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倭に稲作を伝えたのは苗族であろう

2020-11-23 08:32:27 | 日本文化の源流

――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― シリーズ(7)

“我が国の稲作文化の淵源と考えられる中国の南托遺跡や河姆渡遺跡には、稲作文化の複合的要素として太陽と鳥の信仰があった。その太陽信仰は、東に昇る太陽を尊ぶ東方崇拝や、民俗方位感覚としては東西軸重視の思想を展開させる起点となった。

苗族を含む殷の東夷族は東向きを吉とし、殷墟の早期住居址は東西向きの家屋が多い。そして殷人から太陽信仰を受け継いだ楚人は、日の昇る東位を最高とし、日神を『東君』と云って崇めた。高位者は自ら日と対面して東向きにすわり、楚国公族は墓も死者の頭位の同じ東向きにした。

ことに、私(荻原秀三郎氏)が我が国に稲を伝えた民族と仮定する、楚の先住民苗族に、東方崇拝は顕著である。田植えは東から始められ、木は東に倒され、最大の先祖祭である鼓社節での木鼓は東西に引かれ、死者は西枕で脚を東に向けてすぐにでも東方の他界に旅立てるように埋葬される。稲を育む太陽の昇る東方に・・・。“

日輪信仰と云うか太陽崇拝は大和盆地に存在した形跡がある。それは纏向遺跡の東西軸の建物配置である。これをもって東西軸を基調とする太陽崇拝の民・苗族が渡海してきたとする根拠には直接つながらないが、太陽崇拝の人々が存在したのは間違いないであろう。

さらに次のようにも記されている。“日本に稲をもたらしたのは苗族を主流とし侗(トン)族ほかいくつかの少数民族をともなった集団であると考えている。苗族ほかは山東半島から朝鮮半島西部に稲を伝えた後、さらに温暖・湿潤な気候風土を求めて、半島南端より海洋漁撈民の水先案内で北・西部の九州に渡ったものであろう。渡来した半島の漁撈民の一部には、そのまま居残るものもあったかもしれない。

苗族の習俗の中には、朝鮮半島にはなく日本にはあるものが少なくない。稲を保存する高倉、高床式住居、チガヤを稲に見立てる田植え、正月の神、正月の餅つき、羽根つき、竹馬、下駄、チマキ、ナレズシ、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼などである。これら苗族の習俗には、苗族のふるさとの中心を占めたと考えられる雲夢沢①の風土と無関係とは考えらないものが多い。苗族は春秋戦国の相次ぐ争乱を逃れて、山東半島より朝鮮半島へ渡ったが、朝鮮半島の乾燥した気候や冬の寒さに馴染めず、日本へ渡ったのではないか。“

以下、小異を唱えるようで恐縮である。山東半島から朝鮮半島経由は存在したであろうか? 苗族などが伝えた稲作の痕跡が山東半島に存在するのか? 氏が日本へ至った経緯の理由として掲げられている、寒さを逃れての南下。やや無理があるように思われる。楚国より、列島に直接渡海ないしは、朝鮮半島南部経由と考えたい。尚、朝鮮半島南部には高床式米蔵(穀物倉庫)は、氏の記述とは異なり存在した。下の写真は紀元前後で韓国・金海国立博物館展示品である。存在したことを如実に物語っている。

どううでもよさそうなことを追記した。さて苗族について思うことである。過去に記したように、タイ北部ランプーン工業団地のM社に出向した際、苗(Hmong)族のC氏に初めて出会ったが、顔かたちが日本人そっくりであった。それ以降より苗族には関心を抱いているが、荻原秀三郎氏が記されるように、倭に稲作を伝播したのは苗族であろうとの記述に接したときは、やっぱりとの嬉しさと共に、ほんまかいなとの疑問も湧き出た。果たしてどうであろうか。

 

注)雲夢沢(うんぼうたく):古代中国の湖北から湖南にかけての大湿原地帯、すなわち楚の領域。

<シリーズ(7)了>

 


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