『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[皇學館教授・新田均ブログより(1)]

2010-10-31 23:16:06 | 保守の一考
☆ここでは、皇學館教授の新田均先生のブログをそのまま転載してしまいましょう^^

 この問題は、より多くの人々に読まれたほうがいいでしょうから^^

 今回、「皇位継承問題」で孤立している小林よしのり氏と、対立する一人になった渡部昇一氏が、小林よしのり氏に『ゴーマニズム宣言』でデマを流されたのを反証する内容でした。

 しかし、かつて、反米・親米問題で孤立した小林よしのり氏は、渡部昇一氏と共著を出すことでイメージ上の孤立を回避していたものだけどね・・・。

   ◇

   <新田均のコラムブログ>

     小林よしのり氏“公認”「ゴーマニスト」宣言(117)

 小林さんは『WiLL』12月号195頁で、渡部昇一氏の発言を批判して、次のように書いています。「皇學館に確認したのだが、『神道専門の教授として渡部氏を招くとは考えられない』ということだった。」「こんな風に、論敵の批判は、事実確認に基づいてやらなきゃ相手のダメージにならないよ。」
 しかし、これでは「事実確認」になっていません。

 ①.「皇學館に確認した」といのは、どういう意味でしょうか。まさか「皇學館」という建物に聞いたわけではないでしょうから、「皇學館の関係者に確認した」という意味でしょう。しかし、このような実名を上げない書き方は、以前彼が八木秀次氏を批判した際に否定したやり方です。「わしはこのような確実な根拠を示さず書かれた説を信用しない」(『サピオ』平成21年11月25日号56頁)

 ②.その皇學館関係者は、なぜ「考えられない」という言い方をしたのでしょうか。事実を知っている人ならば、「そういう事実はあった」「そういう事実はなかった」と、イエス・ノーで明確に答えるはずです。つまり、「考えられない」などという曖昧な言い方をしていることが、この人物が事実を直接に知り得る立場にはなかったことを証明しています。

 そこで、当時、直接に事実を知り得る立場にあった私が申し上げましょう。
あの時は、神道を専門分野としながら宗教学を担当していた神道学科の教授が他学部に異動になったために、神道に理解の深い宗教学担当者が必要となり、そこで渡部昇一氏に当時の文学部長他がお願いに参上したというのが真相です。


 ◇

 こうして事実を公開しても、小林よしのり氏は、都合の悪いことをスルーして、その先の屁理屈を展開させてしまうからなぁ。

 だから、時に『ゴーマニズム宣言』は<砂上の楼閣>となり、崩れる。

 新田先生は、論理構築においての事実の積み重ねには、非常に自分を律しているが故に「負け無し」の論客でもある。

 文章の遊びの部分と、そこは厳然と区別している。

 ・・・ところで、新田先生には娘さんがいる。

 私もそろそろ遠距離恋愛をしようかなぁ^^;

                                           (2010/10/31)
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[標語を疑え! 敵は中国だけ!(2005/5/28の再掲) ]

2010-10-31 07:30:03 | 保守の一考
   [標語を疑え! 敵は中朝韓(特定亜細亜)だけ!(2005/5/28) ]

▼よく、靖国神社に祀られる、いわゆる「A級戦犯」を糾弾してくる中国や半島二国に対し、「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏=神様>と見做し敬う民族性がある」と言う方がいる。

 ・・・そんな考え方は日本に存在しないだろう。

 宗教哲学上においては存在するが、日本人の生活習慣においてそんなものはない。

 靖国神社は、御国のために戦い亡くなった方々を祀るために存在している。

 納得できぬ欠陥国際法廷「東京裁判」で、敗戦国日本の首脳陣は、いわゆる「A級戦犯」とされてしまったが、それでも、当然、日本にとっては英雄だし恩人だからこそ「神様」として祀っているのだ。

 靖国神社に限らず、官軍でない戦死者(いや、戦争で活躍した人にかかわらず)が祀られている神社もあるが、それは、国単位に限らずに、各共同体に対し、何らかの恩恵があったからこそ祀るのだ。

 国から小さな共同体、すべからく、その各単位においての「大いなる正義」を執行してくれたからこそ、祀られている。

 それが、人が死んで神様として祀られるようになった神社の本義である。

(現世で大悪行を為した人物を神様として畏れ敬うタイプの神社は、次義的なものとしてここでは語らない)

▼大阪は池田小学校の児童殺傷事件、その被害者の親御さんが、こんなことを言っていたのを私は忘れない。

 【『時の経過とともに、悔しさ、無念さ、理不尽さが純化され、増大していきます』】

 私には、この親御さんの気持ちが(それでも遠く及ばないでしょうが)、よく分かる気がしている。私個人にも、絶対に許せない人物がいるので・・・。

 児童殺傷事件の犯人・宅間守は死刑にされた。

 それでも、親御さんの気持ちは晴れることはないだろう。

 百遍殺しても飽き足らないだろう。

 理不尽な事象に対しての、人間の恨みは、万国共通である。

「日本人には、いかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」などという標語がどれほど無責任なことであるか・・・。

