真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

海のトリトン

2007年02月24日 00時50分23秒 | ふしぎなメルモ
当時の事情を知っているのはごくわずかの人であり、証言できる、手塚先生側の人間はほとんど、生き残っていない。

 手塚プロ映画部部長であった鈴木紀男さんは、海のトリトンでは制作担当でアニメーションスタッフルームに在籍したが、その後一人車中で亡くなられているのが発見されルト言う不幸な出来事も起きた。

 悔し涙を流し、何も語ろうとしなかった手塚先生も、今は永久に語ることが出来ず、元手塚プロ社長の島方さんも何も語らず最近亡くなられてしまった。

 ふしぎなメルモの制作が終わり、そのまま海のトリトンの制作に入っていたため、いつもならふしぎなメルモの打ち上げを、当然行なわなければならないのであるが、その予定が立たないまま 「海のトリトン」の制作をしていた。

 「海のトリトン」は、手塚先生原作「青いトリトン」をテレビアニメ用に、手塚先生の絵コンテで、パイロットが作られた。
 当時のことを手塚プロの小林さんや、吉村さんから、「青いトリトン」のパイロットを虫プロで、2人も作画をした、というお話を伺っている。

 虫プロ営業の西崎さんが、メルモに引きつづいて放送を決めてきた。

「海のトリトン」は私がプロデューサーをして、すべての手配をすることになったが、虫プロから独立したアニメーションスタッフルームという会社が、西崎さんの紹介で、手塚プロに 「海のトリトン」の制作を手伝わせてくれないかと申し込んできた。

 その内容は、「サブと市」の時の、「虫プロとスタジオゼロ」のような関係で、させて欲しいという申し入れであり、手塚先生も、「メルモでは スタッフに余りにも迷惑をかけたので、ひとつ半分はアニメーションスタッフルームでやらせて見て見ないか」と言ってくれた。

 申し入れを受けた。そして手塚先生が絶大な信頼を持っていた、富野善幸さんに、全演出を任せ、手塚先生は富野さんに演出はお任せして、余り口出ししないようにするということであった。

 手塚プロとしてはその申し入れを受けることにした。アニメーションスタッフルーム側のプロデューサーは、私の恩師、W3で制作を教えてくれた 黒川慶二郎さんであった。
練馬の喫茶店で、富野善幸さんを交え、黒川大先輩と3人で今後の作品作りの相談をした。 富野さんの哲学的な話しぶりにには、昔から難解で、学のない私には、理解することが出来ない無い様であったが、その哲学的な話を聞くのは嫌いではなかった、いやむしろ好きであった。

 私は、出来るだけ、富野さんと手塚先生の、演出の意向に協力し、制作としては、予算やスケジュールの面で、演出に協力する形をとりたいと申し出た。しかし、それは 虫プロという温室に育ってきて、外の世界を知らない甘い考え方であった。

 黒川プロデューサーは、早くから世間に出ていた。やはり予算とスケジュールの管理を優先して、ある程度のところで 演出には妥協してもらわなくては、と意見を述べた。しかし、手塚治虫の庇護のもと、手塚プロのプロデューサーということで、 自分の演出中心という意見を押し出し、いま思うと黒川大先輩に対し、なんと甘チャンで青臭い意見を主張してしまったのか、 とても恥ずかしく思う。

 それでも交互の制作は順調に進み1話がスタッフルームで、2話は、永樹凡人さんの演出スタジオジョーク中心の手塚プロで,3話も正延宏三さん演出スタジオテーク中心の手塚プロで 演出補助として私がメルモと同じように手塚プロから撮影出しをして順調に作っていった。6話9話を大貫信夫さん演出、10話は池原成利、イケポンさんにお願いした。

そんな3月末のことであった。 2階で作業をしていたところへ3階から手塚先生が降りてきて「もう私のものが作れなくなってしまいました」というのであった。
 涙ぐんでいて、話の内容がよくつかめず、「海のトリトン」がスタッフルームですべて、制作することになり、手塚プロで制作できなくなったというような内容だと受け取った。

 手塚先生を慰めようと、当時個人で企画していた、エンゼルの丘や、キャプテKEN等があったので、 「いいじゃないですか、こっちの企画を進めて、頑張りましょう」と言ったが、 そうじゃないんです、私の今まですべての版権を、西崎に取られてしまったのだ、と言うのであった。 そして悔し泣きに、血の涙を流していた。

 島方社長に話を聞いた。手塚先生と西崎弘文との契約書がありそれに手塚先生の記名と捺印があって 今までの手塚治虫のキャラクターは、すべて西崎広文個人の物になってしまった。

 だから今後手塚原作の作品を作っても、利益は、西崎個人に入ってしまうので、作れないというのであった。

 裁判になったが、契約書があるので敗訴した。そして手塚治虫は一切そのことを語るのをやめた。

 これまでも、何度もそのような危機があり、そのつど後悔もしたが、まさか今回全幅の信頼をしていた、そのまさか、が現実となってしまい、先生は 己の馬鹿さ加減懲りないことに、自己嫌悪に陥り、トラウマとなってしまった。

