☆小粒の作品ではあるが、完成度は高く、故に、私が語ることは少ないぞ。
初っ端のタイトルクレジットから、ブルージーっちゅうか、ジャズった曲が流れ、一気に世界に引き込まれる。
かつて朝鮮戦争を経験した元軍人のウォルト(クリント・イーストウッド)は、退役後の自動車工も退職し、妻にも先立たれ、生来の頑固さで子供や近所の住人とも疎遠に暮らしていた。
町は、片田舎と言えども、多民族国家アメリカに相応しく、黒人やらメキシカン、東南アジア系の人々らが定住し、それらの各集団のワルどもも幅を利かせている。
そんな中で、ウォルトは、町の秩序の乱れや治安に、性格の気難しさ故にやや自己中な不満を感じつつも、自分のテリトリー(家屋・庭)だけは保守していた。
庭先には、常にアメリカ国旗がはためいていて、うん、彼は共和党支持のコテコテの保守愛国者なのだな^^
そんな彼が、死んだ妻の依頼で何かと連絡してくる神父や、息子家族たちに無愛想な対応をする様は、その「マイナス的に気の利いたセリフ」ともども、コメディ風で何度もクスクスと笑わせられた^^
顔を真っ赤にして、眉間にしわを寄せる「怒鳴る一歩手前の赤鬼みたいな顔」なんて、もう最高だ^^
そのため息と言うか、社会への不満のようなうめき声も、実にいい!^^;
◇
隣りに、モン族の一家が引っ越してきた。
ウォルトは、差別主義者なので、顔をしかめる。
しかし、その家の息子・タオが、同じくモン族のワルどもに絡まれている時や、
池脇千鶴似の可愛い娘・スーが、黒人にちょっかい出されている時など、
差別主義者以前の正義感で助けてしまう。
タオは、チンピラどもに急かされ、ウォルトの愛車である<グラン・トリノ>を盗もうとさえしていたのだが、謝罪をするのだった。
そして、モン族の家族との交流が始まる。
はじめは、その押しつけに嫌々ながらも、スーの聡明さや、タオの可能性、そしてモン族への民族的な興味に、ウォルトは、その一人身の寂しさに素直になってみたときの帰結としても、タオの家族と親しくなっていくのだった。
果たして、その在米少数民族モン族の文化描写が正確なのかは分からないが、その民族的な個性は、観ている私や、ウォルト(もだろう・・・)にも、敬意を表さざるを得ないものとなっていく。
後に、ウォルトは、神父に「息子二人との不仲に悔いがある」と懺悔するのだが、
それをやり直すかのように、ウォルトは、多くをタオに教えていく。
多くの若者が定職を持たず、町をうろついていたが、ウォルトは「工具」の実用コレクションなどを通し、タオに事を為す・・・、働くことの重要性を教える。
また、人とうまく交われないタオに「大人の普通の会話」なんてものも、非常に具体的に直接的に教授する。
「イタ公」との床屋とのエピソードなど素晴らしい^^
内気な青年であったタオも、次第にいっぱしの口を聞くようになる。
タオは、モン族のいい女をデートに誘ったりもする。
そして、そのデートには、ウォルトも、<グラン・トリノ>を貸そうじゃないかと言うのだった^^
◇
ウォルトは差別主義者だが、やや、そこには哲学もある。
白人とつきあっていたスーに、「同じモン族とつきあえばいいじゃないか」と諭すのだ。
これは、[お前らイエローが白人とつきあうな]と言うニュアンスではなく、[同じ民族のほうが気心(文化・民族性)が知れてるじゃないか]と言う、ウォルトの「思想」なのだと思う。
◇
しかし、つくづく、アメリカは銃社会だと思い知らされた。
アクション映画でなくとも、おそらく、例えば、『マーリー』や『イエスマン』なんかも、何かあったら戸棚から銃が転がり出ていたんだろうなあ、と思わせられるほど、この作品のアメリカには銃が生活と一体に頻発している。
これが、アメリカの現実でもあるんだろうなあ。
◇
ウォルトは、最後の最後まで、朝鮮戦争での自分の行いを悔いたりはしない。
神父への懺悔も、あくまでも妻への不義や、息子との不仲についてだ。
しかし、タオの家族と、モン族ギャングとの関わりの今後を真摯に考えたとき、
そこに、先々においての自分の存在しないタオの家族の未来を思い、
それこそ、このケースにおいての、片のつかない「憎しみの連鎖」に思い至り、
あの、終幕に至ったのだろう。
・・・これは、いかにも、リベラルな決着の付け方のようでいて、そうではない。
圧倒的に攻撃的な、・・・そう「特攻」である。
戦いの前に、身を清めるウォルトの姿でそれは分かろう。
『硫黄島からの手紙』を撮ったとき、イーストウッドはその着想を得たのだ。
バカな奴が、保守派クリント・イーストウッドの変節を歌いそうなので、それだけは釘を刺しておく。
◇
しかし、イーストウッドには、『ダーティー・ハリー』の完結編はお願いしたいのだが・・・。
それから、モン族ギャングの一人がしている入れ墨の「家庭」の文字が逆説的で泣かせる^^;
