貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

消行方という表現

2021-05-21 15:42:16 | 日記

消行方という表現

令和3年5月21日(金)

ほとゝぎす 

  消行方や 

     嶋一ツ

   時鳥の姿が消えゆく方向に、

島影が一つ見える、の意。

 貞享五年作。

 鉄拐が峰から淡路島を眺望した句。

 柿本人麻呂の

「ほのぼのと 明石の浦の 

   朝霧に 島隠れ行く 

       舟をしそ思ふ」

◎ 「消行方」という表現をしたのは、

島が素早く飛び、あっという間に

消えてしまう鋭さが見事に表現

されている。

 無論、鳴き声も耳元で鳴いたか

と思っているうちに、遙か彼方で

声が聞こえる。

 姿と声とが一緒になって消える速さに

人生の無常さえ言い当てている。

  姿と声が消えた先には、海があった。

『笈の小文』の中の一句で、

鉄拐山から見えるものとすれば、

淡路島を見たということになるが、

「嶋一ツ」と限定を避けたために、

景色の世界がぐんと広くなった。

 句の表現も古歌を援軍に

引き出してくる手法も秀逸である。


時鳥の本意は?

2021-05-20 14:50:59 | 日記

時鳥の本意は?

令和3年5月20日(木)

 今日から鳥の句に!

 先ず、ほととぎす。

 時鳥、郭公、不如帰、子規、杜鵑など

漢字は多い。

またぬのに 

  菜売に来たか 

      時鳥

  ・時鳥はいっこうに鳴かず、

聞こえたと思ったら、

待ってもいない菜を売り歩く

商人の声であったか、の意。

 ・延宝五年以前の作。

 ・平 親宗

「有明の 

   月は待たぬに 

       出ぬれど 

    なほ山ふかき

       郭公かな」

(新古今集)を踏まえる。

 ・菜売・・・「菜買う」の声を

上げて売り歩いたという。

「菜買う・・・鳴こう」の言葉遊びを

使いながら、菜売りとの対比により、

時鳥の本意である待ち続ける心を

詠んだと見られる。

 が、一気に読み下せば、

まるで時鳥が菜売りに来たようでもあり、

そうとると、敢えて本意に逆らった作

ということになる。

◎ ほととぎすの一声を待ちわび

ていると、どこか遠くでそれらしい

声がする。

 ところが、近づいてみると、

それが待ってもいなかった菜売り

の声だった。

 四季折々、季節の菜を売り歩く

のんびりした景色がほととぎす

という鋭い鳴き声と混じり合い、

江戸時代の街の音を気持ちよく

表現しているかな。

 それも、ほととぎすと菜売りでは、

格が違いすぎると批判する人も

いたらしい。


どっちつかずの‥‥自己反省句

2021-05-19 15:40:26 | 日記

どっちつかずの‥‥自己反省句

令和3年5月19日(水)

夕にも 

 朝にもつかず 

     瓜の花

  夕べにの花にも、朝の花にもならず、

瓜の花は日盛りに己が姿を示している、

の意。

  元禄三年作。

 「~も~もつかず」は、どっちつかず

の状態を言う表現。

 『数柑子』に「幻住庵にこもれるころ」

と前書き。

◎ 夕顔の花は夕べに咲くし、

朝顔の花は朝に咲く。

 ところが、瓜の花は、平凡に

昼間咲くのみで、

面白くもおかしくもない。

まるで、

どっちつかずの人間のようだ。

 人は、自分の人生は自分で

対処すべきで、どっちつかずの

人生行路は面白くない。

 芭蕉はこう言いたいのだろう。

 芭蕉の自己反省句でもあるかな?

 幻住庵は、大津市にある芭蕉の庵。


にほの波

2021-05-18 15:03:14 | 日記

にほの波

令和3年5月18日(火)

 いよいよ梅雨入りの気配?

 四方より 

   花吹き入て 

     にほの波

  「にほの波」とは、「鳰の海の波」

で、琵琶湖の波のこと。

 江戸時代には、琵琶湖は、

岸辺が全て桜だったらしい。

 今でも北西の岸部には、桜が

たくさんあるが、

湖畔の桜の美しさは、昔も今も

変わらぬ景色であったろう。

 湖畔の四方から桜の花が散って

水面を白く飾り、それを

「花吹き入て」

と表現している。

 そのために、風が四方から吹き入れる

ことになるが、こう表現されると、

琵琶湖の上に花が渦を巻いているようで、

何とも幻想的な景観が偲ばれる。


遊びと仕事 対比の妙

2021-05-16 14:27:37 | 日記

遊びと仕事 対比の妙

令和3年5月16日(日)

種芋や 

  花のさかりに 

    売りありく

    この花の盛りに、商人が泥のついた

種芋を売り歩いている、の意。

 元禄三年作。

 季語は「花のさかり」。

 前書き「午の年 伊賀の山中/春興」

◎ 伊賀の山中で、見かけた光景を

詠んでいる。

 春の盛りに、人々は桜狩りや花見に

遊びほうけているのに、

種芋(里芋の種芋)を売り歩いている

商売熱心な百姓たちもいる。

 人様々である。

 この句、どこか、遊びに浮かれて

いる大勢の人々と、

商売をしている人々を描き分けていて、

そのちぐはぐした様子が面白い。

 俳句は、違ったものを取り合わせる

ことによって、滑稽味が出てくる。

 芭蕉というと、侘び寂びの哲人だと

思い込んでいる人が多いが、

正反対の遊びにも熱心な人で

あったことを、もっと知るべきである。