 人を信じられなくなり、やたら人の意見にも反発するようになっていった。
この事は、本人が語ろうとしなかったので、余り知られていないことである。

 その後版権を、取り戻すため、手塚プロでは、莫大な費用と時間を使っている。

 まだ解決できないでいるその理由に、生前手塚先生が、版権問題解決のため、西崎の話をしようとしても、烈火のごとく怒り出し、「西崎の名前を僕の前で口にしないで下さい」と怒鳴りつけた。 という噂を聞いた。先生の性格なら当然である。

 そして、坊主憎けりゃ袈裟までで、「海のトリトン」に対して、僕はあの作品には一切関わっておりません、発言となってしまったのである。

 当時そのあたりのことを把握していなかった私は、ほとんどのスタッフを引き取ってもらえるようにアニメーションスタッフルームにお願いした。

また、事情を知った、正延さんは、トリトンの協力を断り、苦しい経営を強いられた。

 世間の常識なら個人が、手塚治虫の版権を保持することなどありえず、譲るなら莫大な費用がかかるはずで、役員でもない一個人の社員が取得するなどありえないことが判る筈ですが、法律とか、そこにいる、裁判とかは、悪人の味方で、言うならば、エリートコースを歩いてきたため常識に欠けてしまった、人格に障害をお持ちになった方ばかり。結果として、悪人の味方をしてしまう。正義は無い、嘆かわしいことです。

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西崎弘文と富野由悠季の謎 (虚しい)
2007-02-27 00:44:32
中日新聞(関東は東京新聞・・・関東は載るのかは不明)
06.12.14 アニメ大国の肖像 54回目「子どもに核心を見せる。」 の 題
54回目は、富野由悠季のその2だが、まあ、虫プロ批判ばかりだ

◇ アニメ「鉄腕アニメ」はひどい出来だった。
◇ 当時虫プロで働いていたのは、映画的センスがない人たち。
◇ 僕は映画的な演出ができる確信
◇ アニメとは言えない電動紙芝居
◇ 僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。
◇ 「アトム」で僕の演出本数が一番になった時は、みんなの視線が冷たかった。

辞めたあと
◇ 脅威的な速さで絵コンテを描いた。
◇ トリトン自ら犠牲となり、敵のポセイドン一族を宇宙に追いやるという
原作の結末は受け入れられなかった。
◇ トリトンがオリハルコンの短剣を使った結果、
海中に住むポセイドンが全滅してしまう。
 <省略>

善悪に絶対はないことを教えるこの最終話を富野さんは自ら書き、
スタッフにひた隠した。
◇ それまでの脚本は原作を元に、好き勝手に話を作っていた。
「お前らアニメをなめるな」
◇ ライターからは恨まれました。

◆◆子どもに物語の核心を示すこと。
この信念が後の「ガンダム」人気にも◆◆

◇ 「ガキ向けの漫画だから」という作り方をしなくて
本当によかったと思いました。

◎内容はまあこんなところだが、手塚さんは生前
富野流に納得したのでしょうか?

アニメ大国の肖像では、西崎弘文のエピソードはなかったはずです。

アニメ評論家も西崎エピソードはなぜか語らないですね

富野由悠季が虫プロイベントに出席して
(アトム40周年って2003年ですね)
http://kodansha.cplaza.ne.jp/hot/anime/00_01/index.html

アトムを語れずに、「さすらいの太陽」演出家扱いですね
返信する
Unknown (真佐美 ジュン)
2007-02-27 02:05:41
 中日新聞の記事は読んでいませんが、実は私にも昨年12月27日に中日新聞社会部の記者Sさんから、取材の申し入れがあり,電話取材という形で、取材を受けました。
私の場合は、ドラえもん関連で、いじめ問題についての取材でありましたが、私は、どのドラえもんもすばらしく、子供に夢を与えている、というような、優等生的な、お答えをいたしました。年が明けて、「申し訳有りませんでしたが、私の力不足で、記事にすることが出来ませんでした」という誤りの連絡がありました。

私の場合ですが、今のドラえもんで、私のドラえもんのときは、もっといじめ問題をきちんとえがいていた、というような、批判的な意見を、聞きだそうとしていた、節が、これは私が感じたことで、相手の方がどのように考えていたかは、はかり知ることは出来ませんが、あくまでそのように感じた、ということです。

 面白くない優等生的な意見では、記事にはなりませんよね。

 記事を手に入れ、今度富野さんに尋ねてみたいです。

トリトンに関しては、当初ディレクターを指名したのは、手塚先生です。相談を受けているので間違いありません。当初の富野さんは、手塚先生の意向を尊重しておりました。
これも10話までプロデューサーとして、一緒に仕事をしていたので、確かです。

 西崎さんには、余りにも出来の良い弁護士が周りについていた、という事と、訴訟がうまい、など恐れられていましたよね。(西崎に逆らうと訴えられるぞなんて)バックにある、宗教団体がついている、という噂も。また札びらで相手のほほを叩くという噂まで聞いていました。

