『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

ジュリアナから墓場まで・・・。森羅万象を語るブログです。
ここでは、気軽に読めるエントリーを記していきます^^

[私の1991年のメモ日記・2]

2009-04-14 06:47:54 | 1991年の日記
☆仕事の前に更新しておきましょうかね^^

   ◇   ◇   ◇

 [私の1991年のメモ日記・2(好評なので^^;)] (2007/07/21 20:49)

▼好評のようなので、また転載する^^

 今日は、姪っ子のバレエの発表会に行ったのだが、

 姪っ子のダンスが非常にうまくなり、マジで感動してしまった^^

 また、発表会には、3歳くらいの女の子も出ていたのだが、寸足らずの手足を棒のように動かす様がメチャ可愛かった^^

     #     #     #     #     #

 ☆1991年11月27日(水)

 昨夜は徹夜でゼミ発表の草稿の清書。とりあえず書き終わると、AM5時、さすがにまたもバイトを休んでしまう。丸井に11・12・1月分のローンを払い、家賃を下ろすと、第一勧銀の自分の定期預金からの借金もあり、今月稼いだ14万円、プラマイ0と消える。昨日と今日、仕事休んでしまったのは、後々、大きな悪影響を生むだろう・・・。さあ、ゼミ発表だっ! 僕が2時に学校に着くと、広瀬君は来ていたが、星名さんがまだだった。どうした星名!? で、星名さんが遅れてきたと思ったら、今度は広瀬君の作業が進まない。どうした広瀬!? ともあれ、原稿をプリントし、三人でホッと一安心し、コーヒーを飲む。さて、発表! そして先生との問答、緊張しながらも言いたいことは言えた。終わった後に、半澤さんが、僕の発表に対し、「力作じゃん」と肩を叩いてくれて、それがメチャ嬉しかった。

 ☆1991年6月25日(火)

 「日分特研(近代)」のレポートを、今日の三次限目までに書かなくてはならないなあ。昨日は、「女の一生」を読んだわけだが、一つの作品をじっくりと読み込むのはいいことだと思う。読み飛ばしていったら、頭に残らないものなあ。でも、あと5時間でレポートを一本あげなくちゃならないのは辛いもので。・・・だが、思ったよりスムーズに書けた。もちろん、内容が問題となるのだが。バイトを終え、サンプラ(中野サンプラザ)の横を通っていると、北島三郎が裏口から出てきた。日に焼けていて、服装がヤクザのようだった。空には、少し欠けた月が雲の隙間から見え、美しかった。ビールを飲み、すみやかに寝る。

 ☆1991年6月26日(水)

 暑い。メチャ暑い。扇風機からの生温い風が熱い。アパートの下では、大家の子のチーちゃんがさっきから泣いていて、更に暑い。おっと、咳き込みつつ、泣きやんだぞ。面倒臭いので、学校には行かなかった。5時半から再放送の「ドラゴンボール」を見て、7時から「ドラゴンボールZ」を見た。面白いけど、「Z」の方は、絵がかなり雑だ。特に背景が。アニメーターの賃金の低さから、人が集まらないと言うニュースを見たけど、その影響なのかなあ。昨日から暑くて、読んでて充分に楽しめないのだが、雑誌を買いすぎた。「キネ旬」「SPA」「シティロード」「ミスターマガジン」「少年マガジン」・・・。

 ☆1991年6月27日(木)

 暑い日だった。後日分かった事だが、観測至上6月では最高だそうだ。38℃、温室効果! ジムでも、今までになく汗をかいた。授業中の大ホールの中は、一種異様な熱気で、汗がしたたった。机と、置いている腕の間に水滴が溜まった。山本梨香子というAVギャルのビデオを借りてくる。すっごく美人なのだが、すっごくいやらしいので、思わず超興奮する。なんで、こんなに美人なのに、こんなことをしているのだろうと、しみじみと考えてしまう夏のはじまりだった。今日のとんねるずはメチャ笑った。二人とも頑張ってるなあ、暑いのに。「巨人の星」のパロディー、「博士と助手」のコント。

 ☆1991年6月28日(金)

 今日も負けずに暑かった。夏のアルバイトはどうしようかと思っている。学校もないことだし、電話加入権のローンや沖縄旅行のために、金を稼がにゃあならん。まあ、いろいろ考えよう。昨日、菅君が、新橋駅のパナソニックの電光掲示温度計を見たら、35℃だったそうだ。今日は31℃、まあボチボチか。ジムでも汗をかき、帰宅。

   ◇

▼金がないない、と言いつつ、妙に楽しげに暮らしてやがる。

 まあ、保険とも年金とも税金とも無縁だからなあ、学生は・・・。

                             (2007/07/21)

   ◇   ◇   ◇

 こちらが山本梨香子ですな。

 今で言う、柴崎コウのようなキツネ顔の美人でした。

 でも、エロかった^^;

          

 ネットで検索すると、多くの人の思い出のAVギャルのようですね^^

                             (2009/04/14)

[映画『レッドクリフ PartII』を観た]

2009-04-10 15:22:28 | 物語の感想
☆ ♪チャン・チャン・チャン チャラリルン!

  ♪チャ・チャ・チャ

  ♪チャン・チャン・チャンラリルン!

 「レッド・クリフ」のテーマ曲を文字にして見ました^^;

 この後の雄大なメロディがいいですよね^^

 つい最近、『―未来への最終決戦―』と言うハイカラな副題のついた『レッドクリフ PartII』である。

 なんか、マンガ『封神演義』的なサブタイトルである^^

 「最終決戦」ならず、赤壁の戦いの後も、<三国志>の戦いは続くし、

 二部作に過ぎないのに、「シリーズ、ついに完結」と、あたかもロングシリーズででもあるかのようにキャッチコピーを付けたり、宣伝の仕方が、計算なのかボケているのか分からないのだが、とにかく楽しみにしていた^^

 早速、公開日を待って、朝一に観てきましたよ^^v

   ◇

 うん、面白かった^^

 ストーリーは単純で、私のような「三国志」に詳しくない者でも、ある程度の経過は既に知っている。

 それを、世界的なブロックバスター作までに引き上げるのは、当然ながら、圧倒的な物量と言うマクロ視点と、その「全体」を構成する個々のミクロ要素(人物やらアクション)の説得力ある描写だろう。

