縄文人の定住と土器の革命
安田教授は以下のように記されている。”縄文人は16500年前に土器革命をなしとげ、15000年前には定住革命をなしとげていた。この土器革命と定住革命が縄文時代の開始を告げる人類史的事件であり、世界に先駆けた技術革新であった。
この時代の日本列島は世界の先進地域であった。縄文時代草創期の土器の厚さは5mmほどである。中国の玉蟾岩遺跡の土器の厚さは1cm以上であった。この時代にエジプトやメソポタミアでは、まだ土器をつくる技術を知らなかった。
(縄文土器群・京都市北白川遺跡:鏃などと共に展示されている土器群、写真でも薄造りが分かる)
縄文土器は3000年前に弥生時代に転換するまで、13000年の長きにわたって土器作りは永続した。縄文文明は世界の中でもっとも長命な文明である。それは縄文人が温帯の森の資源、海の資源を破壊しつくすことなく、最大限に循環的に利用し、永続的に生きる技術を世界に先駆けて開発したことを物語っている。
世界に先駆け土器革命を成し遂げたことは、縄文人たちが汁物を主食とする食事体系をもった文明を生み出したことを物語る。世界に冠たる最先端のハイテク技術であった。
地球上のほかの地域において都市文明が誕生した5700年前の縄文時代中期には、青森県三内丸山遺跡のように縄文型都市が出現しており、縄文文明も都市文明と呼んでも良い文明段階にはいっていたのではあるまいか。
エジプト(ナイル)文明やメソポタミア文明が出現する直前の、メソポタミア南部低地やナイル川の低地は、きわめて低い生活レベルにあった。インダス川流域においては、細石刃を使う中石器時代の段階にとどまっていた。しかし、日本列島においては、注石器時代は15000年前に終了し、新石器時代の縄文時代にいち早く入っている。突然、中石器時代にも等しい生活レベルから、都市文明の段階に突入したインダス文明に比べて、高い新石器文化の発展を背景にした縄文型都市の出現は、はるかに高度な機能をもっていたにちがいない。
1960年代、福井県鳥浜貝塚からは大量の鹿角斧が発見された。これは浙江省・川姆渡遺跡から発見されたものとまったく同じであった。
(鹿角用具類)
(桜町遺跡)
最近では富山県桜町遺跡の木造住宅の構造も姆渡遺跡と同じ方法で作られていることが明らかとなった。縄文人が日本列島のみでなく、日本海さらには東シナ海に漕ぎだし、長江下流域と交易をおこなっていた可能性がある。縄文時代中期の山形県中川代遺跡からは、長江文明を代表する玉鉞(ぎょくえつ)と同じものが発見されている。長江文明と縄文文明との間にも、深い交流があったものと安田教授は見做している。さらに縄文時代中期以降盛んとなる抜歯の風習は、中国大陸から伝播したものであり、4200年前の気候寒冷化を契機として、中国大陸から人と文化の移入が確実に存在した。
縄文時代の遺跡から様々な日用品が出土している。しかしその中でないものがある。それは人と人が集団で殺し合うための道具であった。縄文時代に人間同士が大量に殺し合う戦争はなかった。縄文時代はまた、貧富の差が小さな社会であった。「生命の再生と循環を大切にし、人を信じ自然を信じる」これが縄文人の世界観の根幹を形成するものだった。
これと対照的なのが、「万人が万人を疑う」畑作牧畜文明である。その疑いをはらすために契約が必要であり、契約のための文字が必要となった。そして自らの身を守るために金属の武器が必要となった。家畜を追っての移動のために宝物はたえず身に着けておく必要があり、敵の来襲にそなえていつでも逃げる準備が必要だった。そしてほかの場所に移動しても交易可能な普遍的価値をもつ威信財として、持ち運びに便利な軽量な金銀財宝の装飾品を発展させた。しかし、「万人が万人を信じた」縄文時代の社会では、契約や武器や金銀の装飾品など不要だった。
縄文人は主要なタンパク質を魚介類から摂取した。川や湖それに内湾の魚や貝をとることが重要な生業であった。ヒツジやヤギを飼い牧畜を行う畑作牧畜民の人々とは、根本的に行動パターンが相違していた。縄文人は水の空間に慣れ親しみ、水の空間との深い関係の中で暮らしてきた。この水の空間をライフスタイルに取り込んだことは、そののち水の循環系を維持する稲作漁撈文明をスムーズに受け入れる重要な素地を形成した。縄文人にとっては水の空間は恐怖の対象ではなく、豊穣を約束する豊かな空間であった。それは「ノアの大洪水の神話」に見られるように、水を恐怖の対象とみなした畑作牧畜民のライフスタイルとは大きく相違するものであった。”・・・以上である。
現代社会において人と人が慈しみあい、自然と調和する循環型社会の実現は夢想であろうか。
<続く>
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