 それに手塚先生自身が、西崎弘文にだまされた、自己嫌悪から、全く語ろうとしなかったのが一番の原因だったと思います。

 人は落ち目になると、あることないこと言われてしまいます。西崎さんも、最近になって、周りに居た人たちから、当時のことを聞かせてもらえるようになりました。

虫プロのイベントは、虫プロ同窓会ということで招待状をいただきました、あとで、おいでになった虫プロの仲間がほとんど映っているビデオテープもいただきました。

会では富野さんとも会話しましたが、他の人もそうでしたが、そんなときは、昔と少しも変わりませんでしたよ。
返信する
虫プロ商事と西崎契約書 (虫プロファン)
2007-02-27 21:02:58
教えてください。
虫プロ商事が倒産した理由は、
キャラクターマーチャンダイジングの
権利を譲渡する旨の西崎契約書類により、
商事に収入が入らなくなったからだった
のでしょうか?それともそうではないので
しょうか。
返信する
Unknown (真佐美 ジュン)
2007-02-28 11:57:29
虫プロファンさま

 商亊の倒産理由の1つには、おっしゃるとおりの理由であったと私は手塚側の人間として思っております。

 真実は明らかになっているとばかり思っていたのですが、私はネットを始めて「なぜだか今まで誰も語ろうとしていない問題」ということを知りました。
返信する
虫プロ商事と西崎契約書 (虫プロファン)
2007-03-03 21:44:30
虫プロのそれまでの借金のかたに、
Fテレビ局に対して虫プロが製作してきた
フィルムの永久放映権(あるいは権利の
譲渡だったかも?)するという契約が
いつのまにか作られていて、リバイバル
放映で収入を得にくくなり、虫プロの労働
組合がテレビ局と交渉して、10年間の
放映権であるとして、フィルムを取り返した
などというようなことも聞いた憶えがあり
ます。外部に通じて自社に不利な契約を作っり、納品されていないものを買ったことに
したり、資産価値のあるものを移したりして
倒産を演出というような噂も聞いたことが
あります。結局真実は闇の中でしょう。
返信する
Unknown (真佐美 ジュン)
2007-03-03 23:07:45
 その件については2006年10月13日に書きました。

当時虫プロの組合は組合色は薄く、火曜会という親睦会のようなものでした。

いつの間にか作られていたという歴史になっておりますが、穴見常務が、独断で、やったっとは考えにくく、役人会から手塚社長に話がなされていなく、なくなった方に、責任を、という典型的な出来事でしょう。

 穴見さんは、映像の海外売りに自信を持っていたため、当面の資金繰りで、フジテレビから資金を借り、抵当として、契約書を交わしたのだと思います。

 証拠は、契約書には、役員全員の役員印が押されておりました。

 書かれている、「虫プロの労働組合がテレビ局と交渉して、10年間の放映権であるとして、フィルムを取り返した、」

 というのは間違えで、このことと、倒産劇で虫プロのフィルムが債務代わりに、フジテレビにも、押さえられてしまいましたが、組合(現虫プロダクション㈱)が地道に交渉を続け、買い戻して行った。というのが、事実でしょう。このときは、ほかにも、日本ヘラルドなど数社が、押さえているはずです。
返信する
契約書 (虫プロファン)
2007-03-05 05:48:00
穴見常務がたしか脳溢血で亡くなったのは
たしかリボンの騎士が放映されるよりも前
のことだったと思うのですが、そうである
ならば、経営建て直しのために借金をした
とすれば、その契約が交わされたのはずい
ぶんと時期が早すぎるような気がします。
虫プロの移転計画とか虫プロランドとかいう
ような案が練られていた頃になるので
しょうか? 

虫プロの株式会社としての情報はあまり書かれていることがないのと、倒産劇の社内の内
情はいろいろ民事からみで差し障りがあって
公開されることがなく、寡聞にして知らない
のですが、役員というのは、何人ぐらいでし
たのでしょうか? 常識的には役員印などと
いうものは、誰かに預けて管理させるという
ことは責任を負うリスクがあるのでするべき
ことではないだろうとは思いますが、果たし
て虫プロは社長が代表の印を他人に預けてい
たりするような非常識なところがあったそう
なので、もしかすると一人の手で契約書がし
かも預かり印を持ちいて、死後ずっと後に)
作られた、あるいは白紙の束に印をずらっと
ならべて押して用意しておいて、後日に必要
なつど、好き勝手な文章を書いて契約書を
作ったなどというような可能性は皆無なので
しょうか。(探偵小説の読み過ぎか?)