 アクションの描き方は、監督がジョン・ウーであるが故に折り紙付きである。

 「最終決戦」への、極限まで引きつける「溜め」としての、圧倒的な彼我戦力差に代表される不安定要素の描き方も、スタローン作品的にうまい。

 何よりも、個々の人間の感情表現の演技・演出が見事だった。

 シンプルな物語でありながら、主要登場人物の勇ましさや怯え、戸惑いという二律背反が必ず描写されている。

 これは、つまり、スタローン作品ならば、『ロッキー』『ランボー』『ロッキーザ・ファイナル』にはちゃんと描かれていて、『ロッキー2・3・4』『ランボー2』にはなかった、月並みな言葉だが「人間が描けている」という事なのである。

 例えば、主要人物ならば、諸葛亮孔明が、物理的にも比喩的にも「風向きが変わる」ことを予測し、その為の作戦を指揮するわけだが、

 この甘いマスクの金城武演じる諸葛亮は、天才軍師であるが故に、全編、余裕綽々の笑顔を表情に湛えている。

 しかし、その「予測」が正しかったことが判明したとき、はじめて、肩をグルグルっと回し、やっとリラックスをするのである。

 そこではじめて、見ている私たちも、この超然とした天才が、それなりの凄まじいプレッシャーに襲われていたことが分かるのだ。

 WBC二連覇に際してのイチローを思い出した。

 クールな彼が、今回のWBCにおいては、柄にもなく、そのプレッシャーを口にして、大会後、胃潰瘍が悪化したからなあ・・・。

 また、中村獅童演じる架空の武将だが、この人にあっては、終始、ステロタイプな旧日本陸軍軍人みたく描かれていた。

 しかし、戦の前に、冬至の餅をかっ食らう呉軍の隊列の中にあって、彼だけが餅を匙で口に運ぶのである。

 そんな、「旧日本陸軍軍人」の違う一面を見せられると、私などは、この作品が生半な計算で作られているのではないことが窺えて、驚嘆するのである。

    ◇

 私は、『PARTⅠ』(クリック!)の感想で、小喬(リン・チーリン)よりも、尚香(ヴィッキー・チャオ)が好みだ、みたいなことを書きました。

 そもそも私は、男勝りな女が好きなのだ。

 いやはや、しかし、この半年で、心境の変化があったのか知らないが、今回、小喬が美しく見えて美しく見えてしょうがなかった。

 好み云々よりも、その全編儚げな小喬の細い線のシルエット・憂いを秘めた伏目がちな視線に夢中になった。

     

 あまりにも美しく、だから、ちょっと憎らしくなるほどだ。

 曹操も、この女が、「風向き」の変わるまでの時間稼ぎで投降してきたときに、茶など飲まずに、一発やるべきだったと思うのだ^^;

 クライマックス・・・、敗北した曹操に一瞥する小喬の視線は、振られることの多い者たちには非常にムカつくのだが、「女の冷たさ」を見事に描いている。

 やっぱ、一発やるべきだったのだ!

 ・・・しかし、このエンディング・・・、連合軍首脳は曹操を見逃す訳だが、それはちょいとおかしいだろう。

 せめて、両者の間に、曹操を守る部隊がなだれ込んで来て、連合軍は曹操にとどめをさせなかったが、曹操は失意で逃げおおせる、と言うかたちが、ベストな決着だったと思う。

   ◇

 正直、私は、『PARTⅠ』(クリック!)と、今回の『PARTⅡ』の作りが、全く異なることに驚いた。

 最初に、本編とは別の、<三国志>世界観ガイドのTVゲーム的な作りのパートがあるのは『Ⅰ』も『Ⅱ』も同様だが、

 『Ⅰ』で、そんなTVゲーム的な作りに合わせたかのように、英雄たちを、物語のバランスを崩さない程度にカタログ的に活躍させていたが、

 『Ⅱ』においては、最終決戦の混沌の中に、皆が飲み込まれていた。

 長江の対岸の魏軍の、軍船・砦と何層にも張り巡らされている鉄壁の陣を、連合軍は打ち破っていく。

 しかし、そこには、経過を報告するようなカタログ的な作りはない。

 が、圧倒的な描写が、説明の必要ない、進軍の説得力となっている。

   ◇

 夜空に浮かぶ「灯篭気球群」の姿など、多くの、目を見張るような「静」の図もあるし、この映画は、ビッグ・バジェットによる物量ではない、圧倒的な描写によるパワーに溢れた作品と言えよう。

                         (2009/04/10)

[私の1991年のメモ日記・1]

2009-04-09 23:57:53 | 1991年の日記
☆私が昔書いていた日記を転載したものです。

 短い日記なのに、こうして並べて読むと妙に読み応えがある。

   ◇   ◇   ◇

 [私の1991年のメモ日記・1] (2007/07/20 20:53)

▼今日は忙しいので、十七年前の私の日記です^^

 てゆ~か、私、この頃と精神年齢が変わらない・・・^^;

     #     #     #     #     #

▼いやはや、これが面白いのだわ^^

 これから、たまに転載しますね^^

 中野に一人住まいし、八百屋で働き、大学に通う生活^^

 ☆1991年11月17日(日)

 昨夜はあまり飲んだ覚えがないにもかかわらず、体の調子が悪い。昼に起き、体操の中日カップをテレビで観る。来日してきた東独の女子選手たちは美しいので大好きだ。ハンガリーのヘンリエッタ・オノディーの、ショートカットと瞳の輝きが良い。ルーマニアのポンタシェは美人だが、性別の判別不能って程に硬質のイメージだ。ルーマニアは薬でも使って選手を育てているのかもしれん。マイルチャンピオンシップ・・・菅君おすすめのダイイチルビー、僕もそれを軸に5点買いした。ルビーは危なくも2位に入り、1000円儲けた。黒字は久し振り。かくして僕は、4時間ほど起きて、また、眠るのだった。

 ☆1991年11月18日(月)

