――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― シリーズ(1)
荻原秀三郎氏の著作である「稲と鳥と太陽の道」を興味深く読んだ。目から鱗の一節も存在した。そこでこれはと思う一節を当該ブロガーの所感を交えながら、シリーズで紹介する、その一回目は『吉野ヶ里の一本柱は芦笙柱か?』とのテーマで記述する。
先ず、著書の表紙写真を御覧願いたい。以下の一文が記されている。“古代の天の鳥舟や八咫烏の伝承は、船の舳先や柱(神杆)にとまった鳥が、つねに未知の険路の先導役をつとめたことを示している。鳥は高い竿にとまり、柱や梢の先にとまり、遠くの未知の世界を予知し、他界への案内役を引き受けてくれる。私は吉野ヶ里遺跡の一本柱の上に霊魂の運び役としての鳥が止まっていた可能性を捨てきれずにいるのである。さらにその柱は墳丘墓築造以前の集落中央広場にすでにあった柱を継承したものと推理している。”
(吉野ヶ里遺跡の一本柱)
(北タイのラック・バーン:パロン族村にて)
当該ブロガーは、芦笙柱と云うよりも北タイで見かけるクニの柱(サオ・インターキンないしはラック・ムアン)やムラの柱(ラック・バーン)と同じように、土地神の依代と考えている。吉野ヶ里でこの一本柱を見たときは、中国西南部や北タイの少数民族はタイ族を含めて、倭人と親縁関係にあろうと考えていた。
当該シリーズで後程・別途説明するが荻原秀三郎氏は、倭に稲作を伝播したのは苗族(ミャオ)であったと仮定しておられる。苗族の村の広場に立つ芦笙柱、その天辺には鳥がとまる。氏によれば、それは野生のニワトリ(白寒鳥・苗語でノンソウ)だが、村によって鳳凰を象ると云う。
(貴州省融水苗族自治県の芦笙柱を立てる:新華網ChinaNewsより)
(融水自治県県都広場に立つ芦笙柱モニュメント:グーグルアースより)
つまり、この芦笙柱のように吉野ヶ里の一本柱の天辺に鳥が象られていたであろうとの指摘である。う~ん。ロマンを感じるが果たしてどうか?吉野ヶ里の一本柱は柱跡の痕跡から想定復元されたもので、柱は出土しておらず、ましてや天辺の鳥肖形も出土していない。
北タイのラック・ムアンと同じように柱だけとも考えられるし、鳥が載っていた可能性も考えられる。ここは氏の指摘されるように、芦笙柱であった可能性の余韻を残しながら次回に続けたい。
<続く>
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