(2009/04/26)
初っ端のタイトルクレジットから、ブルージーっちゅうか、ジャズった曲が流れ、一気に世界に引き込まれる。
かつて朝鮮戦争を経験した元軍人のウォルト(クリント・イーストウッド)は、退役後の自動車工も退職し、妻にも先立たれ、生来の頑固さで子供や近所の住人とも疎遠に暮らしていた。
町は、片田舎と言えども、多民族国家アメリカに相応しく、黒人やらメキシカン、東南アジア系の人々らが定住し、それらの各集団のワルどもも幅を利かせている。
そんな中で、ウォルトは、町の秩序の乱れや治安に、性格の気難しさ故にやや自己中な不満を感じつつも、自分のテリトリー(家屋・庭)だけは保守していた。
庭先には、常にアメリカ国旗がはためいていて、うん、彼は共和党支持のコテコテの保守愛国者なのだな^^
そんな彼が、死んだ妻の依頼で何かと連絡してくる神父や、息子家族たちに無愛想な対応をする様は、その「マイナス的に気の利いたセリフ」ともども、コメディ風で何度もクスクスと笑わせられた^^
顔を真っ赤にして、眉間にしわを寄せる「怒鳴る一歩手前の赤鬼みたいな顔」なんて、もう最高だ^^
そのため息と言うか、社会への不満のようなうめき声も、実にいい!^^;
◇
隣りに、モン族の一家が引っ越してきた。
ウォルトは、差別主義者なので、顔をしかめる。
しかし、その家の息子・タオが、同じくモン族のワルどもに絡まれている時や、
池脇千鶴似の可愛い娘・スーが、黒人にちょっかい出されている時など、
差別主義者以前の正義感で助けてしまう。
タオは、チンピラどもに急かされ、ウォルトの愛車である<グラン・トリノ>を盗もうとさえしていたのだが、謝罪をするのだった。
そして、モン族の家族との交流が始まる。
はじめは、その押しつけに嫌々ながらも、スーの聡明さや、タオの可能性、そしてモン族への民族的な興味に、ウォルトは、その一人身の寂しさに素直になってみたときの帰結としても、タオの家族と親しくなっていくのだった。
果たして、その在米少数民族モン族の文化描写が正確なのかは分からないが、その民族的な個性は、観ている私や、ウォルト(もだろう・・・)にも、敬意を表さざるを得ないものとなっていく。
後に、ウォルトは、神父に「息子二人との不仲に悔いがある」と懺悔するのだが、
それをやり直すかのように、ウォルトは、多くをタオに教えていく。
多くの若者が定職を持たず、町をうろついていたが、ウォルトは「工具」の実用コレクションなどを通し、タオに事を為す・・・、働くことの重要性を教える。
また、人とうまく交われないタオに「大人の普通の会話」なんてものも、非常に具体的に直接的に教授する。
「イタ公」との床屋とのエピソードなど素晴らしい^^
内気な青年であったタオも、次第にいっぱしの口を聞くようになる。
タオは、モン族のいい女をデートに誘ったりもする。
そして、そのデートには、ウォルトも、<グラン・トリノ>を貸そうじゃないかと言うのだった^^
◇
ウォルトは差別主義者だが、やや、そこには哲学もある。
白人とつきあっていたスーに、「同じモン族とつきあえばいいじゃないか」と諭すのだ。
これは、[お前らイエローが白人とつきあうな]と言うニュアンスではなく、[同じ民族のほうが気心(文化・民族性)が知れてるじゃないか]と言う、ウォルトの「思想」なのだと思う。
◇
しかし、つくづく、アメリカは銃社会だと思い知らされた。
アクション映画でなくとも、おそらく、例えば、『マーリー』や『イエスマン』なんかも、何かあったら戸棚から銃が転がり出ていたんだろうなあ、と思わせられるほど、この作品のアメリカには銃が生活と一体に頻発している。
これが、アメリカの現実でもあるんだろうなあ。
◇
ウォルトは、最後の最後まで、朝鮮戦争での自分の行いを悔いたりはしない。
神父への懺悔も、あくまでも妻への不義や、息子との不仲についてだ。
しかし、タオの家族と、モン族ギャングとの関わりの今後を真摯に考えたとき、
そこに、先々においての自分の存在しないタオの家族の未来を思い、
それこそ、このケースにおいての、片のつかない「憎しみの連鎖」に思い至り、
あの、終幕に至ったのだろう。
・・・これは、いかにも、リベラルな決着の付け方のようでいて、そうではない。
圧倒的に攻撃的な、・・・そう「特攻」である。
戦いの前に、身を清めるウォルトの姿でそれは分かろう。
『硫黄島からの手紙』を撮ったとき、イーストウッドはその着想を得たのだ。
バカな奴が、保守派クリント・イーストウッドの変節を歌いそうなので、それだけは釘を刺しておく。
◇
しかし、イーストウッドには、『ダーティー・ハリー』の完結編はお願いしたいのだが・・・。
それから、モン族ギャングの一人がしている入れ墨の「家庭」の文字が逆説的で泣かせる^^;
(2009/04/26)