 雑誌を買ったら、こんな記事があった。古館伊知郎のラジオ番組の再録だが、面白い話を続ける中、その合い間のCMや曲を流している間の彼の言葉も拾っている。彼の姉の死が語られる。活字ながらも、古館の語り口にジーンときてしまった。広瀬君と星名さんとゼミ発表の打ち合わせ。なにも決まらなかったが、帰りは星名さんとおしゃべりして帰る。なかなか楽しい。彼女はなんか勇ましい。新宿オデヲンで『チャイルドプレイ3』。何でこんな下らない映画を観てしまうのだろう、と思いつつも、結構面白い。途中、女子トイレから、「キャーッ! 痴漢!」の声。その後、ガードマンが可愛い女の子を連れて、上映中の館内へ。覗き(?)の犯人を見つけようとしているのだ。ホラー映画の内容より、疑われているみたいで、そっちの方に恐怖した。

 ☆1991年11月19日(火)

 ここ一週間ほど、朝起きるのが異様に辛い。大沼のように病気(A型肝炎)になってしまうような気がする。100%アップル、トマトジュースを飲んでヘルシーに生きよう。レンタル屋で、古くさい『宇宙への冒険』という白黒の米映画を借りてきて観る。『禁断の惑星』のロボット・ロビーが出てくる。大きなコンピューターに操られて米の将校が反乱を起こすのだが、その将校が8人いて、一人が死んでしまうのだ。ソビエトのクーデターを思い出してしまった。ロビーが妙にリアルで不気味、あんなのが道を歩いていたら、僕は恐くて逃げる。・・・この作品の観客の対象が、大人なのか子供なのか分からない変な作品であった。U2のニューアルバム『アクトン・ベイビー』、聞き込んでいる。押し寿司とタコ足ぶつ切りを食う。海産物はうまい。

 ☆1991年11月25日(月)

 バイト仕事を終え、学校へ。沖縄文学研究所へ。しばらく勉強していると、星名さんが来た。彼女とゼミ発表についてのおしゃべり。僕の発表は、「沖縄のオモロの時代から、その政治、世界観(神概念)、農耕、祭りを考えていく中で、古来の日本神道の影響を見てゆき、大嘗祭の秘儀へと話を運んでいく」という壮大な展開だ。書けば書くほど、書き足りなくて、どんどん字数が増えていく。あまりの多さに星名さんも広瀬君も辟易している。しかし、頭の中で結論の構想が出来てきた。

 ☆1991年11月26日(火)

 ・・・仕事を休んでしまった。どうにか、少ない字数(枚数)の中に、多くの内容を込めなくてはならない。星名さんや広瀬君がうるさいのだ。しかし、バイトばっかで、こんなにもの他の学生との触れ合いは久しくなかった。学食で広瀬君と食事。大味で不味いハンバーグ定食ながらも友人と食すものはうまい。ここ数日間、頭をフル回転させているような気がする。図書館で前に座っていた人妻(学生なのだが結婚指輪)・・・、僕の前で、わざとに不自然にプリントを上下させる。プリントの裏面には、名前とテル番号が書いてある。僕に誘いをかけているのか?

▼人妻・・・、この頃の私は、誘惑に身を委ねる術さえ知らなかった^^;

 今、思えば、私は多くの据え膳に手をつけずにやり過ごしてしまっていた^^;

 また、古館伊知朗に感動させられていた時期もあったのだな^^;

 この二年程前かなあ、DT喪失したのは・・・^^;

                       (多分、PART50くらいまで続く)

   ◇

 てな訳で、この「1991年の日記」シリーズ、続きます^^v

                       (2009/04/09)

[映画『トワイライト~初恋~』を観た]

2009-04-06 20:58:30 | 物語の感想
☆(お詫び)・・・実は、このエントリーは、昨日、完成していたのですが、間違って消してしまい、そのことに気づかず、未完成のエントリーを多くのブログにTBしてしまいました。

 で、その未完成エントリーは、昨夜の時点は、とりあえず凍結しました。

 TBで飛んできてくれた方、読めなくてすいませんでした。

 今、仕事を終えて帰宅、昨日のエントリーを思い出して、完成させましたので、改めてお読みくだされ^^;

   ◇   ◇   ◇

 全米のティーンエイジャーの娘っ子が熱狂の作品だそうだ。

 だから、私も、アメリカン・チアガールの気分になって見てみよう。

 ・・・昔(20年ほど前)、『週刊プレイボーイ』で、とあるライターが、故・三浦和義に教わったマスターベーションとして、こんな方法を記していた。

 自分が「ズリネタ」の女になったと想像し、行うのだそうだ。

 なかなか、興奮すると思う・・・^^;

 で、私も、アメリカのティーンエイジャーのギャルの気持ちになって、この作品を見ようと思うのだ、なんのこっちゃ^^;

 だが、この作品のヒーローであるエドワード(ロバート・パティンソン)だが、私にはどうしても「フランケン」顔に見えるんだよなあ^^;

 目の上のおでこ部分が、バランスを崩し、ややせり出し過ぎているのだ。

 それさえなけりゃ、「美少年」なのだろうが・・・。

 しかも、ヴァンパイア族ゆえに、ヒロインを、「食欲」を充たす対象として見てしまうので、やや不気味な挙動であること甚だしい。

 てな訳で、私のアメリカン・ギャル感情同調作戦は失敗!^^;

 同調作戦に失敗したが故に、私が、女子熱狂のイケメンに物申すことなど言わない言わない~^^;

 ただ、一緒に行った娘っ子は、キャーキャー言って見ていたけど、その娘の一番の好みは、人間に友好的なヴァンパイア一族を束ねるリーダー、カーライル・カレンなのだそうだ。

 私は、カーライルは、デイブ・スペクターに見えてしょうがなかった^^;

 私の好みは、予知能力を持つ短髪ヴァンパイア娘、アリス(アシュレイ・グリーン)である。

 この子が、クライマックスの戦いで、主人公の傷ついた身体の血を見て、本来の吸血一族の「食欲」に目覚め、理性をなくしそうになる様が、なかなかそそる展開だったと思う^^

