昨8月27日、所用にて県西部へ行った。所要が終了したのは中途半端な時間で、持て遊ぶと云えば語弊があるが、時間がそれなりにあったので、そこから27kmの萩市須佐町の萩市須佐歴史民俗資料館へ行ってみた。そこは本館の「みこと館」と別館の「益田館」で構成されていた。「みこと館」から紹介するが、そこは写真撮影禁止で「益田館」は、撮影okという奇妙な取り合わせであった。従って「みこと館」の展示内容は、パンフレットでしか紹介できないが、2葉のみ、公式ブログより借用した。
パンフレットでは、良くわからない。当該ブロガーの興味にそって展示内容を紹介する。当該歴史民俗資料館が建つのは、毛利家永代家老益田家敷地である。この益田家で個人的に興味があるのは、20代元祥(もとよし)と幕末の33代親施(ちかのぶ)である。
益田家は藤原鎌足17代を始祖とし、益田(島根県)七尾城の城主であったが、戦国時代に至り益田家20代元祥(もとよし)は、毛利に加担することにした。慶長5年(1600)関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元は、中国8ケ国から防長2ケ国に移封された。家康から元祥(もとよし)に対し旧領安堵し、大名に取り立てるとの誘いを断り、毛利氏に従って須佐に移り、近隣7ケ村1万2千石の領主となった。益田家は毛利一門八家に数えられ、萩藩の藩政に重きをなすことになる。元祥は毛利藩の筆頭家老として、萩城の築城や財政の安定等、藩の建て直しに力を尽くし、それ以来、益田家は毛利藩の家老を代々勤めた。
中央は毛利元就肖像画、右端に途切れて写っているのが元祥(もとよし)の騎乗像である。
幕末最後の家老33代親施(ちかのぶ)は、京都禁門の変(蛤御門の役)の後、第1次長州征伐が起きて、その責任が毛利藩主に及ぼうとしたので、その責任を負って元治元年(1864)11月12日、徳山の惣持院で切腹し、悲劇的な最期をとげることとなった。高杉晋作は例外的に上級武士であるが、明治の元勲はおしなべて下級武士の出自である。それらの元勲にはスポットがあたるが、親施(ちかのぶ)のような上級武士の存在なしには、幕末・維新は語れない。薩摩では上級武士の犠牲者はいないであろう。長州は耐えに耐えよくやった。”あっぱれ”。
<続く>
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