世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

橿原考古学研究所付属博物館(23・最終回)

2022-05-23 08:52:09 | 博物館・奈良県

<続き>

橿原考古学研究所付属博物館展示の品々を、長きに渡り紹介してきた。今回で最終回である。

体系立てて展示されているのは、理解しやすく有難い。次の展示は5世紀の出土遺物で時代は、棺桶の時代より1世紀遡る。

御所市南郷大東遺跡から木製の導水施設が出土した。橿原考古学研究所によれば、覆屋の中で水の祭祀が行われていたとする。結論を先に記せば、これは囲形埴輪の導水土製品と極似していたことから、殯所(ひんしょ・もがりどころ)における遺体洗浄に関わる施設(ココ参照)と考えられる・・・と云うことで、この木樋が橿考研付属博物館でみることが出来たのは幸いであった。

<連載・了>


橿原考古学研究所付属博物館(22)

2022-05-22 09:26:24 | 博物館・奈良県

<続き>

橿考研と云えば種々思い出すが、その筆頭はやはり藤ノ木古墳の発掘と、国宝に指定された出土品である。複製品と実物が織り交ぜて展示されていた。

(龍文飾り金具)

上掲写真の出土品は、いずれも実物で国宝に指定されている。以下は復元品の紹介である。

王冠は、別途文様等々について、機会を設けて記事にしたいと考えている。王冠は権威の象徴であるが、構成するパーツの文様から種々みえてくるものがある。

(金銅製飾履)

これらの権力者の持ち物である金銅製品が、ヤマトから出土するのは、日本海側の古墳・遺跡から出土する時期に比較し半世紀以上遅い。少なくとも半世紀以上前までは、強力な豪族が各地に存在したかと思われる。

<続く>


橿原考古学研究所付属博物館(20)

2022-05-19 09:17:29 | 博物館・奈良県

<続き>

今回は、新沢千塚古墳群から出土した遺物を中心に紹介する。先ずは著名な109号墳出土の金製垂飾付耳飾りからである。

この垂飾付耳飾りは、韓国南部洛東江西岸のモノと深い関係があると、かねてより喧伝されている。新沢千塚古墳群は伽耶の地から渡来してきた有力者が埋葬されていたと考えられる。

紹介した展示遺物をみていると、朝鮮半島南部から騎馬民族に繋がる人々が、渡来してきたであろう。或いは彼の地にいたとされる倭族が、騎馬民族の風習を持ち込んだのであろうか。

<続く>


万九千(まんくせん)神社の謎 ―日本古代の道教(其之四)―

2022-05-18 07:47:25 | 古代日本

<先週水曜日の続き>

島根県出雲市斐川町併川(あいかわ)に万九千神社が鎮座している。松本司氏は『古代遺跡・謎解きの旅』なる著書で万九千神社について、以下のように記述されている。

万九千神社には、本殿はなく磐座が鎮座しており、そこから南東方向を望むと大黒山―高瀬山の山塊を望むことが出来る。その中央部は鞍部となっている。大穴持(大国主命)の大穴であろうか。鞍部は聖なる空間であろう。万九千神社に本殿はなく、大黒山―高瀬山の山塊を神の宮のある処、すなわち宮処として拝するものであろう。拝殿の壁の中央に、嵌められた菱形の窓が在る。そこからは大黒山―高瀬山山塊の鈍角のV字型の鞍部が望める。吉野裕子さんの『日本古代呪術』では、この菱形は女陰の造形であり、生命が籠り生命を生み出す『穴』であるという。以上である。

現地に立てば、なるほど南東方向に山塊の鞍部を望むことができる。松本氏はこの鞍部が聖なる空間であると記す。それは大黒山と高瀬山は神体山で、鞍部は陰陽の霊力が籠る処だと記されている。ホンマかいな・・・と思わなくもない。

万九千神社の創祀、創建は定かではなく、奈良時代に編まれた『出雲国風土記』や平安時代の『延喜式』にみえる「神代(かむしろ)社」が、のちの「万九千社」にあたると伝えている。少なくとも約1300年前にさかのぼることができるが、大黒山と高瀬山の鞍部が、聖なる空間との認識が存在していたのかどうか。

(遷宮前の旧・拝殿 白丸の中に菱形の窓を認める

(拝殿後部の板垣の上方に見えるのが磐座)

また拝殿から磐座を仰ぐところに、菱形の窓があると記されている。万九千神社の拝殿は建て替えられ、2014年10月に遷宮が行われている。その新しい拝殿に菱形の窓はない。

(遷宮後の拝殿に菱形の窓はない)

確かに旧・拝殿には存在していた。しかし、松本氏が述べられるように、菱形の窓が神社の縁起上、最重要であるとすれば、新・拝殿にもそれが踏襲されてしかるべきだが、それはない。う~ん。やや無理筋の見解かと思われる。

尚、ここでは万九千神社と記したが、当該社のHPでは、万九千社と記されており、それが正式呼称のようであることを付記しておく。

<次週水曜日に続く>