   ◇

 観終えて、私は、この作品が全米の女子に支持された理由がよく分かった・・・。

 女の子は、自分の住む平凡な世界とは別の、高次な集団に属すことを夢見るものだ。

 あるいは、そんな違うレベルの集団を憧れで見つめたいと願っている。

 後者においては、平凡な身分でありながら、そんな「有閑倶楽部」みたいな集団に引き上げられることさえも妄想している・・・。

 この物語は、そんな夢見る乙女対象に作り上げられている。

 うん、あからさまなコンプレックス商法だ。

 だが、それは悪いことではない。

 世の中の芸術や美術、文学や音楽、ほとんど全てが、大なり小なり、人のコンプレックスを刺激して成り立っている。

 だから、可愛いけれど内向的で、抜群の美人とは言えないべラ(クリステン・スチュワート)が、何故か、美しいヴァンパイアの青年に見初められるという設定は必然であったのだろう。

   ◇

 昔懐かしい『ツイン・ピークス』のような、針葉樹の森が豊かな、北の小さな町が舞台である。

 ここに、離婚した父親を訪ねた主人公べラが、通い始めた学校で、正体を隠しているヴァンパイア一族の青年と知り合い、恋に落ちる・・・。

 よくあるありきたりな話ではあるが、セピアの色調で彩られた物語は、ありきたりの展開をありきたりとないがしろにすることなく、やや、ゆっくりとではあるが丹念に語られて、勢いに任せた作品ではない安定感がある。

 何よりも、この作品の肝、やや内向的なベラの「初恋」へ至る経過は、よく描けていた。

 ただ、この子、全編を苦悩顔で過ごすんだよな^^;

 離婚に伴う環境変化で悩み、エドワードと知り合っての疑惑、そして、恋することへの不安・・・。

 ほとんど笑顔を見せることはない。

 ああ、何で、恋は私を不幸にするの?

 不幸こそが、女の求めてやまないものなの?

 そんな感じ^^;

 私は、このべラのような娘の、恋に至る不安感と、恋に安心してからの猪突猛進振りというものを、これまでの人生の中で何度か見て来たような気がする・・・。

 キスシーンのためらいの仕草なんて、とてもリアルだと思った。

   ◇

 人間の血を吸うことをやめたエドワードをはじめとするカレン家の人々は、狙われたベラを守るために流浪の吸血ヴァンパイア・ジェームズと戦い、勝つ。

 その、あまり大風呂敷を広げない戦いに好感。

 各ヴァンパイアが、それぞれ異種の超能力を持っていそうなのも、超能力バトルの好きな私にはたまらない。

   ヴァンパイア最高速のテレパス・エドワード。

   予知能力者のアリス。

   五感が研ぎ澄まされているジェームズ。

 一件落着し、『ハイスクール・ミュージカル』でもお目見えした若者の通過儀礼<プロム>の場にてチークを踊るエドワードとベラ・・・。

 それを冷ややかに見つめるジェームズの情婦・ヴィクトリア・・・、PART2につなぐ最高の引きである。

 この見事な「引き」を、「ベッドで安静にしているピッコロ大魔王」の図をPART2への「引き」にした、『DRAGONBALL EVOLUTION』のスタッフに見せたいものだ^^;

 また、『トワイライト』には、ヴァンパイア族と、人狼族の確執という、隠されたバトルの火種がある。

 インディアン居留地に住む人狼族・ジェイコブは、ベラと親しい。

 ベラを挟んだ、三角関係バトルは、今後、避けられないだろう・・・。

                          (2009/04/05)

[映画『ザ・バンク/堕ちた巨像』を観た]

2009-04-05 13:30:30 | 物語の感想
☆ちょいと忙しいので、短めに…。

 『パヒューム』のトム・ティクヴァ監督の新作^^

 幾つかの欠点はあれど、ウィリアム・フリードキンの狂気の演出にも似た、パワフルな勢いで最後まで見せてくれる良作であった。

 欠点と言うのは、現代劇でありながらも、あまりにもアナログ過ぎやしないかと言うことであった。

 例えば、主人公の「インターポール(この響きも前時代的)」捜査官サリンジャーは、国際銀行の犯罪捜査を続けるのだが、当然に捜査マニュアルの基本になっていなくてはならない各種防犯カメラの存在を、捜査の途中で気づいたりする。

 また、これは、アナログ云々とは関係ないのかも知れないが、インターポールに捜査権のないことを、共同捜査官に今更ながら諭されたりする。

 これは、字幕のニュアンスがおかしいのかも知れないが。

 また、イタリアの次期大統領と目される男が演説会場で暗殺されるのだが、その暗殺が、ちょいと凝った方法で、二組のヒットマンが用意される、

 でも、「イタリアの次期大統領と目される男」の演説で、そんな二箇所からの銃撃を許すセキュリティはあり得るのかよ?

 そういった間の抜け具合を、ひたすら丹念な描写で、あまり致命的な作劇欠陥とは見せずに、極上のエンターテイメントとして魅せてくれるのはキャスリン・ビグローの演出にも似てる。

   ◇

 ベルリン、リヨン、ルクセンブルグ、ミラノ、ニューヨーク、トルコと舞台は移動するが、「007」のように、その移動の理由が不明瞭でないのは良かった。

 世界各地を豪勢に撮り上げ、物語を格調高くしているが、

 その最たるものは、ニューヨークの美術館での大銃撃戦だろう。

 重厚な施設が、瓦礫に変貌していく様が、非常に刺激的だった。

 ここでサリンジャーは、ひょんなことから、追っていたヒットマンと組んで敵の集団と戦うことになる。

 その展開に、私は燃えた。

 敵にすると厄介な奴も、味方となると、こんなに心強い存在はない。

 ヒットマンは、自分を守るために、結果的に、サリンジャーを危機から救う。

 私は何故か、『深夜プラス1』を思い出しました^^

   ◇

 また、この作品の特筆は、ステロタイプに描かれがちな、大企業の暗部を担当する男の人間性をちゃんと描いている点だろう。

 大きな流れに流されるままの男が、主人公と話し合い、改心する様が斬新で良かった。

   ◇

 最後に、サリンジャーは、悪を裁くために、悪に堕ちるのかと思ったが、その役目は他の者に譲られた。

 私は、「最後の男」が、モサドの一員のほうが、物語に説得力が生まれたと思うのだが・・・。

   ◇

 ナオミ・ワッツ演じる検事は、途中、捜査からの退場をサリンジャーに促される。

 危険な戦いに参加を希望する女性検事を諦めさせるのも、リアリティがあった。

 ナオミ・ワッツだが、その名前も込みで、日本人受けする女優に思える。

   ◇

 映画館を出て、駐車場に向かう間、私は、主演のクライブ・オーウェンに影響されて、早足で、前方をやぶ睨みしながらの足取りとなりました^^;

