令和5年7月11日(火)
また、「大山」には、
この他三基の芭蕉句碑がある
こともわかる。
「花盛り
「花盛り
山は日ごろの
朝ぼらけ」。
・・・
とうふ坂にあるという。
「観音の
「観音の
甍見やりつ
花の雲」
は、来迎院前。
この四基は参道や境内にあるが、
この四基は参道や境内にあるが、
「雲雀より
上にやすらふ
峠かな」
という句碑は、
秦野に抜ける山道の「
いより峠」という所にあるという。
かなりの急坂で、
標識も看板もなく、
何度も行って見つけられない人も
いるらしい。
<下山する>
さて、大山寺の由緒。
大山寺は、
奈良の東大寺を開いた良弁僧正が
天平勝宝7年(755)に開山。
行基菩薩の高弟である
光増和尚は開山良弁僧正を継いで、
大山寺二世となり、
大山全域を開き、
山の中腹に諸堂を建立。
その後、
その後、
徳一菩薩の招きにより、
大山寺第三世として弘法大師が
当山に入り、数々の霊所が開く。
大師が錫杖を立てると
泉が湧いて井戸となり、
また自らの爪で一夜にして
岩塊に地蔵尊を謹刻して
鎮魂となすなど、
大山七不思議と称される
霊地信仰を確立する。
また、
日本古来の信仰を大切にし、
尊重すべきとのお大師様の
御詞により、山上の石尊権現を整備し、
伽藍内に社殿を設けるなど
神仏共存を心掛け、
手厚く神社を保護。
元慶8年(884)には、
元慶8年(884)には、
天台宗の慈覚大師の高弟・安然が
大山寺第五世として入山。
伽藍を再興し、
華厳・真言・天台の八宗兼学の
道場とする。
これより大山は
相模国の国御岳たる丹沢山系の
中心道場として各地に知られ、
別当八大坊をはじめとする
僧坊十八ケ院末寺三、
御師三百坊の霊山として栄える。
しかし、
しかし、
明治初年の廃仏毀釈により、
現阿夫利神社下社のある場所から
現在の場所に移る。
関東一円を初め日本中の強い信仰
に支えられ、幸いにも
ご本尊を初めとする数々の寺宝は
破壊を免れる。
明治期に数多くの信者たちの寄進
明治期に数多くの信者たちの寄進
によって、現在の位置に
本堂をはじめ数々の伽藍が再興され、
現在に至る。
大山寺はまさに多くの信者に
支えられた一大霊地。
次回は、大山登山、
次回は、大山登山、
頂上の阿夫利神社参拝しようかなと、
また楽しみがひとつ増える。