「幽霊探偵とポーの呪い」アリス・キンバリー
3巻目を借りてきました。
楽に読めます。
日本の最近の時代小説の流れは、アメリカとは無関係かと思っていましたが
よく考えるとシャーロット・マクラウドの推理小説は和田はつ子さんとか高田郁さんの料理シリーズに似ているような気がする。
講談社ランダムハウス文庫にはこうした軽く読める推理小説が多いようで
アメリカも日本も基本は変わらないのかもしれない。
あと、文字が比較的大きめなのもうれしい。
さて肝心な内容だがほかの作品と比較すると、いろいろ唐突な感じが否めません。
だから、登場人物に感情移入がしにくい作品となっています。
蛇足ですがシャーロット・マクラウドさんが亡くなっているとは思いませんでした。未訳の作品が気にかかります。
「メモリー・ラボへようこそ」梶尾真治
梶尾さんの作品の中で読み落としていたもののひとつ。
人の記憶を保管できる機械にまつわる中篇2つが収められている。
正直言って、梶尾さんの作品の中で出来がいいほうとは思えないけれど、好きな作品です。
特に表題作は、気に入りました
似たような話はSF映画で観た記憶がありますが、タイムマシンものと同じで設定の面白さはすぐに普遍化してしまいます。
この作品の面白さは普遍化した設定の中でどうドラマを作っていくかというところに視点が移っている点だと思います。
山口瞳の短編に葬儀のときだけしか会わない男女を描いたものがあったけど、まあ、メモリーラボもそうした設定のひとつだと考えれば、この小説の面白さが見えてくると思う。
先日SPACで上演した「真夏の夜の夢」はシェイクスピアの作品を野田秀樹が日本の話として潤色したものだった。
SPACの作品は鈴木忠がコラージュで売り出したためか、こういういわゆる本歌取りの作品が多い。
しかし、こういう作品の作り方は今の時代には合わないのではないかと最近思うようになった。
自分が高校生のころには、チェーホフやシェイクスピアを読むのは一般教養だった気がする。本屋の文庫コーナーへ行けばシェイクスピアの戯曲が平積みされていた。
つまり、高校生ですら元作品を教養として受け入れていたという時代だったのだ。
まあ、観客層を見れば60台もかなりおられたようなので、残滓はあるにせよ、そろそろもう一度新しいオリジナルを作り出す時期は来ていないだろうか?
それがどういう形なのかは自分自身にも見えてはいないのだが。
東北大震災や経済の疲弊など日本がどんどんだめになっているいまこそ文化を復権させていくことがこの国の未来を作ることだと思うので、新しいオリジナルの方向性を手探りしないといけないと、自分に言い聞かせている今日この頃なのだ。
もうひとつの問題点
シズカン関係者と話をしていて驚いたのは、大学生がとても貧乏になっていて2000円の飲み会すら成立しないというのだ。
電話代がかかるのか、ほかにもいろいろかかるのか。飲み会する成立しないのでは、本や舞台にお金をかけることは難しいだろう。
貧乏なら図書館の本でもいいので読んでもらいたいものだが、ゆとり教育の弊害からか本すら読まなくなっている気がする。
さらに、ゆとり教育の見直しが極端な方向にぶれてバイトもできないほど大学生のカリキュラムがぎちぎちになっていて、授業もサボれないという状況を聞いて何かが違うような気がするのは私だけなのだろうか。