                         (2009/04/05)

[『シャーマンキング』が完結した]

2009-04-04 23:59:21 | 物語の感想
☆少年ジャンプで未完に終わっていた『シャーマンキング』が、本日発売の、その「完全版」と謳われたコミックス豪華版第27巻にて、380ページの描き下ろしを加わえて完結した。

 そもそもがコミックス32巻に及ぶ作品なので、380ページを加えても、その世界を閉じることは難しいと思っていたが、うまくエンディングを迎えていた。

 私は、この作品の著者・武井宏之は、少年マンガ家としては、最高ランクに位置する描き手だと思っている。

 特に、幼女・少女・美女と可愛い女の子を描かせたらピカイチだ^^

 私は、ジャンプコミックスも全32巻、全巻初版で持っている。

 ・・・しかし、この作者、ストーリー漫画を進めるにあたっては、連載時、若過ぎたような気がする。

 若い故に、色んな価値観に、短いタームで流されていた。

 <シャーマンキング>を目指し、正義と悪という二元論で進めていけば成り立っていた物語を、その決着後に「あいつにも、悪に染まった相応の理由があった」とするのではなく、その物語の中盤から既に、作者は、悪側への大きな感情移入をはじめてしまっていた。

 それを、「相対化」と言う。

 少なくとも、ジャンプ漫画においては、「相対化」は、カタルシスを喪失させてしまう。

 それは、当時の(と言うか、いまだに続き、これから先も続く)、アメリカとイスラム諸国の戦争という時代背景があったからだと思う。

 論壇で語られた、その双方や第三国、それぞれの正義や価値観が、『シャーマンキング』には、節操なく取り込まれ、物語は明らかに迷走していた。

   ◇

 また、そんなコテコテの硬派な考え方と同時に、

 作者は、物語に、ヨーロッパ映画の登場人物のような粋な味わい深い台詞回しと言うものを求めた。

 ヨーロッパの映画などには、人間の信頼関係から来る洒脱な会話があった。

 若い作者は、そんな登場人物の仲間の信頼関係を描きたかったようだ。

 ・・・しかし、それは全く機能していなかった。

 なんか、スルメ的な味わい深さというよりも、ひたすらに意味のない軽薄な会話が続いていた。

 そして、ジャンプ漫画に肝心の「バトル」も、マンガ的な説得力ある裏付けのない技の名前を連呼するだけのものになっていた。

 時代は『リングにかけろ』ではなく、『ワンピース』や『ナルト』の時代になっているのに・・・。

 当時の「2ちゃんねる」では、どなたかが「『シャーマンキング』のバトルは<場取る>でしかない」、つまり、ページ稼ぎにしかなってない、と言っていて、私は「うまいこと言うなぁ」と感心した^^;

 イラストとしては最高に上手い作家だったが、物語は表層的になっていた。

   ◇

 そして、五年が経ち、完全版にて、完結した。

 良い終わり方だったと思う。

 変なこだわりなく、ともかく、淡々と物語をこなし、かなりの登場人物を、最終決戦にて「カーテンコール」の如くに登場させてくれた。

 「相対化」、それならば、と、敵方の頂点<ハオ>の、主人公・葉と相対化させた物語の帰結を、それに見合ったスケールで描ききってくれたのは満足だった。

 ・・・私は、今回の書き下ろし分で、黒部民子に出会えたのがギガ嬉しス^^;

             

 武井宏之先生、お疲れ様ね^^

                             (2009/05/04)

[映画『イエスマン /“YES”は人生のパスワード』を観た]

2009-04-03 21:09:42 | 物語の感想
☆予告編を見て、「ああ、この映画は観に行かないな」と思っていた作品なのだが、ここにTBを飛ばしてくれる皆さんのレビューが頗る良好なので、しずしずと鑑賞に向かった次第だ。

 ・・・面白かった。

 この作品、特に、私のような40代の独身男には、ちょいと、これからの人生を元気に過ごしていける活力を与えてくれるかのような出来だった。

 独身女性における『アメリ』的な作品かも・・・。

 ・・・いや、私、この作品のいかにもな「自己変革セミナー」風の要素が嫌で、観に行くつもりがなかったのだが、さて観に行くと、まんまと、その「自己変革セミナー」風に乗せられた^^;

 そもそも、私は、誰もがそんな面があるのだろうけど、この主人公に似て、他人との関わりがわずらわしくなる時が頻繁にある。

 女の子とつきあっても、メールのやり取りが、ある一定のラブラブ期間を過ぎると、急速に億劫になる。

 電話などに出るのも面倒くさくなる。

 でも、この映画を観たら、そんな無精はとりあえず心の奥にしまって、友人の誘いには無条件で乗ってみっか! などと思わせられる魅力があった。

   ◇

 私にとってのジム・キャリーは、『マスク』から『トゥルーマン・ショー』への流れ辺りで止まっているので、この作品は、予告を見た限りでは、そのラインの、1アイディア(全てを「YES!」と肯定してみる)のハートウォーミング物だと思っていたのだ。

 しかし、非常に、コメディ要素が尖った(バンド<ミュンヒハウゼン症候群>!!!)、細部細部にお洒落心が宿った作品だった。

 その主人公カールを取り巻く仲間たちが、すべからく素晴らしかった。

 この作品、実体験をモチーフに書かれたストーリーらしいが、同じく、実体験らしい(まだ未確認^^;)『マーリー』と、根底の部分で近しいものを感じた。

 一方は全てを肯定、他方は問題犬を家族に迎え入れてみる。

 でも、その設定におんぶに抱っこではない、凝った人物設定や物語展開、ギャグ、編集・・・、その他の要素がうまく散りばめられていた。

   ◇

 ヒロインは「不思議ちゃん」のアリソン(ゾーイー・デシャネル)。

 この女優、シャマラン監督の『ハプニング』でも、妙な雰囲気を醸していたが、もしかして素なのだろうか?

