祖神が必ず男女二神であることとは無関係とはいえない。猿田彦は国津神として天津神の道案内をした。いわば国土の代表として、原初の神でもあるわけである。猿田彦の鼻は道祖神のオンマラサマ(男根)のイメージといっても良い。この男女神を「岐神(くなどのかみ)」とも呼ぶ。”
(岐戸大神 松江・鷹日神社 岐神の双体像の写真がなかったのでクナト大神の石塔をかかげておく)
“境にたつ男根・女陰をあからさまに表現した性神は、縄文時代には祖先神であったし、東アジアの視点でみても、子孫繁栄の子授けの始祖神であることが多い。一方、男性器にしろ女性器にしろ、外敵を威嚇する例があることは古今東西を問わない。長野県白馬村細野の道祖神の小祠に、子授けを願って男女一対の簡素な木偶の道祖神が奉納されている。”
(野洲・湯ノ部遺跡等々の弥生遺跡から出土した木偶。写真にはないが男根を表現した木偶も出土している。これらの木偶は始祖神と考えられる。 安土城考古博物館)
(奈良・観音寺本馬遺跡出土の縄文時代の石棒は男根を意味するが、これが祖先神を意味するか、やや不詳なるも祭祀に使われていたことは明らかである。)
(長野県白馬村細野・木俣(木偶)道祖神 出典:荻原秀三郎著『神樹』)
以下、当該ブロガーの所感である。何度も同じようなことを記述し恐縮である。ここまでくると雲南省や北タイの少数民族と倭族(日本人)は皆兄弟との想いを強くする。
アカ族の集落入口の鳥居状のゲートは結界そのものであり、その根方に立つ男女交合像は、我が道祖神と同じでまさに厄除けと子孫繁栄を祈願する木偶である。
この木偶は人間の手が加えられているが、白馬村のような木俣道祖神と呼ぶべき自然木の木偶は無いものかと種々検索していると、それが存在したのである。その自然木の木偶は、チェンライ県のアカ族村に以下の写真のように存在していた。
これは何だ!との第一印象である。これは東近江でみる山ノ神に似ているというよりそのものであり、白馬村の木俣道祖神そのものでもある。
上に掲載した写真は、東近江の山ノ神である。日本では山ノ神と田ノ神更には塞ノ神や道祖神と習合した。いずれにしても雲南や北タイ小数民族の風俗・風習と日本のそれが、似ていると云うより構成する要素が同じである。かつて中尾佐助氏は東亜半月弧における照葉樹林帯文化は日本古来の文化と同じであると論破された。発酵食品や餅、豆腐、赤米を食すなどの食文化に始まり、多くの事柄が共通するという。それが先述の如く精神文化に至るまで共通であることは、かの民族と日本人の本貫の地は同じか隣接していたと考えざるを得ない。
個人的な話であるが、仕事の関係で北タイに赴任して以降、彼の地の人びとや土地に愛着を感ずる背景が存在したのである。
<了>
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