世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

橿原考古学研究所付属博物館(19)

2022-05-16 09:05:03 | 博物館・奈良県

<続き>

今回は、鳥形木製品から紹介する。このような木製品が出土することより、弥生時代に続いて『鳥』は、外部からの侵入者を監視するとの目的が継続していたことを示している。この鳥形木製品は初見である。

古墳時代後期・6世紀 橿原市四条9号墳

この手の鳥の肖形は、極稀に埴輪にも存在する。過去に紹介した和歌山市大日山35号墳(弥生時代後期・6世紀)出土の鳥形埴輪(ココ参照)である。

以下、三宅町石見(いわみ)遺跡(古墳時代後期・6世紀)の埴輪である。先ずは著名な椅子に座る男子埴輪の写真から掲げる。

椅子に座る男子埴輪

馬型埴輪は、豪華とでも言いべき馬具を装着している

下に掲げた埴輪は、石見遺跡出土品ではなく、周辺の古墳から出土したものである。

前列左:巫女埴輪 平群町・烏土塚古墳 古墳時代後期・6世紀

前列中央:家形埴輪 三郷町勢野茶臼山古墳 古墳時代後期・6世紀

前列右:巫女埴輪 三郷町勢野茶臼山古墳 古墳時代後期・6世紀

椅子に座る男子埴輪は、それなりの権力者である首長クラスの人物が考えられる。石見遺跡はそのような遺跡であろう。

<続く>


山口・北九州の古代関連施設を巡る

2022-05-15 05:38:10 | 旅行

Covid-19のせいでフラストレーションが溜まっている。タイ王国は渡航条件を緩和したようだが、最近の急激な円安で行くに行けない状態である。

過日、王塚古墳と竹原古墳の装飾壁画が見たく、北九州へ行ってみることにした。合わせて途中の山口の古代関連施設も巡った。ここでは行先を紹介し、個々の内容については後日紹介したい。先ず行先は下のGoogle Earthにプロットしておいた。

〇山口大学埋蔵文化財調査室 入館料:無料

鉸具(かこ)とは帯金具の一つである。いわゆる騎馬民族の腰ベルトの金具の一つ。山口大学構内の遺跡から出土したもの。

〇山口県立山口博物館 入館料:無料

このようなほぼ完全な姿の、縄文時代の磨製石器製石刀は初めてみた。

〇下関市立考古博物館

縄文土偶のごとき弥生期の土人形。顔の刺青は渦巻きか、太陽を示すのか?

〇忌宮神社

仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武内宿禰については、別途記事を紹介したい。

〇王塚装飾古墳館

王塚古墳の装飾壁画は、期間限定の公開で通常は目にすることができない。装飾古墳館には原寸大で、それが復元展示されている。”これを見たかった”。写真は、前室から後室を見た1コマである。

〇飯塚市歴史資料館

写真は、立岩遺跡出土の甕棺群の一部である。あまりの量の多さに圧倒された。

〇竹原古墳

ガイドのオジサンに確認すると、内緒で写真を撮っても良いとのこと。当該ブログでばらしてしまった。よって、その写真を掲載する訳にいかないので、複写図を掲げておく。この壁画解釈は百家争鳴である。別途、その解釈論に陰ながら参加したい。

〇宮若トレッジ

竹原古墳の原寸大復元石室が復元され、壁画を身近に見ることができる。それらはいずれ紹介するとして、古墳に埋納されていた馬具類が展示されていた。騎馬民族は遣って来た。

〇福津市歴史資料館

写真の蛇行状鉄器は、東のさきたま古墳群からも出土しているが、福津市の手光古墳群からも出土しているとのこと。完全な姿で出土しており、まさかココで見れるとは。

〇海のみちむなかた館

飾履は牟田中浦古墳群から出土とのこと。腐っても鯛とは、失礼な表現であるが、古墳時代でも北部九州は先進地であった証であろう。

〇宗像大社

〇豆子郎本店

帰途、山口の豆子郎本店へ。外郎屋さんである。日本庭園が立派で秋の紅葉も見ものと思われる。

・・・と云うことで、今回は満足な旅であった。後日詳細を紹介する予定である。

<了>


橿原考古学研究所付属博物館(18)

2022-05-12 15:53:30 | 博物館・奈良県

<続き>

今回は、古墳時代中期の古墳から出土した遺物を紹介する。

薬王寺遺跡出土製塩土器

(曽我遺跡出土品)

(曽我遺跡出土品)

(四条2号墳出土埴輪)

(四条2号墳出土埴輪)

(四条2号墳出土埴輪と木製品)