判子を預けるということは、無限責任を他人
に手渡すことで、民事裁判でもまず抗弁する
ことは出来ないので非常に危険なのですが、
そのようなことをしていたとされるのが手塚
治虫社長であったということに定説ではなっ
ています。
返信する
Unknown (真佐美 ジュン)
2007-03-05 11:14:03
 穴見常務が、亡くなられたときのことは、社長室で、秘書をしていた関係で、私の日記にも記述が有ります。

私のページの年表1966年から昭和41年12月19日に書いてあります。19日虫プロで倒られ、3階で、治療を受けられておりましたがよく20日午前5時ごろお亡くなりになったと、手塚先生から聞かされました。

 虫プロランド計画は、秋のバス社員旅行のときに、実際買う予定であった、狛江の土地1千坪を見学しております。穴見常務と東急との関係でもう1千坪を貸してもらえるとの説明で、野球の練習場が作れるね、なんて、夢をふくらませたものでした。

 穴見常務の死で断ち切れてしまいましたが。そのあとその計画が流れたのは、「手塚先生のお母様が、行くのを嫌がったため、”お母さん子”の手塚先生が、取りやめたんだ」なんて噂が、まことしやかに流れましたが、お母さん思いの手塚先生なら、ありえるな、など、皆が思ったようでした。

 虫プロの組織については入社当時の「虫プロ会社案内」が私のページ年表1964年からページ一番下「株式会社虫プロダクションの会社案内」で見ることが出来ます。
 
 昭和40年秋にこられた、島方部長や、高橋部長、部長待遇のプロデューサーなども含めた、役員会も開かれ、それは、手塚邸1階にあった社長室の上、2階の部屋で開かれるようになりました。

 西崎事件で、社長印を預けていた、ということはありません、また手塚プロ社長、島方さん、現社長松谷さんが、そんなことをするはずは無く、もし、そんな憶測が、ながれているならば、とんでもない話です。

 現に、松谷さんは、手塚先生のキャラクター版権を、西崎さんから買い戻すため、大変な努力を続けているわけですが、そのたび、西崎さんの名前を口にして、手塚先生から「その人のことは、言わないで下さい」と、怒鳴りつけられておりました。


 違うね、手塚プロは、手塚先生が社長ではないので、社長印は関係なかったですね。

そういえば、昭和46年に虫プロの、社長もお辞めになっているので、それ以後の契約は、関係ないのですよね。

 ですから手塚先生が、お亡くなりになったあとで、と言うのはありえませんね。

 <一人の営業担当役員の、まったく個人的な独断によって、虫プロが一億三千三百八十八万円をフジテレビから借り受ける代償に、虫プロの全フィルム資産をフジテレビに譲渡するという書類がつくられたのだ。
 なぜそのような事態になったかというと、当時、虫プロが「版権業務分離」のため設立する寸前のときで、登記のためにその役員が会社印鑑と役員印鑑を預かっていたため秘密裏に書類が作られ、しかも、その直後同役員が急死したために、この事実をはじめて一同が気付くという始末になったそうだ
 手塚を初め役員一同は青くなってフジテレビと交渉し、なんとか、やっとフィルムの所有権を取り戻した、しかし、放送権は向こう十年間フジテレビが専有することになった。
この契約は昭和五十三年に終了した。>

 1977年ごろこんな文章がある雑誌に書かれています。これが定説となって、手塚先生が、あなたがおっしゃる”非常識なことを”と言う噂になったのだろうと思います。

 常識が無いといわれてしまえば、そのとおりですが、手塚先生は、「だますより、だまされろ」の人で、だまさせても懲りないで、いい人と思えば、すぐに信じてしまいました。子供を対象に漫画を描いて来た、手塚先生は、そんな純な心を持った人でした。

 そんな人が、経営に手を出すな!そうおっしゃるかもしれませんね。何でも試して見たい人でした。”経営には向いていない、”人をだます交渉など出来ない。
 何度もだまされ、そんな自分に気が付いたからこそ、社長を辞めたのです。

 まんが家になって、周りは手塚先生を慕って集まってくる人ばかりでした。世間知らずで、人をだます人がいるなんて、思いも及ばなかったのです。

 そんな意味の大人になるには高い月謝を払わされたわけですが、その一つの行為を見て手塚治虫と言う人物を評価してよいものでしょうか、手塚治虫が生きてきたその全体を見て、失敗も受け止め、その上で批判するのが良いのではないでしょうか。

 活字になり、それを読んだ人は、それが事実だと思い込みます。でもそれはある一つのエピソードで、実際の生活は違うのです。でも伝説は活字になったものが真実であったように伝わっていきますね。

返信する
キャラクタ商標権の譲渡契約書 (虫プロファン)
2007-03-06 04:51:15
今の流れで、2つの話が混ざって
しまっているように思えます。

1つは、キャラクター権の譲渡契約書
もう1つは、借金の担保としての虫プロフィルムの担保に関する契約書です。

キャラクター商標権の譲渡を交わしたとされる
書類には、おそらく判子が押されていたはずですが、
それは、手塚治虫氏の印だったのではないのですか? 
そうでなければ、効力を通常は持ち得ない
でありましょう。
返信する
虫プロファンさん (真佐美 ジュン)
2007-03-06 09:40:10
 まず噂話として書きますので、登場する人物の名称は実在する方とは関係ありません。フィクションと思って下さい。と書いておきます。

 版権問題については、アトムのときに、少年編集者の桑田さんが、版権登録で自分の名前で、版権登録申請書を登録、そのため、虫プロでは、桑田さんを常務として迎えた。悪意ではなく、完全な勘違いであったわけです。