 でも、この作品では「不思議ちゃん」設定なので、とても魅力的で、私も、こんな、身体も顔も性格もコンパクトな娘とつきあいたいなあと思った。

 彼女がバイクに乗る時のヘルメットの「キョロ目」なんて、この作品の遊び心をよく表わしていると思う。

 PS.今、彼女のフィルモグラフィーを調べたら、『テラビシアにかける橋』の女教師役をやっていた事も知った。

   ◇

 隣室に住む初老の女性の入れ歯外しエピソードには大爆笑させられたし(まさか、あそこまで^^;)、

 イケメンの親友が、「YES!」に拘りすぎて交通事故にあったカールに、「だから俺が言ったのに」と言い続ける所や、

 同じ病院の場面で、ヒゲの親友が「あの看護婦は俺に惚れている。さっきからチラ見してきて困るぜ」などと言うところなど、本当に細部に渡って、人物の個性と、その研ぎ澄まされたギャグが冴えている。

 ああ、会社の上司も良かったなあ。

 カールが悪ノリしたときの、ドン引きの表情が良かった^^

 ハリーポッターの仮想パーティーネタは、分かりやすいけど、鋭くて、面白かった。

 「YES」教の教祖は、先日観た『ワルキューレ』でコテコテ硬派のゲルマン軍人を演じたテレンス・スタンプが真顔で演じていて、それだけで笑った^^

 ・・・こんな楽しい奴らと、「YES!」と言い続けていたら出会えるような、そんな楽しい作品であった。

 PS.作中に、身勝手な理由で不機嫌に接客している韓国人女性が出てくるが、その個性造型が、いかにも韓国人気質なので、そのリサーチ力と、物語への反映のさせ方に感心した。

                           (2009/04/03)

[おほっ! 雑誌『正論』グラビアに松浦光修先生が!!]

2009-04-03 08:35:16 | 保守の一考
☆先月は、私、保守系雑誌『正論』『諸君!』と二冊を購入し、でも読み終えていない^^;

 だから、一昨日発売の今月号も買うつもりなく、本屋でパラパラと見ただけだ。

 でも、昨夜、何故だか買う気が起きて(共時性・1)、『正論(5月号)』を購入、忙しい仕事後のラーメン屋で読み始めた。

 いつもはけして、グラビアページなど見ないで、すぐに読み物を読むのだが、この時は、何故だか、最初から1ページづつ捲った(共時性・2)。

 見たことある人物が目に飛び込んできた。

 「私の写真館」という、保守系文化人の半生を写真とともに追ったグラビアのページだ。

 ・・・松浦光修皇學館大学教授だった。

「おおっ!」

 私は、チャーハンを食いながら微笑んだ^^

 松浦先生とは、<「新しい歴史教科書をつくる会」内紛>での、その、犯罪行為/不道徳行為の追及糾弾戦の渦中で知己を頂いた。

 今は、もう、敵方となった「新しい歴史教科書をつくる会」は、まともな原型をほとんど留めていないが、私は、あの頃の日々を思い出すと「楽しかった~^^」と言う思い出がいっぱいだ。

 自分が、自分の信じる「正しさ」のために戦い、そして、勝利を得るというのは嬉しいものだ^^

 ここで、私が、松浦先生とつながりがあると書くと、陰謀論を妄想する「つくる会」残党がいるので、私は、ここで「挨拶程度の関係だ」と断っておく。

   ◇

 その、くだんのグラビアは、松浦先生自身が、自分の半生についてコメントしている。

 詳細は、本屋で『正論』を手にとって見て欲しい。

 私は、簡単に箇条書きで感想を書いておく。

  ・赤ちゃんの頃からの松浦先生の容姿を見ることが出来るが、面影はあるが、それぞれ違うのが面白い。
   緊張して、おどけているかのように軍隊風敬礼する少年の写真や、
   お母さんに抱かれて安心感でまったりしている少年の写真^^
   丘でギターを抱えて微笑する青春の一コマ・・・。
   松浦先生が、ごく普通の若者の人生を送ってきたことが見て取れる。
   だからこそ、そこで育まれた「保守思想」が純粋であることが見て取れよう。

  ・軍人であったお父さんの軍服姿の写真の好青年(イケメン)振り!
   この方の、終戦直後の「将校室への殴り込み事件」は必読です。
   この方が、松浦先生に人生の体験談を聞かせ、松浦先生の思想の基礎となる要素の一つになったか。

  ・松浦先生が高校の教諭であったときの、女生徒との写真は素晴らしい。
   みんな、スレンダーな美少女だ。
   三つ編みも可愛い。
   この高校の制服は、セーラー服と看護婦さんの白衣風のハイブリッドで、とても清潔感がある。
   そういった時代なので、スカート丈が長く、ドレッシーだ。
   私は、イメージ的に、マンガ『武装錬金』の美少女・武藤まひろの制服姿を思い出した^^

          

   ◇

 では、松浦先生に関係ある過去の更新を転載します。

   ◇   ◇   ◇

   [松浦光修講演録『「うひ山ぶみ」- その学問論の現代的意義』を聞く] 2007/01/14 22:00

 ▼日曜の昼下がり、講演録CD(製作:スタジオ・フローラ)を聞く。

 松浦先生は、若い頃から、常に「日本人と生まれたからには!」の思いを抱き、その青春を生きてきた。

 その思いの道筋として、皇學館大學に入る。

 私などは、そんな若いうちから確固たる人生上の目的などは持っていなかった。

 最近でさえも、『ハリー・ポッター』シリーズを読んでいて、魔法学校高学年になったハリーが進路の相談を教師とするのだが、私は、それを読んでいて、ひどく不安に駆られた。

 なんか、「置いてきぼり」をくらったような気になってしまったのだ^^;

 私は、松浦先生が、そんなにも若き頃より社会意識に目覚めていたのが不思議ではある。私のような者には理解が難しいのである。

 どのような親御さんに育てられて、どのような本を読み、どのような師に出会ったのであろうか?

