貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

柴胡の糸?

2021-05-15 16:54:56 | 日記

柴胡の糸?

令和3年5月15日(土)

かげろふや 

  柴胡の糸の 

      薄曇

    陽炎が立つ中、翁草の白い

羽毛も少しぼんやりして見える、の意。

 元禄三年作。

 柴胡(さいこ)は、一般的には、漢方薬に

用いるセリ科の草。

 『蕉翁全伝附録』の図により、

ここは、翁草とよばれるキンポウゲ科の

赤熊(しやぐま)柴(さい)胡(こ)  と見られる。

 花の後に、雌(め)蘂(しべ)が

糸状に伸び、白髪を連想させる。

◎ 早春の暖かくのんびりした様を

詠んでいる。

 柴胡とは、翁草のことで、

細い糸のような白い芽を出す草。

 新しく糸のような芽を出して、

如何にも春先の野原は陽炎で

うらうらと動いている。

 薄曇りの空は、冬であったら

寒々と見えるのに、

春には暖かそうに見える。

 白糸のような芽はやがて糸から

一人前の草になり、野を緑で蔽う

だろう。

 そして、花が咲き、本当の春景色

になるであろう。


のどかな春を破るおかしさ

2021-05-14 15:51:48 | 日記

のどかな春を破るおかしさ

令和3年5月14日(金)

うぐひすの 

  笠おとしたる 

      椿哉

   鶯が梅ならぬ椿の花笠を

落としたのか。

花がぽとりと落ちたことだ。

 元禄三年作。

◎ 鶯と言えば、普通は梅と

相性がいいはずだ。

 しかし、ここでは庭先で

さえずっていた鶯が梅の花ではなく、

椿の花を落としたというのだ。

 昔から鶯は梅の花で造るというのが、

決まり切った春景色であった。

 それを椿にしたおかしさが

俳諧的な滑稽さである。

 実際にそういう出来事が

あったのかも知れない。

 それをすぐに俳句の面白みに

変えたところが、芭蕉らしい。

 椿は、ポテッと落ちる。

 梅ならば鶯と優雅な釣り合いが

とれるであろうが、

椿では風流から遠い。

 落ちた花の音に吃驚して、

普段の鳴き方と違って、

奇妙なさえずりになってしまった

鶯の慌てぶりが春ののどかさを

破って、おかしい。


花見も華見!

2021-05-13 15:02:42 | 日記

花見も華見!

令和3年5月13日(木)

くさまくら 

  まことの華見 

    しても来よ

   旅寝を重ね、風雅を求める

本当の花見をしてきなさい、の意。

 元禄二年作。

 義仲寺の庵で共に年を越し、

正月三日に芭蕉と別れた路通は、

茶入れの紛失事件に関わって、

江戸に下り、西上中に芭蕉の怒りを

知って踵を返し、4月から8月まで

奥州行脚を行う。

 この句がどの時点で言われたかは

分明でなく、期待を込めた餞別吟か、

反省を求める辛辣な作か、

見解が分かれている。

 我が師は、

「元乞食のような生活をしていた

 弟子の路通に向けて言った句。

 これから奥州に行って、旅寝を

しながら花見をしてくると言うが、

道中気をつけて年小の芭蕉が言った

のである。

 金がないから野宿しかできないが、

それでもこの桜の頃は、何やら美しい。

しかし、夜は寒いから体に障らない

ようにしろよと、

弟子に一句を与えたのが、芭蕉の優しさ

である。

 立派な宿に泊まるより、

おまえの華見の方が誠の華見だと

励ましている。」

と餞別吟としてとらえておられる。

 花見が華見としているのも、

激励しているとしかとれない。

 


芙蓉の木の生命力

2021-05-11 16:08:23 | 日記

芙蓉の木の生命力

令和3年5月11日(火)

枝ぶりの 

  日ごとに替る 

     芙蓉かな

 日毎別の枝に花を咲かせ、

芙蓉は枝の姿が次々に変わることだ。

 元禄二年(1689)作。

 初秋に咲く  芙蓉の花は、まことに

見事。

 赤、淡い紅、白色の花が

秋のうらぶれた季節に派手やかに咲く。

 いっとき、芙蓉の花が好きで、

我が庭で愉しんだ時もある。

 やはり若いときだ。

 大きな花は、目も覚める思いだが、

わずか一日で落ちてしまう。

「毎日咲いては散る芙蓉は、

あらもったいないと思わせるが、

一日で落ちる潔さに目を向けると、

自然の念入りな開花に賛嘆する。」

と師匠は語る。

 それを、芭蕉は、

「枝ぶりの日ごとに替る」と表現。

 一日花であるから、花を写生にして

落ち花の無惨さを詠めばいいのに、

芙蓉の木の力強い生命力という方へ

写生の力点を変えた。

 なるほどこう表現すると、

もったいないという人間の心を

考えなおさねばならないかな?

 何処にして視点を当てるかも

魅力だ。

 


菊とぬかご(零余子)

2021-05-10 16:03:42 | 日記

菊とぬかご

令和3年5月10日(月)

 今朝は三回目のコロナワクチン

予約。9時スタート!

 またもアウト。ゲームオーバーと

なる。

 長寿を願っているのか、この私も。

きくの露 

  落て拾へば 

    ぬかごかな

    菊の露が落ちたと見えて拾うと、

零(ぬ)余(か)子(ご)  なのであった。

 菊の花の露は、香りが高く清らか

である。

 それが花からポトリと落ちた。

 急いでしゃがみ、露を探してみたが、

既に地に吸い込まれて見当たらない。

 その代わりに、零余子つまり

山芋の茎の瘤を拾いあげる。

   菊も零余子もどちらもありがたい。

特に、零余子に塩を掛けると、

味が素晴らしい!

 しかも長寿になるといわれている。

 きくとぬかごを平仮名にして、

平衡を保たせた表現も流石である。

   小さな自然が俳人の一生を予言

するようでめでたい。

 花の香りと時間の長さが一瞬にして

変わる。

  瞬時と儚い命が長寿にと。

 これは、謡曲「菊慈竜」から引用。

 菊の露を乃音で700歳の長寿を

得たという謡曲を、瞬時に思い出して、

慌ててしゃがみ込む芭蕉の素養も

素晴らしい。

 元禄二年(1689)の作。