 その言葉は間違っているのです。

 その標語を、いわゆる「A級戦犯」を想定し語ることは勘違いはなはだしいし、凶悪犯罪者の死に向けて語ることは言語道断のことである。

 横田早紀江さんの四半世紀に渡る苦悩も、「恨み」と言うには多元的ですが、「一途な思い」での戦いです。

 横田夫妻のケースでの、横田夫妻に対し深い深い苦悩を与えた(与え続けている)者が、たとえ死んだとして、先ほどの標語で済ませられるものなのか? と言う問題もある。

 そう言った標語に寄りかかる者は、宅間守や金正日に対し言っている訳ではない、と言うかも知れない。

 宅間守や金正日は例外だ、と言うかもしれない。

 でも、おかしいのです。

「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」などと言う標語は、かような異常犯罪者に対して使う以外に使用法がないからです。

 いいですか、日本人にとって、いわゆる「A級戦犯」は犯罪者じゃないのですよ。

 恩人なのですよ。

 死んだら神として崇められて当然の人たちでもあるのですよ。

「日本人には、いかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」と言う標語を冠する対象ではないのです。

 なら、その標語は、誰にあてはめるべきものなのか?

 宅間守か? 金正日か? スーパーで赤ちゃんを刺した氏家克直か?

 上記のような異常者に、「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」などと言う標語をあてはめられっこないじゃないですかッ!

 つまり、その標語は、全く意味を為さない虚言に過ぎないのだ。

 いや、金正日は別にしても、宅間や氏家の両親や家族ならば、例え、そんな異常犯罪者に対しても愛を向けるかもしれない。

 家族や隣人に優しさを向け、その死を悲しみ、霊を慰めるのは当然のことだ。

 また、死刑執行された宅間や、当然ながら死刑になるであろう、ならなくちゃいけない氏家を弔う坊さんならば、宗教的崇高さでもって、異常犯罪者に対し慈愛を向けもしよう。

 が、なんで、市井の人間が、「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」などと言う、<根も葉もない標語>にたぶらかされて、間接的に、宅間や氏家に殺された子どもの親御さんの無念を押さえ込もうとするのか?

▼「日本人にはいかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」と言う標語は、全くのデタラメである。

 ただ、万国共通の考え方として、どこの国の人も、死者を恭しく弔う風習はある。

 そして、「理不尽な目」に遭って、恨み・怒り・悔しさを持ち続けるのも万国共通である。

 日本人が、他国人に比べ、死に対しサッパリしていると思われているのは、以下の一点に尽きる。

   【日本人は「戦争」にさほど理不尽を感じない】

 これに尽きる。

 これは、民主主義諸国に共通の観点である。

 戦争と言う「国家の大枠の定め」に対しては、その最悪の結果・死さえも「務め」と考えているからだ。

 つまり、国と個人の相互補完を、常に意識している結果である。

 中国共産党による、権力側からだけの既得権益厳守のための人民圧迫、あるいは、日本共産党による、個人の権利だけを振りかざした、国民の義務放棄の果ての体制への突き上げ、それらとは違うのである。

 戦争による「死」は、民主主義においては、けして「理不尽」ではないのである。

 それは、「戦争」が、相手国との幾つもの条件付けをされて行われるものだからである。

 ある意味、「殺し合いの運動会」だ・・・。

▼だが、特に、中国では、この概念が崩れる・・・。

 本来あったであろう祖先を敬う純粋な気持ちなどは、共産主義の唯物論で押しつぶされ、されど国民意識なき国家意識によって、精神の伴わない戦争を行なわされる。

 戦争における理不尽な気持ちは次第に増加し、でも、そのはけ口である自己(自国)は、厳重な思想統制下にある。

 やり場のない気持ちを、【本来の対象であるはずの自分の国なのに、でも、その自国から偽りの事実を与えられることによって、他国(まあ、日本だね)への怨念を育む】のである。

 民主主義においての、国民の戦争参加は、おおむね納得出来る形態をとる。

 しかし、共産主義においては、理不尽さを伴い、その理不尽さは、自国から与えられたものなのに、それを歪めさせられて、他国(まあ、日本だね)に向けさせられる。「自発的に」の意識とともに。