 松浦先生は、ここでは詳しく語らないが、学生時代にも、かなり豪快な「日本人としての」学生運動をしていたようだ(その、聞くだに華々しい活動を聞くと、後続の学生運動家の一部が、その先人たるべき松浦先生たちを貶めることによって、自分のオリジナリティを際立たせようとする気持ちが推察できる・・・)。

 そんな学生時代に読み、その後の松浦先生の指針になったのが本居宣長『うひ山ぶみ』だった。

 松浦先生は、二十歳の頃に、以下のような感想を、その岩波文庫の末尾に記したという。

 ≪・・・「ああ、ついに本朝の自覚生まれたり。吾を知る者のみ、他を知るべし。(中略)神道信じる上は、そが世界唯一と思わずば、低き相対的現象論にとどまる。たとえ、ロンドンに照れる日も、この吾の赴くところ、天照大神ならずして他の何ぞや。吾の在る世界、即ち、吾の想い信ずる世界ではないか」・・・昭和55年時・初読の感想≫

 やや、気負いが感じられもする若き日の松浦先生の感想である。

 けれど、それを偽ることなく語れるのが、松浦先生の素直さと自信であろう。

 ▼『うひ山ぶみ』は、本居宣長の晩期の作である。

 大著『古事記傳』を完成せしめ、かねてより門弟の者より教えを乞われていた「学問入門」的なものとして書かれたものが『うひ山ぶみ』である。

 そこには、現在の学問状況に照らし合わせても、何ら遜色なき教えが見られる。

 原文に触れるのが第一であろうが、ここでは、その松浦訳から、更に私が概念抽出をしてみたいと思う。

 興味があったら、是非、原文にあたってみて欲しい。

 私も、『うひ山ぶみ』を購入しようと考えている。

 つくづく、難解な面もある原文であるが、その難解な字の連なりを、何回も何回も無理矢理でもいいから読むと、それが経験となり、その難解さを理解しようとする苦難さえもが、人生の糧となり得るのである、・・・と言うことを後に本居宣長は教えてくれる。

「・・・日本では昔から、『学問』と言うと<漢学>のことを言った。対して、日本のことを学ぶことを『和学』『国学』と言った。これはおかしいことだ。何で、自国のことを学ぶのに、それが多種の学問の一つとして区別されなければならないのか? それこそ『学問』で良いではないか。<漢学>の方こそ、『漢学』と区別されるべきだ・・・」

 これ、細かいことを言っているようでいて、非常に重要なことでもある。

 当然のように使われている言葉が、その根本の部分で不適切であると、その不適切が、その言葉を使用している民族全体を呪縛するのである。

 宣長の頃、漢学が流入、浸透しきった時期にあった。

 現在の日本社会は、アメリカニズムでさえない、アメリカが作為的に日本に押し付けた「思想」に蹂躙されている。

 アメリカニズムでさえないと言うことは、マルキシズムの入り込む要素があり、アカき者どもが跳梁跋扈する社会でもある。

「・・・残念ながら、『学問』は<漢学>として世間に浸透してしまっている。自分が、<日本についての学問>の意で『学問』と言っても、聞いてる者には<漢学>と受け止められてしまう。せめて、<日本についての学問>を『皇朝学』とでも呼んでくれたらいいのだが。しかし、現状で、日本人が自国についての学問を<和学>とか<国学>と呼ぶのはおかしい。自分らが日本人ではないみたいではないか? 外人が<日本についての学問>をそう呼ぶのなら別段構わない。しかし、日本人がそう呼ぶのは道理にかなわない・・・」

 宣長の指摘する、かようなものの視点の帰結が、「自国を損ねる平和主義」「自国を損ねる人権至上主義」「自国を破壊する市民主義」への昇華である。

 アメリカは、それはそれは愛国心豊かな国民である。

 しかし、戦後、GHQの政策は、日本人からそれを排する方向に向かった。

 そして、同時に、愛国心なき平和主義・人権主義を持ち込んできた。

 そして、多くの日本人は、自分の足場を喪失した。

 筑紫哲也や司馬遼太郎は、よく「この国」「この国」と日本を評す。

 これが、「我が国」「我が国」でない所が、これらの【戦後民主主義者】の異常である。

 ▼「・・・全てのものごとについて言えるのだが、他人のこととして考えるのと、自分のこととして考えるのでは、おのずから大きな違いが生じる。他人のことを深く考えていると思っても、どうしても、自分のことのようには考えが及ばない。和歌についての思索についても同じである。上代の和歌をいくら考えてみても、ある程度までしか考えが及ばない。しかし、いざ、自分が上代形式で和歌を詠んでみると、頭だけではなく、心も使うので、その深い意味がよりよく理解できるのである。我が師(宣長の師・賀茂真淵)も<自分で上代風の和歌を詠み、また上代風の文章を書いて見なさい>と語っています・・・」

 これ、私は、子供の頃から、いつも痛感させられる。

 いつも映画作品をけなしつつ、さて、文化祭で映画を撮ってみる。

 ・・・難しいのである。

 いつもマンガ作品をけなしつつ、いざ、効果的と思われる絵を描いてみる。

 ・・・こちらの表現したいことが伝わらないのである。

 宣長の言っていることと、かなり方向性が違うけれど、自分がやってみて、理解できることは、世の中には凄まじく多い。

 反対に、こうして、普通にサラリーマン生活をしつつ、日夜エントリーし続ける力技を理解してくれない方も多い^^;

 「スタニラフスキー・システム」と言う演技についての一様式がある。

 例えば、「猫背」の男の演技についてだが、多くの演者が、その「猫背」を真似ようとする。

 しかし、「スタニラフスキー・システム」においては、その役柄との同調を深く示すので、「猫背を隠そうと、反り返る猫背の男」の演技に至るのである。

 私は、「スタニラフスキー・システム」について詳しくないのだが、おそらく、それは、実践の結果として生まれた演劇論なのかもしれない。

 ・・・私は、政治家をけなし、市民運動をはじめた左翼集団たちの末期が見えるのである。

 それに耐えられる胆力をもったものが「政治家」足り得るのである。

 ▼学問における心構え。

「・・・『学問』とは、ただ長い年月、飽きず、怠けず、努力を継続させることが重要であり、その<方法>にこだわる必要はない。そこに気を使うは愚であり、どんなに<方法>が良くても、本人の意思が弱ければ、何の成果もあがらないのである・・・」

