世界の街角

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稲作漁撈文明(拾弐)

2021-08-18 06:52:47 | 日本文化の源流

楓香樹を祀る民族

以下、安田教授の著書からの抜粋である。”苗族にとって楓香樹は民族の生命世界の根幹を司る宇宙樹である。楓香樹でつくった蘆笙柱を集落の広場の真ん中に立てる。蘆笙柱は苗族の生命の木であり、そこは宇宙の中心なのである。蘆笙柱の先端には鳥や太陽がついている。鳥は太陽の昇る東方を向いている。中段には水牛の角をかたどった木製の角がついているものもある。

苗族では13年ごとに祖先を祀る枯葬節という祭りを行う。その時に多くの水牛が犠牲にされる。鼓社と呼ばれる祭りには、楓香樹を刳り抜き水牛の皮をはった木鼓がつくられるという。そして木鼓と竹でつくった笙と青銅の銅鼓のにぶい音色にあわせて、着飾った若者が、蘆笙柱の周りを回りながら、踊りあかすのである。銅鼓の中央には、コロナの長いオスの太陽紋とコロナの短いメスの太陽紋が彫金されている。

(ハノイ国立博物館:ドンソン銅鼓)

(ハノイ美術博物館:ドンソン銅鼓)

(ドンソン銅鼓に雌雄があるとは夢にも思わなかった。安田教授著・『稲作漁撈文明』にはコロナの長さで雌雄に区別できると記されている。過去半年滞在したハノイの写真を検索すると存在していたのである。この雌雄の別と役割・意味付けについては記されていない。物事は漫然と見ていたのでは何もわからない事例であった)

苗族には楓香樹の神話も語り継がれている。「祖先が黄帝の子孫と戦って敗れ、頸をはねられた。その頸が飛んでいったところに、楓香樹が生え、祖先の赤い血が楓香樹の真紅の紅葉になった」と云うのである。苗族は楓香樹の子孫であり、その樹木を自らの民族の生命的世界の根幹に置く民であった。

城頭山遺跡から出土した木材片は人工的に加工されていた。その大半が楓香樹であった。楓香樹を多用して崇拝する民族は苗族であった。城頭山遺跡を始め、長江文明の遺跡からは文字が発見されていない。雲南や貴州の苗族もまた文字をもたない。文字の変わりに苗族の人たちは、約束事を取り決めた時に残すのは竪岩と呼ばれる石である。竪岩をたてて、約束を守ったのである。

城頭山遺跡の東門の背後から、6000年前の祭壇が発見された。その祭壇には埋葬された人骨4体とともに、高さ20~30cmの石が円形の凹地の内部から発見された。城頭山遺跡は黄土台地にあり、このような石は遠方の麗水の河原まで出かける必要がある。この石は苗族の竪岩と同じ意味を持たすため、運ばれてきたと考えられる。”・・・以上である。

かつて百越と呼ばれた人々の中には、太陽や鳥を崇拝し、楓香樹を崇拝し、水牛を生贄にする苗族やイ族などの少数民族の祖先が含まれていた。長江文明は非漢族の百越の民によって作られた文明である。

城頭山遺跡の時代から約4000年経過した秦―前漢への混沌期に『百越』の人々が勇敢であったことを記す記事がある。『史記・項羽本紀』は以下のように記す。“鄱君呉芮率百越佐諸侯、又從入關、故立呉芮為衝山王”(“鄱君呉芮(ごぜい)は百越を率いて諸侯を佐(たす)け、また(項羽)に從って関に入る、ゆえに呉芮をたてて衝山王(しょうざんおう)とした)。

呉芮は百越を率いた。百越とは既に述べたように呉越以南の種族のことであり、福建を閩越(びんえつ)、広東を南越、ベトナムを越南と呼んだ種族である。つまり百越の民は勇猛果敢で最強であったことになる。その百越の一派が渡海して日本列島にやってきた。安田教授はそれを称して『稲作漁撈民族征服王朝』説も存在するであろうと記されている。それなりに一考を要すであろう。

<続く>

 



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