では、「江川坦庵公「世は明け、我は今翔ぶ」」のどこがめちゃくちゃだったのか、というと、47分の1幕で数え切れない舞台転換があったことがまず上げられます。
実際の演技を見ている時間は、30分もなかったかもしれません。
大量の黒子が巨大な舞台装置を、あっちへころころこっちへころころ、演技を見ているのか、舞台装置の移動を見ているのか分からなくなります。1場面の台詞が15行ぐらいずつしかなくて、それが終わると装置が大移動するのです。
それから音楽です。転換のたびに生演奏が入りますが、せっかくリバウンディングマイク(足音を消して声だけを拾えるマイク)を使っているのですから、演奏なんかやめてその間も演技を続ければいいのです。
演奏の使い方も問題ありでした。
特に最初の演奏者の登場の仕方は、最悪でした。
なぜ、脇の扉からなのでしょう。
なぜ、スポットで追ってしまうのでしょう。
なぜ、マイクを使うのでしょう。
特にマイクを使ったことで、鼻息しか記憶に残っていませんし、最初は録音に形だけ合わせているのかと思いました。
生音で、黒子にちょうちんでも持たせて、登場すればまだ見場がよかったのに。
だいいち、なぜ、あの笛の独奏が最初に必要だったのでしょう。
まったく理解不能です。
脚本はこういう混乱を作った元凶です。
とくに、江川を褒め称えるだけの狂言回しの二人組みがいけません。
特に息子の扱いにひねりが足りません。
「父はすばらしいひとでした」ではなく
「私は父を憎んでいました」だったら
「私は父に殺されるところだったのです。でも、私も妹も拒むことは出来なかった」と台詞が変わってきます。
「領民のため。父はいつも正しい。でも、子供に必要なのは、自分を一番に考えてくれる親ではないのでしょうか。だから、あの、天城の百姓女が大寒屋敷に駆け込んできたとき、私はびっくりしたのです」
と、私なら書くかもしれません。
称えるだけでは芝居にはならないのです。
書き出すと全部注文が着いてしまいます。
エネルギーをこんな形で使いたくないので、この作品についてはこれ以上書くのをやめようと思います。
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