 ・・・努力である。

 実は、私、なまじっか頭がいいので^^; 努力する人生を送ってきていない。

 だが、ここ数年、遅ればせながら「努力」の必要性を実感している。

 翻って、私に似た子供たちに、学校と言う「擬似社会」の中で、努力の必要性を認識させることの難しさを、誰よりも痛感していると思う。

 叩き込むしかないのである。

 自分が怠けていて、非常に申し訳ないが、私に似た子供には若い頃に苦労して欲しい。

 おじさんは、今、凄く苦労しているよ^^;

「・・・人には、生まれながらの才能の<在る/無し>がある。しかし、それは、悔しがっても栓なきもの。才能のない者でも、努力し続ければ、それなりの立派な成果があげられるものである・・・」

 ・・・クールな意見である。

 町内一の可愛い子は、ミス日本になるために、磨きをかけなくてはならないし、その先の世界大会もあろう。

 時は流れる。

 才能の維持もあろう。

 才能の持つレベルの、どの立場でも努力は必要である。

 才能のある人ほど、更なる努力をし続けている。

 私は、それ程には才能ないが、最近、努力している。

「・・・晩学の人でも、努力すれば、思わぬ功に恵まれよう。忙しい方でも、才能の少ない方でも、それを言い訳にしたりせず、ひたすらに精進し続ければ成果はあがる。途中で投げ出すことこそが、学問では、もっとも悪しきことである・・・」

 ・・・私は、なるべく、「もう遅い」と言う思いを、心から追い出そうとしている。

 「もう遅い」と思ったとき、私の「若さ」は消滅すると思っている。

 ▼「・・・全ての学問に言えるが、はじめから、その志は高く持ち、<その奥義を究めるぞ!>と、心に固く誓わなくてはならない。さもなくば、それは頓挫してしまうだろう・・・」

 ・・・昨年末の紅白歌合戦で、話題をさらったDJ OZMAの後に、しっかりと楽曲を歌い上げた歌手にアンジェラ・アキがいる。

 彼女は、椎名林檎のライブを武道館で観て、こう誓ったという。

「私も、三年後に、武道館でワンマンコンサートをやる!」

 そして、ピッタシ三年後の日時に、アンジェラ・アキは武道館コンサートを実現するのだった。

 ▼「學は人たる所以を學ぶなり(吉田松陰)」・・・。

 吉田松陰は、本居宣長から多くの影響を受けていた。

 小林秀雄も「学問は、道である」と言っている。

 学び続けることは、人としての生き方の本道なのだろう。

 ▼「・・・人として生きて、<人の道を知らない>というのでは済まない。もとから<学問をしよう>と言う志がないのならば、それは良かろうが、ひとたび、学問を志したならば、<その道>を明らかにするために力を注ぐべきである。それを放っておき、些事に拘泥してばかりいては、本来の目標には至れない・・・」

 ・・・宣長の教えはなかなか厳しい。

 しかし、その原初において、至高の目標を掲げられない者は、後の努力も、当初の目標の枠内から減じるばかりとなるのだろう。

 ▽松浦先生が引用した原文の多くは、『うひ山ふみ・鈴屋答問録(村岡典嗣著・岩波書店)』による。

 松浦光修先生と、その盟友・新田均先生のブログ『光の集い』、皆さん、お読み下さい!

     http://hikarinotsudoi.cool.ne.jp/(クリック!)
                                    (2007/01/14)

[衝撃! 小沢一郎は中国共産党から送り込まれた先兵/尖兵]

2009-04-03 07:14:21 | 保守の一考
☆頼りにして、いつも閲覧させて貰っている荒間総帥サイト(クリック!)で、以下のような衝撃的な事実の書き込みを読んだので転載させていただく。

   ◇

《  題:『民主党の売国レイテストニュース』

            氏名:ナポレオン・ソロ 日:2009/04/02(Thu)15:08 No.7499

 余りに吃驚したので、ご紹介します。

 <「新世紀のビッグブラザーへ」から拾ってきました>

   『「理解広がっている」と小沢氏、中国常務委員との会談で

 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20090331-OYT1T00158.htm

 民主党の小沢代表は30日、党本部で中国共産党の李長春・政治局常務委員と会談した。
 出席者によると、小沢氏は、政治資金規正法違反事件で公設秘書が起訴されたことについて「不当な捜査だ」と検察を批判し、「私の主張はだんだん理解されてきている」と自信を見せたという。
 会談には、鳩山幹事長や山岡賢次国会対策委員長、中国共産党の王家瑞・対外連絡部長らが同席した。出席者によると、王氏が「いま、政治とカネが問題になっているが、民主党は本当に政権交代を実現できるのか」と質問。小沢氏が気色ばみ、李氏が「古い友人だから、そういうことも聞いただけだ」と取りなす場面もあったという。』

                          <記事引用終了>

 三橋さんもコメントしているが、何処の国に、余所の国、しかも核ミサイルを40基以上も向けている国の高官から「政権を取れるんだろうな」と訊かれる国会議員が居るモノか、しかも、ついこの前迄、次期総理大臣確実だった男がである、名前を伏せて読んで居れば、スパイとその雇い主の話にしか聞こえない。

 「古い友人」とは、正に語るに墜ちる話でしょう、小沢は、スパイなんですね、しかも、昔から、相手は共産シナの政治局常務委員ですからね、しかも、読売新聞に茲まで情報を流すなんて、一体ドゥ云う神経なのか。

 是を読んでも、「民主党に一辺政権を取らせてみようか」ナンテ云えるのなら、自分の家にミサイルを撃ち込まれない限り気が着かないレベルと言う他はない、詰まり、家族を皆殺しにされ、全財産を焼き尽くされて初めて判るのだろう。

 平和呆けと言うより、天然の三猿病ですね=看サル、訊かサル、云わサル、マスコミを過信すると顕れる症候群です。   》

   ◇

 ・・・私、この内容に、とても衝撃を受けました。

 「小沢氏が気色ばみ」のところなど、血気盛んな子分って雰囲気です。

 妙に臨場感ある記事ですね・・・。

                                  (2009/04/03)