世界の街角

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庵寺古墳の被葬者は騎馬民族?

2020-01-21 07:58:41 | 古代と中世

考古学・文献史学・文化人類学の学者各氏は、十分な証拠がなければ語らない。それに対し当該ブロガーなどのアマチュアというより素人は気楽なものである。以下、眉唾とは云わないが、その類の噺である。

島根県大田市仁摩町大国の庵寺遺跡は弥生時代後期から古墳時代の遺跡である。山陰道工事に先駆け、発掘調査された。そこから写真の遺物が出土した。

(島根県埋蔵文化財情報誌・まいぶん より転載)

見ると割れた銅鏡、折り曲げられた刀子が出土している。このような刀子は松江・鳥取・京都府北部等の日本海沿岸の古墳で出土している。

この折り曲げられた武器は韓国慶尚南道・金海の大成洞古墳から出土する北方民族の習慣で、馬具や騎乗用の甲冑類と共に出土している。

つまり、騎馬民族が渡海してこなければ、馬具や甲冑の出土は有得ない。その騎馬民族は朝鮮族とは異なると考えているが(別途考察したい)、金海の大成洞古墳と同じ習俗に注目したい。

庵寺遺跡は、渡海して来た騎馬民族ないしは、その後裔が埋葬されたものと考えている。尚、当地から5kmほどのところに、韓神新羅神社が存在する。韓国東岸からの潮流にのれば、旧石見国に達する。前述の空想は捨てたものでもなかろうと考える。

<了>


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2 コメント

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Unknown (馬の骨)
2020-02-29 22:21:30
大成洞古墳といえばたしか金官伽耶国の王墓と見られていたと思います。金官伽耶は紀元前2世紀頃から、倭国の有力豪族が出向いて1次加工された鉄の板を日本へ輸入するための基盤を作って来た重要な場所です。
そして4世紀初めは、大陸では八王の乱をきっかけに鮮卑系が台頭してくる時代で、その戦いにおいて騎馬戦が鍵を握っていたことはいうまでもありません。
西晋の八王の乱・五胡の進入の混乱に乗じて313~314年に、それまで半島を支配下においていた楽浪郡や帯方郡が高句麗によって滅亡されます。その400年間も続いた漢四郡の支配から解放されたことで、半島南部では4世紀半ばに百済や新羅という国ができてきます。それにともない倭国も弁韓地域での鉄の利権を確保しようと今まで以上に積極的に出向きます。
したがって、日本海側から出土する鉄は半島から出る鉄の利権を元に出雲系の豪族が積極的に交易していたという証拠ではないでしょうか。そして馬や馬具についてはそういう世情から最新式の武器として、馬の重要性を倭国の豪族も十分認識し始めた頃で、その後4世紀末位から5世紀初めに日本列島へ大陸の馬がもたらされます。
したがって騎馬民族が来たのではなく騎馬民族の方式を取り入れたのだと思います。輸入後に馬の世話係として渡来人を呼び寄せたかもしれませんが。
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Unknown (世界の街角)
2020-03-02 14:11:59
馬の骨さん
貴重なご意見ありがとうございます。江上波夫氏の騎馬民族渡来説は否定されていますが、なにかロマンを感じています。やはり騎馬民族は遣って来た説に魅力を感じます。
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