背後に写る木製品は、『さしば』と呼ぶ木製品である。貴人に差し掛けるモノで、首長の存在を物語る。

<続く>


日本古代の道教 ―日本古代の道教(其之参)―

2022-05-11 07:08:03 | 古代日本

<先週水曜日の続き>

道教や陰陽道について、文献上の初出は『日本書紀・継体天皇七年条』にみえる。継体天皇七年(513年)、百済から段楊爾(だんように)という五経博士が渡来し、易経と陰陽五行説を持ち込んだとされている。ここで五経とは、詩経・書経・礼記・易経・春秋である。

前回までに述べたように、神庭荒神谷と加茂岩倉の各遺跡が、冬至の日の出ライン上に並び、神体山の如き大黒山と高瀬山からの距離が、ほぼ等距離である点を考えれば、青銅器が埋納された弥生時代後期に、方位を読む風水(道教・陰陽道)の考え方は、既に伝播していたと捉えられそうである。

冬至とは、“日短きこと極まる”ことで、冬至は一年間で最も日照時間が短く、太陽の力が一番弱い日である。この冬至を境に太陽が力を取り戻す太陽復活の日で、『一陽来復』という。

(大嘗宮)

大嘗祭(新嘗祭)は、太陽の力が最も弱った冬至の日に、つまり太陽復活の日に、新穀を天皇が天照大御神と共に食する、という行為によって天照大御神の霊威を身につけ、天皇の威力を取り戻すことである。大嘗祭(新嘗祭)は冬至祭りである。冬至は北極星が最も長く輝いている日でもある。大嘗祭の最も重要な神事が夜に挙行されるのは、北極星を重視している表れである。

新嘗の語句の初出は、『日本書紀・仁徳天皇四十年条』(4世紀末―5世紀前半)で、“是歳、新嘗の月に當りて、宴会の日を以て、酒を内外命婦等(ひめとねたち)に賜ふ”・・・とある。

文献上の初出について記したが、大嘗祭や新嘗祭が何時の時から宮中で挙行されたのか、仁徳天皇の時代からか、もっと早い時代なのか定かではない。

南郊壇(天壇)

しかし、古代中国では、冬至の日に国都の南郊で天地を祀る祭礼(郊天の儀)を行ったとされている。この儀礼について魏志倭人伝は黙して語っていないが、倭国と帯方郡や魏都との度重なる接触の中で、倭国に伝播したことは想像に難くない。難升米や牛利は魏都で天子が執行する郊天の儀を眼にした可能性も考えられる。

蛇足ながら、魏志倭人伝所載の『一大率』とは何ぞや。大率とは一人の大率という意味であろう。諸国に派遣された検察を目的とした邪馬台国の官僚で、諸国はこの大率を怖れたと記載されている。

重松明久氏によると、この大率は中國・戦国時代(前403年~前221年)の思想家・墨子の『迎敵祠・げいてきし』に出てくという。

『墨子・巻十五:迎敵祠』

凡守城之法、縣師受事、出葆、循溝防、築薦通塗、脩城。百官共財、百工即事、司馬視城脩卒伍。設守門、二人掌右閹、二人掌左閹、四人掌閉、百甲坐之。城上步一甲、一戟、其贊三人。五步有五長、十步有什長、百步有百長、旁有大率、中有大將、皆有司吏卒長。城上當階、有司守之、移中中處澤急而奏之。士皆有職。城之外、矢之所遝、壞其牆、無以為客菌。 以下、要点のみ訳す・・・都城を守るには中央に大将が陣取り、その四方を守るのは大率と呼ぶ方面将軍である・・・と記す。

その大率を邪馬台国が制度化(つまり、この双方の大率が偶然の一致とは考えにくい)している以上、卑弥呼の鬼道は墨子の影響を受けている・・・と、重松明久氏は説明しておられる。

後段に至り、やや?マークじみた記述になったが、卑弥呼の時代に道教や陰陽道について、必要最小限の知識や方位の読み方が伝播していたと考える次第である。

<次回へ続く>


橿原考古学研究所付属博物館(17)

2022-05-09 13:36:44 | 博物館・奈良県

<続き>

今回は佐味田宝塚古墳出土で、著名な古墳時代前期(4世紀)の家屋文鏡を紹介するとともに、南郷遺跡の出土品も併せて紹介する。

古墳時代前期の首長層の家屋を示す図紋で一躍有名である。天蓋(てんがい)と云おうか蓋(きぬがさ)が差し掛けられた高床式建物は、まぎれもなく首長や王の住居をしめすものである。

以下、南郷大東遺跡出土遺物である。パネルには水の祭祀が行われていたとするが、種々の状況より『殯の宮』跡と考えている。

殯の宮説の根拠は『埴輪から見る古代の葬送・前編』ココをご覧願いたい。

<続く>