次が穴見常務と、フジテレビのフィルムの権利の問題。これも私利私欲のためではありません、当時自転車操業の虫プロの経営を立て直すものでした。

トリトンのときの西崎一社員が自分名義で、版権登録をしてしまった件。これは自己の私利私欲のために、行なった行為です。

 彼の行動は2月15日メルモ18話で少し書いてありますが、その手塚先生との契約書は、3枚あり、メモとしか思えない鉛筆書きであります。先生の迂闊さから、覚書程度のもので、たいしたものではないと思ってしまったようで、緊急に必要と言われ、締め切り日深夜であったため、内容を読まず、いわゆるめくら判を、押してしまったわけです。一度押してしまうと、そのあとの2枚も、信用しきって押したようです。

 そんな行為に手塚先生も、心の底には、疑念が起こったようで。2月18日「姉ちゃんなんか大嫌い」に書いたように メルモが、配達人に言われるまま、めくら判を押すという話を作っています。
 自分が、西崎さんを疑ったことへの、自己批判です。

しかし、その心配が、現実になり、大変なショックを受けました。その反動はすべて自分に向けられ、言葉に表せないほどの自己嫌悪に陥りました。障害そのことがトラウマとなってしまったのです。

ですから、お亡くなりになるまで、「西崎」と言う、名詞は口に出しませんでしたし、その名を聞こうともしなかったのです。

 結果はともわれ、版権が、其の儘なら、虫プロ商亊も、虫プロも、もう少し長生きできたと思っております。個人的には、私の人生も変わっておったはずですよね。
返信する
鉛筆書きの契約書が有効? (虫プロファン)
2007-03-07 00:06:10
鉛筆書きの契約書とは、とても信じられないお話です。もしも、それで有効というので
あれば、あとで消しゴムで消して書き直して
しまえば内容はどうとでも出来ます。たとえ
判子をおさせたときは鉛筆書きだとしても、
後でペンで(内容も)書き直すぐらいのこと
をしていないとすれば、不思議です。よくもそんな契約書が裁判で十分な効力を持ちえた
と驚嘆しますが、如何に判子をおろそかに
すると、恐ろしいかの見本だといえます。
(判子を決して他人の手に渡してから押させてはなりません。すりかえた紙に押されてしまうかもしれません。また判子をもってどこかに逃げられてしまうかもしれないのです。)
最近、何度も発明されているものに、必要が
なくなれば、光を当てると印刷が消える特殊なインクだとか、熱を加えると透明になるインクなどがありますが、これらも紙のリサイクルという利点を発明の動機や特徴にしていますが、契約書などで悪用されうるもので、
今のところ市販品として出されていることは
ないようです。問題がおきたときに、賠償を
請求されかねない発明だからです。
返信する
虫プロファンさま (真佐美ジュン)
2007-03-07 14:24:03
虫プロファンさま
 鉛筆書きが有効?
一個人が、手塚の版権を手に入れることが出来るのか?

このページの下の文章、裁判とは悪人の味方。と言う文章になるわけです。

 裁判官にとって、一般常識は通用しません。エリートコールを歩いてきたため、庶民感覚は無く、庶民は虫けら同然に思っております。彼らは何も知らないくせにと、法律を知っていることを笠にして、庶民を馬鹿にします。彼らは、法律に取り付かれた、一般常識を、育ってきた社会からは、全く学んでいない、知的障害者なのであります。

と、こんな書き方をすれば、当時の受けたショックの少しはわかってもらえるかもしれませんね。

 なぜ?わかってもらえないのか、!!一般常識として、お分かりですよね、何度も繰り返し説明しても、彼らはつんぼでした、聞く耳を持っていません。請願書を出しても、彼らは、あきめくらでした。読んでくれたのかも判りません。

 法の壁に、成す術が無くなり、血の涙を流すだけで、叫ぶ声は、卯なしく消え去り、その後は、おし黙るしかなかったのでした。
返信する
雑多 (虫プロファン)
2007-03-10 21:54:33
虫プロのFテレビへのフィルム放映権の譲渡
契約書も、同じような手口で作成された、判子を揃えて押させた紙の内容を後日変造した
書類であった可能性もあるように思えます。
役員全員の判子があるとなると当然手塚治虫の社長印もあるわけで、内容を理解していたとすれば、血相を変えたとされることと整合しません。要するに経営のことは人任せにしていたことだと思います。放送局が無料で放映できたことにより10年間で得た利益はおそらく虫プロ倒産時の負債を上回ったのではないかとも想像しています。ディズニーに象徴されるように、長期にわたって再上映再放送で投資を回収することが出来たかもしれない、それを奪われてしまった。

 N氏は虫プロ商事で、手塚氏付きのマネージャーだったということは正しいですか、
あるいはもっと正確にはどういう立場だったのでしょうか。

結果的に、アニメを作ることが出来なくされていた時期の漫画作品は逆に危機感もあり、非常に冴えていたと思います。後に再びアニメに手を出せるようになった時期から、急に紙の漫画に対する緊張感が減ったかのような印象を私は受けた記憶があります。(時代の影響も無視できませんが)
返信する
虫プロファン (真佐美 ジュン)
2007-03-10 23:07:28
 フジテレビと虫プロの件は、虫プロの社員のほとんどは、そんなことがあったことすら知りません。

