秋風の中 毬の青さに
令和3年7月31日(土)
今日から、「秋の句」。
秋風の
吹けども青し
栗のいが
秋風が吹いても、栗のいがは
割れる気配もなく、青々しいままだ、
の意。
元禄四年(1691)の作。
◎ 秋風が吹き始めると、
栗の毬は茶色に変わっていくが、
今年は秋風寒く、かなり本格的な
秋の気候になったと実感されるのに、
栗の毬は青いままである。
この句は、何時までも青い毬に
不思議に思って句にしたというのが
師匠の解釈である。
さらに師匠は続けられている。
「軽井沢町追分の私の庭には、
大きな栗の木があって、
毎年茶色の毬を落としてくる。
それを待ちかねてように、
虫が素早く食べるのだが、
青い毬というのは数として少ない。
青い固い毬では、さすがに
栗好きの虫も歯が立たないと思う。
ところで、芭蕉関係の類書を
いろいろ見ていると、この句について
実に様々な説があるのに驚いた。
先ず、一般には、落ちない毬は
青いというのは、芭蕉の思い込みだ
という説がある。
落ちる毬は必ずしも茶色ではなく、
年によって違うというのが、
私の観察である。
第一に、栗の花は毎年咲くものではなく、
それ故に実のならぬ年もあるのが
栗の特徴だからである。
それから、栗の実が落ちるのは、
毬が開いて茶色の実になってから
ではなく、青いうちに落ちるのは、
毎度のことである。
芭蕉が秋風の吹きすさぶ季節に
なっても毬が青いままだと書いている
のも毬が開いて青いままだと書い
ているのも、秋風になっても、
毬が青いままだであるのが
不審だと芭蕉が大事件のように
解釈しているのも、
おかしいと私は思う。
芭蕉ほどの人になると、
人はいろいろな説を立てるものだと
むしろその方に感心するのである。」
と。
子ども時代、秋になると、夕方
栗林に行き、栗を採ったことを思い出した。
青いいがぐりもあったなあ。
山栗を拾って、毬を長いトングで割れ目
付近を察し、中の山栗を採って、籠半分ぐらいに
なるまで採った。
そして、家の庭で、皮をむき、指先で渋皮を
剥ぎ、栗ご飯にしても食べた。
ほんと美味しかった!