 特に、嘘を事実として教えて、だ。例えば、南京大虐殺・・・。

 嘘によって、人間の純粋な気持ちの一つ「怒り」や「恨み」を、中国人は生じせしめられてきたのである。

▼日本と言うか、民主主義国家の特性として、戦争を「国民の務め」として考える、がある。

 そして、何を「理不尽」と感じるか、と言う問題も派生としてある。

 ・・・「理不尽」な気持ちは、「テロ」や「虐殺」によって起こされる。

 民主主義国家は、「戦争」に、最終的には道理を見ようとする。

 しかし、「テロ」と言う無法には、理不尽さばかりつのるのである。

 そこには、「戦争」にはある、最低限のルールさえ存在しないからだ。

 私は、「テロ」行為に一理さえ感じる。だが、テロ行為が、民主主義国家において、絶対に認められないことも知っている。

 そして、無差別テロを受けた者が、「テロ」を恨み続け、「テロ」に怒り続けるのも道理である。

 日本人とても、個人異常犯罪を含む「テロ」的行為には、怒りや恨みと言う本来は誉められない負の感情を向け続けるだろう。

「拉致はテロ」である。

 横田夫妻をはじめ、拉致被害者の家族の苦悩は続きます。

 それに対し、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」などと言う標語は口が避けても言えない。

 日本人とて、理不尽な出来事には、怒りや恨みを延々と持続させ続けるのである。

▼「戦争における理不尽」として、広島・長崎の原爆や、東京大空襲の問題がある。

 この問題については、私は、全然言及できないが、「大虐殺」とも思っている。

 ただ、日本人の中には、ここのところを、「戦争」の一環として甘んじて受けている人々もいるようだ。

 もちろん、アメリカは、けして、その非を認めやしない。

 だが、アメリカは、同時に、例えば、国は違えど、母国のために死力を尽くした軍人を褒め称える国民性も併せ持つ。

 真珠湾近在の「飯田房太大尉顕彰の碑」などが有名だ。

 ここはポイントであり、アメリカが靖国神社に敬意を向けるのと同様の意味がある。

 そこは、重要な、日本との価値観共有のポイントなのである・・・。

 中国共産党には、そんな余地はない。

 旅順にある日本軍の遺跡の扱いは酷く、乃木大将の碑などは旅順監獄に放置されている・・・。

 国際外交において、自国の我を通すことしか、中国共産党には、ない。

   【そんな相手と分かり合おうとする愚、

       そんな相手と分かり合えると信じる愚】

「左の頬を打たれたら、右の頬を出す」と言うマゾ馬鹿・・・。

 そうして、反日暴動を受けるまま、ガス田を掠め取られるまま、国民を拉致されるまま、日本領土竹島を占拠されるまま、領海を侵犯されるまま、自国の英雄を靖国で敬うと言う日本国民の精神世界さえ踏みにじられるまま、日本国は衰退していくのか・・・。

 異常犯罪者、異常犯罪国家には、ハムラビ法典の教えを遵守するしかない。

 目には目を、歯には歯を!

 埴輪を蔑ろにする野郎には、埴輪を!^^;

   【日本人! そろそろ理不尽に対して、ブチキレようぜ!】

▼日本が、「日本人には、いかなる死者も死んだら<仏>と見做し敬う民族性がある」、「日本人は、恨みを持続させない民族性を持つ」と言う標語を、言葉として形づくる必要性さえなかった時代は、とっくのとおに終わっている。

 それは、明治維新によってだ。

 日本には、古来から、純粋な民主主義が存在していた。

 これは、中華世界とは全く異なる価値観だ。

 重要なポイントとしての、【日本とアジアとの差異】だ。

 アジアの中での、民族の系統以上に大きい、日本と近代欧米との精神的近似ポイントだ。

 故に、欧米の荒っぽい民主主義を受け入れられたのだ。

 そして、開国を始めた時から、現実的問題として、あらゆる国から、美徳と同時に悪徳が流れ込んできた。

 人間と言うのは、美徳は当然に甘受する。

 だが、悪徳による混乱には戸惑いは隠せない。

 悪徳による不利益には、「理不尽」を禁じえない。

 それまで、鎖国していた日本国においては、持って生まれた世界の常識があり、理不尽を理不尽と考えないでいられた。

 何よりも、日本には、世界に教わるでもない民主主義が存在していた。

 だが、世界から、日本人の常識とはあまりにも違う価値観が流れ込んできた。

 理不尽を感じずにはいられない社会に変貌していった・・・。

 そこで、「いかなる死者も仏様」、「恨みを持続して持たない民族性」を捨て去らねばならない国に変わっていくのである。

 それは、しょうがない。

 世界は日本だけではないのだから・・・。

 おそかれはやかれ、悪徳は流入してくる。

 でも、そこにおいて、絶対に、日本人として譲れないものがあろう。

 そこだけは死守せねばならない。

 例えば、国(共同体)の恩人の霊への敬意をけして忘れない、だ。

 その価値観を理解してくれている、中国と半島二国「以外」の国々とは、それだけで有効な外交を結べると信じられる。

▼欧米の民主主義の「荒っぽさ」とは、文字通りの「(十字軍的)暴力」と、そして、あまりにも大きな左翼的体質である・・・。

 日本が、中朝韓に対し、国家一丸となって戦えないのは、左翼内包の欧米的民主主義を受け入れたからである^^;

 台湾も、同じような苦しみを抱いている・・・。

▼なんか、書き残したことがあるような気がするなあ・・・。

 まあ、これからも書けばいい・・・^^

                                           (2005/5/28の再掲)
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