令和元年9月15日
中秋の名月の翌夜の名月を
眺め、秋の夜のひとときを
楽しむ。
今朝は久し振りの快晴。
修業僧のお力を借りて、
念願の芭蕉句碑へ。
芭蕉の句碑。
「かはほりも 出よ浮世の
花に鳥」
季語は「かはほり」。夏。
「かはほり」って?
調べると、蝙蝠のこと。
納得!
蝙蝠も 出でよ浮世の 華に鳥
歳旦吟でもあるか。
蝙蝠をを鳥に見立てて
めでたい新春だから他の鳥
のように浮世に出て来いと
いうのであろうか。
また、支考の言うように、
旅立つ僧へのせん別吟であれば、
薄暗い寺の中にばかりいないで、
旅に出て浮世の栄華をも見て
くるがよいと激励しているよう
にも聞こえる。
松島十湖の句碑は右隣。
松島十湖の句は、
「山吹や 人の富貴も
水の泡」 。
明治24年建立。
芭蕉の句の説明板は、倒れて
いたのを立て撮影。
その後風で飛んでいくと困る
のでまた元のように寝かせ、
重しする。
貴重な文化財の一つだから、
早めに直してと願いも込め
て・・・。
松島十湖という人は?
明治、大正の時代に、第二の
芭蕉といわれ、全国に多くの
門弟を持った俳人。
1849(嘉永2)年3月17日
豊田郡中善地村(現:浜松市東区豊西町)
の昔からの農家の家に誕生。
6歳から撰要寺で教育を受
けた。
父の死を経験し、その後15歳
になると俳句に興味を持ち、
当時遠州で有名な俳人だった
栩木 夷白(とちぎいはく)の
弟子となり、雅号を十湖とした。
天竜川の大洪水で田畑や家屋
が押し流され、家屋復旧に翻
弄されながらも勉強を続け、
わずか二年で俳句選者の地位を
与えられる。
栩木夷白の死後は、伊東嵐牛
(いとうらんぎゅう)や東京の
俳人、橘田春湖に教えを受けた。
国学、漢学、和歌、絵画などを
学びながら、さらに人間を磨く
ためにと、報徳学者である小田原
の福山竜助の元を訪ね、報徳主
義者の一人となる。
1869(明治2)年、天竜川の
堤防が決壊し、村民が大変な
被害を受けたときには、自分
の家の蔵を開いて、米麦を
村民に与える。
また中善地にも渡し船がほ
しいと浜松県庁に36回も直談
判をし、開設許可を得た。
1874(明治7)年十湖は
中善地村に「三方報徳社」を
組織し報徳の教えを広め、
1876(明治9)年には浜松県
公選民会の議員に選出され、
同年、静岡県に合併されると
県会議員となった。
当時盛んだった養蚕に熱心
で、村民に飼育法を教えたり、
自らも飼ったりしていた。
それと同時に自宅横に
「撫松庵」を建て、俳道の
普及にも努めていた。
1880(明治13)年からは
県庁に勤め尽力。
さらに翌年からは引佐麁
玉郡長として気賀に赴任。
役所の精神改革をしたり、
農業振興のために「西遠農学社」
を創立したりした。
また道路を作り、橋を架け、
学校校舎新築も奨励ることも
積極的に行った。
役所の仕事と同時に俳句の
道も休むことなく、「西遠吟社」
を設立。
郡内をめぐった紀行文を出版
して配布したり、行った先々で
俳句を残したりした。
俳句を盛んにするため、
後世まで残る句碑を建てる
ことが必要と、多くの句碑を
建設した。
1887(明治20)年笠井町に
大火があったときには救助と
復興に尽力。
司祭を寄付。
同年豊西小学校の前身である
小学校の校舎新築にも寄付し
ている。
1896(明治29)年浜名郡郡会
議員就任。
1925(大正14)年鴨江寺
(現:中区鴨江町)境内に
十湖の銅像が建設され、
翌年除幕式が行われた。
この銅像は戦時中に供出
したため、今はない。
そして1926(大正15)年
7月10日死去。
東区豊町の源長院に祀られ
ている。
やはり大人物である。
今朝の碧空の様な人物。