日々雑感 ~写真と思い~

今日と言う日は、二度と来ない。 
だから今日を大切に・・そんな私のデジカメ散歩 

* 手 紙 アンジェラ・アキ (西宮市立甲陵中学校) *

2010年01月17日 | 歌・音楽・映画・観劇


CMでこの曲が流れ、被災から復興へ、さまざまな年齢の人たちの生きる笑顔のスライドショーを見ると、
みんながんばっている! あのとき生まれた子は今年15歳。 まさに”十五の君へ”感激でいっぱいになる。




ふと目が覚めてまどろむ私の耳に、つけっ放しにしていたNHK”ラジオ深夜便”の放送の声が耳に入った。
「今かなり大きな地震がありました! 神戸の方・・」(え!!地震!? まさか!!)
私は瞬間緊張し身を起こした。 時間は5時ほんの少し前だったろうか。
(こんな日にまた~?!)
その中継を半信半疑で聞きながら、それがラジオ深夜便の中で今日のアナウンサーが震災があったときに直面し、
放送していて発進した言葉、それを流していたことに気付いたのは3分くらいたってからだった。
寝起きで耳に入った時に聞こえたものだから、てっきり本当に地震のニュースかと思ったのだ。

阪神淡路大震災から15年と言う月日が経った。 今日はその朝だったのだ。
須磨にお住まいで当時震災を体験された瀬戸カトリーヌさんをゲストに放送が始まった。
HPに置かれた掲示板やFAXで、震災を体験した人たちから送られたメッセージが次々と読み上げられていく。
カトリーヌさんもパン屋さんをしておられるご両親とともに、家で被害に遭われた生々しい話をされる。
PCでお友達のブログを訪問しながら、15年の経過神戸の街は復興したかのように見えているけれど、
人々の心の中にはあの時から、失った大切な人やものへの悲しみがまだまだ癒えていない事や、
涙が尽きぬ日々を送っている人も多いことを改めて聞きながら、胸がいっぱいになり涙が溢れた。
5時46分の時刻には、黙祷を捧げながら当時の記憶が甦ってくる。

体感した大きな揺れ、TVに映し出された高速道路が大きく倒壊、以来あちこちで火の手があがり、
煙があがる街、大きなビルであろうが病院であろうが、その被害は想像を絶するもので大きな衝撃で眺めていた。
灘区に住む一人暮らしの婦人に真っ先に電話をしたがすでに通じなく、テロップに流れる亡くなられた方の、
名前の中に見当たらなかったらほっとしながらも、被災の様子をただただ唖然と眺めていた。
何日か後、夫は淡路島の船長の実家も被災され陸路は寸断、船で見舞い救援に向った。
神戸の婦人のところへも灯油や食料を運んだが、何度かの後私も船に乗って行った。
船から眺める風景は今までとはあまりにも違いすぎて、目の前にしながらも大震災と言う現実を受けとめられない。
婦人のアパートも周りの建物の全てがまるでドミノ倒しのように、倒れていてあの時の光景は未だ鮮明に残っている。

神戸の婦人は2階建てのアパートの2階で、階下なら押しつぶされただろうがかろうじて助かった。
近所に住まいする親友が見に来てくれて、倒壊を免れたお宅へ身を寄せていた。
その後はひよどり台の仮設住宅に住んだ。 TVで見る集合住宅と違って一戸建でどこよりも快適に見えた。
夫と料理を持参で訪ねるその場所、被災した人同士助け合いながら暮らす住宅は、いつも賑やかに活気付いていた。
婦人も友達もいっぱい出来て快適に見えるような暮らしをしていた。 15年前と言えば69歳だった。
何事でも積極的で、生きる意欲や力はすごいと思ったが、期限に向けて一人減り2人減りアパートにうつり
またもとの一人暮らしに戻った。 そうして6年前から今の復興住宅に住んでいる。
その時には震災の傷跡も感じさせないほどの、高層住宅も建って新しい街は見事に出来上がった。
しかし人が住んでいるのかと思うほどに、ひっそりとして仮設住宅いいたあの賑わいもなくて、
一人住まいの人々から笑顔が消えて行った様に思う。 
年月と共に、身体もあちこちが弱くなりあの頃の意欲も失せて行っている。 足がてっきり弱くなってからは、
いっそう外出を拒むようになり、気弱になっていっている。2年前には親友の方が突然死されいっそう淋しくなり。




定年まで夫がいる会社で事務をしておられた関係で、結婚をされていなかったので何かしら子供のように、
夫はおかんおかんと慕い、もう25年と言う年月のおつきあいを続けているのだが。
今はやがて来る介護の問題を抱え、不安にもなっている。 たった一人の義妹さんも高齢で何があっても
電話しないでとか言われ、一人住まいの不安がよけいに気弱にしているのだろう。
私達自身どれほど関われるか・・時々訪ねることは出来ても寝込むようなことになったとき、どうしようか。

「何かあったら隠さず電話して下さいね、すぐに来ますから」と、帰るたびに手を握り言ってはいるが
「大丈夫、心配しないでまかせてよ」とは、はっきり言って言い難い。 自信がないから。
そのことが私たち夫婦のひとつの問題である。
お互いに実家の母親達は兄夫婦が手厚く面倒を見て下さっていてとても有難いと感謝している。 
せめて私達は、この夫人のお世話をさせてもらわないといけないのだろうなぁ、そう思いながらの現在である。

放送を聞きながら、そんなことに思いが及んだ。
表向きに神戸は街は復興している、その意欲たるやすごいと思う。
人々の支えあい励ましあい、人や地域の繋がりや絆・・得た多くのことがらは永遠であって欲しいと思う。
見えないところでは、亡くした身内にまだ悲しみから立ち直れないでいる人も多くて、震災の悲惨さを改めて思う。 
どうか亡くなられた方への無念や辛い思いを、生きる力に変えながら、でなければ天国で安心してもらえない
私も還暦を前に突然に亡くなった父を失った時、衝撃と悲しみで中々立ち上がれなかったけれどそう決心したから。
そう思うから、お元気に暮らして行って下さい、そんな日が来ますように・・。
そう思いながら、朝食の準備の為にラジオのスイッチを切った。               21日記