貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

安城市: 弥 厚 公 園  日本のデンマーク創生者と芭蕉の句!

2023-10-05 10:16:27 | 日記
令和5年10月5日(木)
安城市: 弥 厚 公 園   
 
  
 弥厚公園は、
都築弥厚さんの銅像が建つ
公園。

<都築弥厚の銅像と句碑群>


 説明板には、
「明治用水の先覚者」
と題される人。
 碧(へき)海(かい)地域のうち
明治村・依(よ)佐(さ)美(み)などの
地域は台地で、農耕をするため
にはため池の水に頼る他ない
枯れた土地であった。
 明治村の酒屋に生まれた
弥厚はその現状をとらえ、
台地上に用水を通すことを考える。
 地域住民からの強い反発を受け、
測量をするに当たっては夜中
密かに行わねばならぬような状況。
 それでも算術家の石川喜平らの
手助けを借りて何とか測量を
終える。
 その後、数回幕府に嘆願にいくが、
夢叶うことなく逝去。
 私財のすべてを投げうち、
多額の借金だけが残る。
<その説明>

 その後、
その意志を碧南の岡本兵松、
挙母の伊豫田与八郎が受け継ぎ、
見事に明治用水は完成。
 後に
「日本デンマーク」とうたわれた
安城の発展はここから始まった
という。
 都築弥厚没後180年を記念し、
弥厚翁の功績を記した看板や
東屋を新しく設置。
 身障者にも配慮した駐車場や
歩道が整備され、弥厚公園が
リニューアルされる。
 芭蕉句碑も句碑群にあり。
<芭蕉句碑>

 句は、
「風かほる 
  はをりはゑりも 
    つくろはす」
 句碑の背面に、
句碑の由来が刻印されている。
<芭蕉句碑の由来>



安城市: 村高神社(天神社) 咲くほどに藤野もゆかし・・・!

2023-10-04 11:01:58 | 日記
令和5年10月4日(水)
安城市: 村高神社(天神社)          
 天神と天満は同じ。
 山の神が山神であるように、
天の神が天神。
<社殿>

 菅原道真公を祀っている。
 安城には、
天神社があちこちにある。
<天神社社記碑>

 村高天神,小川天神,堀内天神,
池浦天満,根崎天満等。
 御由緒碑を見ると、
矢作川の川岸に鎮座。
 昔から,
人は堤防が切れないようにと願い、                    神社を建てたようだ。
 この辺りは昔、
藤野の里と称され、藤の名所である。
<藤の里伝承地>
<竹で囲われている芭蕉句碑>

 それを記句し、
芭蕉句碑を建立。
<芭蕉句碑>

 句は、    
 「咲くほどに 
   藤野もゆかし
      春のくれ」



安城市: 了雲院・大乗寺 安城城址と芭蕉の句!

2023-10-03 10:29:19 | 日記
令和5年10月3日(火)
安城市: 了雲院・大乗寺   
 昔、地理かな?
「日本のデンマーク」
と呼ばれた「あんじょうし」に入る。
 近くの「新城市」は「しんしろし」
と呼ぶのを芭蕉のお陰で知ることに!
 さて、安城市では・・・・? 
 まず、 了雲院・大乗寺参拝! 
<山門前の参道庭園>
      
 もとは安城城と呼ばれ、
安城町に所在。
<安城城址祈念碑>


 碧海台地東縁部の半島状にのびる
台地上に位置。
 台地の南・東・西側は湿田と
なっている。
 天然の要害。築城・廃絶時期は
明白ではないが、
戦国時代には松平氏の居城となり、
城を巡って織田氏との間で
数度の攻防が繰り広げられたことは
有名。
 清康の代になって本拠地が
岡崎に移され、
江戸時代には畑地となる。
 寛政4(1792)年に了雲院が移転し、
現在に至る。
<了雲院・大乗寺本殿>
 
 昭和63年(1988)以来、
数度の調査が行われた結果、
多くの地点で堀が確認される。 
 一部の堀は堀の中を区切る
畦状の遺構が検出されている。
 また、
本丸に当たる現了雲院境内地
の調査では、江戸時代の
畑状遺構のさらに下層に
戦国時代の遺構が残っている。
 現地表面から1m近く盛り土が
されていることも確認。
 大乗寺は、
安祥城の本丸跡に建てられている。
 木立の坂まで下りると、
見事に整備され、歴史博物館などあり。
 大乗寺は小高い丘の上にあり、
かつての城跡像を想像する。
 境内には本多忠高の墓があり、
墓地は曲輪跡のような地形に
なっている。

 本堂から墓地に行く山門は、
城門があったように思えるような
場所にある。
<芭蕉句碑>

 芭蕉の句は、 
 「けふばかり 
   人もとしよれ 
     はつしくれ」
           。



岡崎市: 誓 願 寺 頼経が贈った笛「薄墨」と芭蕉の句!

2023-10-02 10:05:18 | 日記
令和5年10月2日(月)
岡崎市: 誓 願 寺   
<本殿>
   
 誓願寺は、
義経が浄瑠璃姫に贈ったと
される笛「薄墨」が安置
されている。
 浄瑠璃姫の父兼高長者が、
義経と浄瑠璃姫の木像、姫の鏡
などの遺品とともにここに葬り、
十王堂を建てる。
 浄瑠璃姫の管弦と
義経の薄墨の笛を合わせて
奏でて出会った処。
<浄瑠璃姫縁起>

 現在は、矢作保育園として
境内で子どもたちを育んでいる。

 三墓石。

 中央が浄瑠璃姫の墓、
左が兼高長者の墓という説明。
<林立する墓石の前>

 林立する墓石の前に
芭蕉句碑がある。
<芭蕉句碑>

 句は、
「古池や 
   蛙飛び込む 
     水のおと」



岡崎市藤川宿の十王堂 初の十王(裁判半官)堂と芭蕉句碑!

2023-10-01 10:52:16 | 日記
令和5年10月1日(日)
岡崎市: 藤川の十王堂      
 十王堂の創建年は不詳。
<新しくなった十王堂>

 しかし、祀られている十王像の台座
の裏に宝永7年(1710)の記載がある為、
同年かそれ以前からあった推定される。
 藤川宿の西端に位置し、
秦江王・初江王等十王を祀る信仰と
共に結界鎮護の意味合いもある。
 以前の建物は桁行3間、梁間1.5間、
切妻、桟瓦葺の簡素なもの。   
 民俗的には貴重なものの一つ。
 昭和34年9月の伊勢湾台風に
よって屋根などが大きく損壊。
 その後、屋根などの改修工事が行われ、
現在の姿となっている。
<説明>

 「十王堂」は、十人の「王」を祀る堂。
 その「王」とは、
冥土にいて、亡(もう)者(じや)
(死んだ人)の罪を裁く
十人の判官を指す。
 1、秦(しん)広(こう)王
 2、初江(しよこう)王 
 3、宗(そう)帝(てい)王
 4、五官王
 5、閻魔王
 6、変成(へんじよう)王 
 7、平等王
 8、太山(たいざん)王
 9、都市王
 10、五道転(てん)輪(りん)王 
の総称。
 境内には、 
「爰も三河 
   むらさ記麦の 
     かき津はた」
         はせを
 の句が刻まれた
芭蕉句碑がある。
<芭蕉句碑>