令和5年7月30日(日)
まず、鉄舟寺の由緒。
飛鳥時代藤原氏の出身である
久能忠仁が、
現在の久能山東照宮付近に
建立した堂に始まる。
その後、奈良時代の僧行基が
来山して久能寺と号したという
(『久能寺縁起』)。
平安時代に入って
天台宗に改められ、建穂寺と駿河を
二分する勢いで栄える。
永禄13年(1570)、
武田信玄が久能山に城を作るため
現在地に移され、宗旨も変わる。
江戸時代には朱印寺領として
200石余りを与えられ、
多くの支坊を有したが、
江戸時代後期あたりから衰退。
明治に入ると無住になって寺は
荒廃してしまう。
その後、
その後、
旧幕臣で明治以降に静岡藩権大参事も
務めたこともある山岡鉄舟が、
臨済寺から今川貞山を招いて復興し、
寺号も鉄舟寺と改める。
そのため、鉄舟の書跡の遺品も多い。
幾多の石仏地蔵などを
左右に楽しみながら、
上りきった処に、
芭蕉の句碑。
<芭蕉句碑>
「観音堂の手前の樹木を、
やっと伐採してださったので、
清水港などとても見晴らしが
いいですよ!」と、
ご婦人が語っておられたとおり。
<観音堂>
見事な光景が眼下に広がる!
富士山から白雲が自ら音楽を奏で、
富士山から白雲が自ら音楽を奏で、
見事な清水の港町を眺望。
この一番見事な景色を、
永久に見守っているところに
芭蕉句碑も建立されると察知。
こんなに映えた句碑もないだろう!
「雲霧の
暫時百景を
尽くしけ理」
改めて富士の美しさに、
暫く我を忘れる。