 手塚先生と顔をあわせるのは、月曜日の朝礼ぐらい、それも徐々に成されなくなっていきました。

 そもそもが、手塚先生が2足のわらじを履く事事態が無理がありました。
 漫画映画が作りたくて、会社を作った、スタッフを集め、金を出したので、代表となった。程度の考えで、経営者である自覚は、労使交渉を受けて、社長と言う対場が判った。虫プロとは、アニメ好きが集まって、漫画映画を作る集まり。その代表ぐらいに考えていたようでした。斜塔をおりるときも執着はせず、その後、社長は他の人に任せています。

 穴見さんのお亡くなりになる頃、手塚先生の仕事量はものすごいものでした、社長室に居て、そのすごさを、まのあたりにしています。役員室は手塚邸の社長室の上にありましたが、役員が集まっているときでさせ、仕事の締め切りで、何時間も役員を待たせたり、その挙句中止にしたりしております。
 ですから、手塚社長が、すべての事を把握などしておらず、事後承諾などがかなり多かったです。怒ってもあとのまつりでした。現代の物差しで計れば、役員や社長が、そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、当時は別に違和感は無く、そんなものと思っておりました。

 で、それに気が付いたので、社長を降りたというのが、正直なところでないでしょうか。

 あと、再放送に関しては、さほど重要には考えていませんでした。どちらかと言うと、放送が終われば、終わりと言う考えだったです。

 デズニー方式は、手塚先生から聞かされていました。マスターのネガを初めにいくつか作ってあって、何年後かにそのマスターから、コピーのマスターネガを作るから、そのときごとに傷の無い綺麗な映像で、封切りできるのだよ、などと聞かされて、良いアイディアだと思い劇場版を作ったときは、そうしましょうね、など話していました。

 西崎さんは、虫プロ商亊の営業です。手塚付きのマネージャーでは有りません。彼が勝手に言っていることです。(メルモのときと手塚プロでの海のトリトンまでは)ここに書いたようにトリトンの事件で西崎さんを、マネージャーなどにするわけがないことはお分かりでしょう。
 マネージャーは、ひろみプロを立ち上げた、平田昭吾さん、手塚卓さん 斉藤広美さんがそうでした。手塚プロ、映画部がなくなるまで、兼任しておりました。 そして社長が、島方道年さん、マネージャーと言えるのはこの方だけでした。あとは漫画部のスタッフで、女性が、お茶など入れておりました。

 漫画映画を作らなければ、手塚先生は、すぐに金持ちになれました。最近知ったのですが、アニメに手を出す直前の年、社員に大判振る舞いしたのち、納税が2億円したそうで、「こんな金が有るなら、漫画映画を作らせてください」と島方さんはしかられたと言っていました。アニメに手を出したトタン赤字になったそうですが、手塚プロは貧乏で、とズート思っていた私。黒字になったのを知っていれば、退職金をもらいに行ったのに、と笑っています。
返信する
質問 (虫プロファン)
2007-03-11 02:45:21
上記、最後のところで
納税を2億円というのは
アニメに手を出す直前の年とは
1)虫プロをはじめる直前の1958年頃
2)森の伝説を作り始める前の年。
3)24時間テレビの長編TVアニメ
  バンダーブックを作る前の年
4)劇場版火の鳥2771を作った前年

それのいずれでしょうか。多分3)のこと
ではないかと思うのですが、いかがでしょうか?

さらに質問(答えることは出来ないかもしれませんが)
なぜ、虫プロダクションは有限会社に留めず、株式会社にしたのかです。一般投資家
から投資を得ないと、スタートできない、
あるいは銀行から借り入れが出来ないという
ような事情があったのかです。また株式を上場していたかどうかは寡聞にして知らないのですが、もしも上場していたとするならば、普通は役員の個人保証などをはずせたはずで、債務をたとえば社長であった手塚氏がすべてかぶるなどの必要がなかったのではないかと思います。(原理的には個人債務保証が要らないということと、実際にそうできるということの間には隔たりがあるのは事実なのでしょうが。)

また、手塚先生の思うところあって、初代アトムの放送の終了を決めたということになっていますが、(別の説だとスポンサーの意向であったともいいます)キャラクターとしてドル箱だったアトムの継続をやめたことが、果たしてどれほど虫プロの収入に影響を与えたかですね。一時期自分の作ったアトムが次第に別物になっていく、原作とは無縁なのに、それでも高視聴率が取れてしまうことに作家として困惑と、ひとつの作品ばかりが超
有名で、正義の味方アトムというような面でしか語られないことに大きく不満があったともいわれていますが。

 キャラクターの権利の関係がはっきりしなかった裁判時代の産物であるのか、東映で作られたジェッターマルスは、幼児にかなりの人気があったのにもかかわらず、今は初代ドラえもんや初代TV版ムーミンと同様に封印状態なのも、残念ではあります。
返信する
虫プロファンさん (真佐美)
2007-03-11 13:52:53
西崎さんの質問の続きで答えたので、不親切な答えとなっておりました。お詫びいたします。おっしゃるとおり③番です。
 
