令和4年10月1日(土)
第36番 土佐市: 青龍(しょうりゅう)寺
手前の駐車場は有料。
壇上の駐車場に入るところに
駐車禁止の表示があったため、
戻ってそこに入る。
しかし参拝にいくと、
駐車禁止の表示の左に駐車場がある。
駐車禁止は参道の手前の駐車禁止のこと。
勘違いだが、表示だけでは紛らわしい。
また戻って無料の駐車場に入れ直す。
そこに車が一台入って来たので、
助手席の人に上の駐車場は無料ですと 教えることに・・・。
本寺は、延暦二三年(804)に、
唐の長安に渡った弘法大師は、
青龍寺で恵果阿闍梨に
真言密教の奥義を授けられ、
真言密教の奥義を授けられ、
後継者として
真言宗の第八祖となる。
帰国の際、
真言宗の第八祖となる。
帰国の際、
大師は師恩報謝のために一寺建立を発願され、
「寺院建立に最勝の地に留まり給え」
と、唐土より独鈷杵を投げたといわれる。
すると、独鈷杵は、
「寺院建立に最勝の地に留まり給え」
と、唐土より独鈷杵を投げたといわれる。
すると、独鈷杵は、
金色に輝き、
紫雲に包まれて東方に高く飛び去った。
後年帰国した弘法大師は、
紫雲に包まれて東方に高く飛び去った。
後年帰国した弘法大師は、
四国巡錫の際、
その独鈷杵が奥の院の松の枝に
その独鈷杵が奥の院の松の枝に
引っかかっているのを見つけ、
嵯峨天皇に奉聞し、
弘仁六年(815)堂宇を建立。
弘仁六年(815)堂宇を建立。
自刻の波切り不動明王の石像を安置し、
寺名は恵果和尚の高恩に因み、
青龍寺、
山号は唐の国から放った独鈷を名乗って
山号は唐の国から放った独鈷を名乗って
独鈷山と号した。
その後、江戸時代初期には、
その後、江戸時代初期には、
寺運が衰退するが、
土佐二代藩主山内忠義が、
正保年間(1644~1648)に再興。
宝永四年(1707)の大津波で
本堂以外の堂宇を失ったが、
その後再建。
仁王門から本堂までは
百七十段の急な石段が続き、
仁王門の傍らには滝が流れる行場や 朱色が鮮やかな三重塔が建つ。
本堂、薬師堂などの伽藍は、
唐の青龍寺を模して配置され、
納経所横には、
恵果阿闍梨を祀った恵果堂もある。
本堂には、
本尊の波切不動明王とともに、
寄木造りの愛染明王像も安置。
愛染明王は家庭円満、縁結びの信仰を集めて
いる。
鎌倉時代の作とされ、
寄木造りの愛染明王像も安置。
愛染明王は家庭円満、縁結びの信仰を集めて
いる。
鎌倉時代の作とされ、
国指定の重要文化財。