真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

フラダンサーばかり!!

2009年11月01日 23時51分57秒 | Weblog
昨日の歩数:2375歩
起床時間:8時30分
血圧  :112  78
脈拍  :70
体温  :35.5℃
体重  :64.9kg
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日曜日、歩いておかなければと思うが....。
テレビをいつもの様に見ている。
11時6枚切りでの朝食。
パソコンの電源を入れる。
メールのチェックなど
13時昼食に呼ばれる、まだ寝巻きのまま。
10月30日に手塚プロへ行ったとき、小林先生から「シモヤンが企画したエンゼルの丘をアニメにした人がいるよ、ネットに出回っている。と言う話を聞かされた。資料室の田中さんが知っている、と言いパソコンでOPEN POSTと言う動画投稿サイトを捜してくれた。
http://openpost.jp/
そこにおとなり工房という人が手塚キャラを何点かアニメ化していた。 
おとなり工房さん
手塚キャラ動かしてみました 其の二
http://openpost.jp/works/view/1381
に エンゼルの丘の ルナ姫とチーチとココを動かしていた。
エンゼルの丘は思い出深い作品で手塚プロで「ふしぎなメルモ」「海のトリトン」に続く企画として
手塚先生から「キャプテンケン」と共に、私が企画してよいと貰った作品で、企画をたてていた。

 もしは、無いが、もし西崎事件が起きなければ、もしかしたら自分の企画として制作できたかもしれない思い出の作品である。
 手塚先生のマンガ映画化の特徴で、原作漫画のストーリーと変えて新たな設定を考えていた。
「メルモ」で性を扱ったことで、エンゼルの丘では対象年齢を上げる企画であった。
ストーリーも現代社会ではなく想像の世界、船なども帆船に替え、虫オールスターをそれぞれ俳優として扱うメルモを発展させる予定であった。
 エンゼルの丘から流されたルナは海賊に拾われ数奇の運命を経て、とある国の王子と会い恋に落ちる。
そんな設定にしたのを思い出す。

 それにしてもこのおとなり工房さん、確りしたキャラクターと動きで当時の手塚先生のキャラクターを動かしてくれている。
どんな人が作ったのか是非お会いしてお話ししたいものだ。

 これを映画化したいなんて人が出てくればもっとうれしいし「キャプテンケンとアロー」もこの人に是非動かして欲い。

 本当にもし、はないけれど、版権が人に渡っていなければ、商事も倒産しなかったし、結果的に虫プロも救えたし、手塚プロの映画部も存続していただろうし、手塚先生も負債を抱え借家暮らしも無く、両親も長生きしただろうし、相すればもっと健康管理も出来長生きできたろうし、もっとたくさんのアニメも生まれたろうし、などなど悔やまれる事の多かりし。
13時44分中央図書館からサラ・ライトマンの「神神のシンフォニー」ご用意できました」の電話。
14時妻が帰宅してラーメンを作ってくれる。お餅1つ丸ごと入れたのではカロリー多すぎるので面倒でも半分にして、と頼んだので今日からお餅半分入り。
15時50分家を出て中央図書館へ行く、予約しておいた「手塚治虫少年の実像」も借りる。北の出口の外で大在のグループがフラダンスの練習を居ていた。現在東久留米市では第39回市民文化祭中である。隣の中央公民館へ行って見る。

         

なるほどこれだったのだ、

       

ロビーにはフラダンサーがいたるところに居る。うぶな私は目の置き所に困る。
家族や関係者が群がっている。

             

消防署の前の道から落馬橋へ出て黒目川へ、手塚邸をお参りする。
周りを検索する、手塚邸なえの道一方通行を逆走するコースで考えていたが、黒目川かあら入り手前の道から一回りして道に出れば寄り安全となりそう。道路の手前で説明も出来そうである。
 そのまま小金井街道へ出るか、一度黒目川に出て小金井街道へ出るか歩いて見る。本屋KOYAMA先の小山郵便局を右折する。一つ目の道を入ると行き止まり小山小学校への道を左折する。

       

小山小学校前の道。前回は突き当りまで行ったが手前も道を左折してみる。

       

小山保全の森(東京都)へ入る。
       

この久留米が丘(勝手にそう呼んでいる)の森をぬけると野火止用水に出る。
丁度東京都と埼玉県の境になり、野火止用水は埼玉県になる。
看板が立っている
埼玉県指定史跡  野火止用水 昭和19年3月31日指定
 武蔵野のうちでも、野火止台地はとくに高燥な土地で、自然の水利には恵まれませんでした。川越城主松平伊豆守信綱は、私領であるこの地方を開発するため、江戸の上水道である玉川上水を完成した功績により、玉川上水から三割の分水許可を得て、承応四年(1655年)野火止用水を開削(かいさく)しました。
工事は家臣の安松金右衛門に命じて行われ、当初東京都下の小平市小川町から志木市の新河岸川までの約二十五キロメートルについて開削しましたが、のちに新河岸川に、いろは四十八の樋を(とい)架けて、志木市宗岡の水田地帯をうるおすようになりました。
また、寛文三年(1663年)、岩槻の平林寺を野火止に移すと、ここにも用水掘を開削して引水しました。
幹線水路は、本流を含めて四流あり、末端は樹枝状に分かれています。支流は、通称「管沢・北野掘」・「平林寺掘」・「陣屋掘」と呼ばれています。
用水敷は、おおむね四間(7.2m)あり、水路敷二間を中にして、その両側に一間ずつの土上げ敷をもっていました。
 水路は、地形的に高いところを選んで掘りつながれ、屋敷内に引水したり、畑地への潅漑(かんがい)および乾燥化(かんそう)防止に果たした役割は、きわめて大きいものでした。
 野火止用水の流れは、昭和37,8年頃までは付近の人々の生活水として利用されていましたが、急激な都市化の影響により、水はしだいに汚濁し、流れに泳ぐ魚や用水で遊ぶ子供たちの姿をみることはできなくなってしまいました。
 そこで昭和四十九年から、東京都と埼玉県・新座市で復原・清流復活の事業に着手し、本流と平林寺掘の一部を復原しました。
 平成10年1月30日
     埼玉県教育委員会
     新座市教育委員会
と言うもの
清瀬駅方面に行く道の交差点を右折して黒目川中橋へ戻る。
すみれ公園からウォーキング予定コースで東久留米市役所へいく。
 中央公民館へ寄って見ると、既にフラダンスの看板は取り外されていた。
外では終わった家族が騒いでいる。「ばあばあきれいだった?」とお孫さんに尋ねている声が聞こえてきた。
17時家に戻る。
妻も買い物から帰ってくる。菓子パンをつい食べてしまう。
疲れたので部屋で横になる、テレビをつけていたが目を閉じていた。
「夕飯だよ」起こされると既に20時、
21時風呂に入り、パソコンで私領など準備
0時には寝ようと思ったがそれでも0時30分には寝た、かも。
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