 虫プロ創立以前手塚先生は画家としての納税者トップの座をねらっていた節があります。昭和34年 「画壇部門 年間所得第二位」となり、翌年昭和35年には同部門の一位となっていおります。

 その手塚治虫が作る会社であります。昭和36年「手塚治虫プロダクション動画部」として「ある街角の物語」の制作に入り、スタジオ製作に取り掛かり、昭和37年社名を「虫プロダクション」と決めますが、すべて手塚治虫の個人のお金で進められました。

 東映動画で仕事をしていて、自分のスタジオを作りたいと思ったはず。

 会社作るからには、日本の代表的なアニメ会社を望んだはずで、まさか有限会社にすることなど、思い浮かばなかったと思いますよ。
 社会通念として、当時テレビ局を相手に、有限会社では、相手にされませんしね。

 一般投資家からの融資は受けておりません、資金はすべて、手塚個人原稿料からでした、株式上場もまだしていなかったと記憶しております。

 鉄腕アトムの放送で、アトムの版権収入が考えた以上の誤算で、資金の心配をする必要がないまま、会社組織が出来上がり、膨れ上がっていきました。いざ資金不足になると、対応できる者が居なかった、そのため、テレビ局などプロ相手に、借り入れ交渉をして、不利な条件とは気が付かず、自転車操業を続けていったと思います。

 一般社員はそんな噂を聞いて、なぜもっと強気な契約を出来ないのかと、疑問を感じていました。

 アトムの終了は、すでに手塚先生の手を離れたアトム制作となっておりました。ほとんど外注の人たちの力を借りて制作しておりました。

 原作も「少年」の休刊で無くなり3年というのは当時としてかなり長期にわたっての、放送でマンネリもありました。
 そんな頃だったので手塚先生もそろそろ3年になるので、終わらせましょうと言う意見もあり、最後の頃は虫プロで制作して最終回も作られました。

 打ち上げは練馬の会場を借り全社員でフィルムを見ながらしました。アトムがロケットにまたがって飛んでいくシーンに涙しました。

 テレビ局側からの要望はなかったと記憶しており、引きつづいて、悟空になったのだと思います。

 このときすでに「鉄腕アトム」をカラーで作ろうと言う動きもありました。

 セールスの力が無かったのですね。
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 東映で作られたジェッターマルスは昭和52年の作品ですね、アトムを意識して作られたと聞いておりますので、版権問題は解決していない時代ですね。マッドハウスの人たちが作っていますので、虫プロ色が残された作品でした。
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ムーミンは版権問題が複雑に絡み合い、折角の名作が日の目を見られないのが残念です。ビデオで、少しは見ることが出来るのですよね。
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 元祖ドラえもんは、製作会社の解散で、内容が不明となってしまったようです。幻の、とまで言われてしまったのは、私にも責任があると思っております。手元に残っている資料を私のページで、公開することで、少しでも日の目が見れるようにするのが、ドラえもんに携わってくれた、スタッフの方々に対しての、恩返しと考えております。
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雑多 (虫プロファン)
2007-03-11 23:14:22
私は、どこかで写真入りで、株主に対する虫プロの説明パンフレットというものが存在していたというのを知りましたので、株式会社で、株主がすくなくともパンフレットを配る程度には存在したのだと思っています。上場はしていなかったかもしれませんが。もちろん創立時の資本金や資材、土地などは手塚氏の私財であったと思います。
 有名企業であっても上場していない株式会社はあるそうです。上場してしまうと、創業者の経営に対する支配力が弱まり、油断していると、株式の過半を買い集められて、いわゆる会社をのっとられ易くなるほか、長期的な視点に基づく会社経営がなかなか難しくなるからです。(もちろんこれは創業者側からの視点です)

アトムの打ち切りについては、いろんな説と
状況があり、何が真相なのかは、分かりにくいところです。たとえば放映打ち切りとほぼ同時に、(新聞?)連載が始まっています。
一説にはアメリカのTV局から、カラーでない
作品は買わないと言われたので、スポンサーとカラー化し制作費も上げてと交渉したが、当時のカラー受信機普及率とスポンサーが食品メーカーだったので利点が薄くて断られたのでいったん打ち切ることにしたという説とか、あるいはスポンサーから視聴率にかげりが見えてきたから打ち切りたいといわれたという説とか、ぼくの孫悟空を作りたいが、
ジャングル大帝などもやっていてこれ以上
仕事を増やせないので、アトムをいったん
やめることにしたという説とか、マンネリでネタ切れ気味で潮時だと思ったという説、
ベトナム戦争などでいわゆる正義を振りかざすことへの疑問とテレビがあまりにも勧善懲悪の単眼的なストーリーに偏ったので、自分の作風ではないからやめたいと思ったなどの
説など、さまざまです。どれも一面を語るものだと思います。
個人的にはこれまでつくられた(ジェッター
マルスをのぞいて)アニメ3シリーズのアトムのなかでは、やはり初代のアトムこそが一番よい作品だったと思います。これは当時自分が最初に洗礼を受けたというノスタルジーによるばかりではなくて、良いストーリーや
アニメならではのコミカルな面、キャラクターなどのデザインの優秀性、単純な絵からくる親しみ易さと抽象性の美などが好きです。枚数が足らないとか紙芝居だという人が多いのですが、
本当の初期は確かに人員も少なくて、どうしても動きが悪かったりしましたが、だんだんと良くなり、絵の枚数不足を補う撮影の技法やカメラワーク、絵をゆすることで動きを出す、。。。工夫で面白くしています。
ともかく今のアニメーションと決定的に違うのは、ストーリーの密度があまりにも高いことでしょう24分の中に漫画本1冊分を詰め込んで演出しているものが多いのです。SF映画なら優に2時間ものとなる筋を30分番組に押し込めている。これは、如何に「ストーリー漫画」がアニメーションになったかという見本でしょう。ミクロの決死圏に限らず
ハリウッド映画にパクられたと思われるストーリーも何本かあります。つい最近の例だとスピーシーズとか、ジュラシックパークとか、地球にぶつかる彗星を爆破しにいく話tか、まあ自分が知らないだけで、本当はSF小説に起源があるのかもしれませんが。
DVDを見て残念なことは、フィルムが封印あるいは放送コード関係で省かれために保存状況が悪化したためか、欠落エピソードがあること、画質が劣化してしまったものがあること
でしょう。

