――荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』―― シリーズ(8)
以下、荻原秀三郎氏の著述の引用である。“集落の縁辺部の濠や小川などの湿地に残った小型の鳥とは別に、集落の中心部の柱の頂に大型の鳥があったと想像している。吉野ヶ里遺跡では、南内郭部の入口に門を復元し、門の上に鳥をとまらせている。吉野ヶ里から鳥型木器の出現はまだないものの、周辺の遺跡からの出土例が多く、推定して復元したという。首長墓前の柱も復元されているが、頂に鳥はない。”
(吉野ヶ里遺跡南内郭入口の門)
弥生時代の鳥形木器・鳥竿ないし鳥霊信仰に関して、ほぼ定説化しているのは、田植えのころ、先祖霊の形をして飛んでくる鳥が、先祖の国から穀霊を運んでくるのだという。それに対し荻原秀三郎氏は、それらの説では鳥竿の『竿』の部分が説明できないとして、“鳥はむろん重要にちがいないが、竿・柱の部分が時にはもっと重要ではないか。祖霊、神霊、穀霊に限らず、およそ霊魂が依りつくのは柱である。我が国の民俗例として鳥竿を思わせるものとしてケンケト祭がある。鳥鉾は鳥霊の『依代』である。鉾の上には鷺がとまり、その下に稲風呂といって稲穂を象る御幣が枝垂れる。これを奪うと豊作や家内安全の祈願がかなうのであろう。”
(びわ湖芸術文化財団HPより)
このケンケト祭りの鳥鉾は、祭りの際のものであるが、これが定置されているのが朝鮮半島南部の鳥竿(ソッテ)である。ケンケト祭りの鳥竿は、ソッテの影響を受けたものであろう。
以下、邪推であろうが、ケンケト祭りの鳥鉾が存在することをもって、吉野ヶ里の一本柱の頂上に鳥の肖形が存在したであろうとの判断は遠謀すぎるきらいがあるがどうであろうか。
<シリーズ(8)了>
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