アトムから脱線しますと、
ジャングル大帝の第1話は、もともとTVシリーズものの予定で作られたのではなくて、
虫プロランドという1時間もので独立した手塚漫画のアニメ化番組を隔週放送するという
企画の目玉であったし、リボンの騎士のパイロット判として今日伝えられているものも、
そうであったということです。現実には毎話
ごとに別の作品を作るということは、たとえ隔週であってもテレビ放映はスケジュール的に無理で、人員をどれだけ投入したとしても、企画や演出、キャラクターの絵柄を安定にもっていくにはそれなりの期間の用意が必要なので、不可能(それにもましてキャラクター商品により利益を出すことと相容れない)により没になり、唯一スティーブンソン
の原作に沿った動物主役の「新宝島」が
幼年誌にあらすじの漫画がのって、正月に
放送されただけで終わったということです。
TV向けに長時間番組をという企画は、総集編などを別とすれば、それ以来24時間テレビ
向けのバンダーブックまで実現しませんでした。 長くなってきたので、これでやめます。
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西崎弘文について伺いたい (ヒヨコ戰艦)
2010-11-09 08:48:01
ヒヨコ戰艦と申します。宜しくお願いします。西崎弘文を相手に2010年夏から訴訟しており、宇宙戦艦ヤマト企画書は、手塚治虫の所有を西崎が「無権代理」で使ったとの抗弁を行っています。お話しを伺いたく宜しければ私の下記メールアドレスに「ヒヨコ戦艦へ」との全角文字によるタイトルで返事を頂けるとありがたいです。

hiyoko_senkan@yahoo.co.jp
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はじめまして (セージ)
2011-03-11 18:00:16
手塚先生の版権問題を調べているうちにここにたどり着きました。
まさか真佐美さんのBlogだったとは。

やはりあまり語られていない問題なのですねぇ
真相がわかってやっとスッキリしました。

虫プロファンさん
虫プロファンといいながらやたらと攻撃的な上、きちんと説明されたにもかかわらず礼も言わないとは何とも失礼な方ですね。

それゆえに穏やかで丁寧な真佐美さんの文が引き立っているようです。

まだ全ては見ていませんがHPの方もゆっくり見させて頂きます。
突然の書き込み失礼いたしました。
数少ない手塚先生の側の生き証人です
お体に気をつけて末永く頑張ってください。
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宇宙戦艦ヤマトとナンバー (鮎鹿ほたる)
2011-06-13 15:32:39
手塚治虫全集の中の
ナンバー7のなかに、
放射能に汚染された地球へ宇宙人が大々的に攻め手来るとの情報が入り、ならばとこちらから先制攻撃に出かける・・・
というストーリーがあります。昭和38年の作品です。
これはオリジナルでそうなってたのでしょうか?それとも全集判で書き直した部分なのでしょうか?
オリジナルならあらためて手塚の偉大さを感じるのですが。
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質問 (虫プロの真意とは?)
2013-05-05 17:53:58
すでに活動を中止されているかもしtれないの恐縮ですが、この手塚氏証言は何なのでしょうか

手塚治虫 「海のトリトン」あとがきより

 トリトンをテレビアニメ化しようと考えたのは、連載が終わったあとでした。
そこで、五分ぐらいのパイロット=フィルムをつくりました。
そのときはトリトンは外国へ売ることを考えて、バタくさいマスクのちっちゃな少年の姿にしてしまいました。

それを、当時ずっとぼくのマネージャーをしていた西崎義展氏が、
東映の羽根氏を起用して、あのスタイルにかえたのです。
 テレビアニメは、はじめ手塚プロでつくるつもりでした。
でも、西崎氏が独自でテレビ局と話をつけ、
スタッフルームというプロダクションにつくらせることになりました。
だから、あのフィルムには、ぼくは原作者の立場でしか、かんでいないのです。
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