日々雑感 ~写真と思い~

今日と言う日は、二度と来ない。 
だから今日を大切に・・そんな私のデジカメ散歩 

* 老いる不安・・ *

2010年01月30日 | 雑感

神戸の婦人の住む復興市営住宅に降りた時、植え込みにはソシンロウバイや菜の花の黄色が目にとまった。
花の少ないこの時期、黄色ではあるがさほど華やかさを感じなかったのはなぜだろうか。
夫が車を止めに行ったので大きな荷物を降ろし、やわらとデジカメを取り出しパシャパシャと5枚。
「今出たので、1時40分くらいに着くと思います」 そう言ってあったのでその時間に外を見たら見えたと、
玄関に出て待ってくれていた。 「ありがとうねぇ」今日はもう最初から笑顔を見せている。
いつもはぼそぼそと話し始め、話しを聞いてあげるうちに段々と声が明るくなり笑顔になるんだけど。

27日は婦人の84歳の誕生日、婦人の写真入りバースデーカードを送って電話で今日の約束をしていた。
夫が休みなのでお誕生会。  朝から松風堂弁当らしきものを3人分作った。 
保存用にリクエストの炊き込みご飯、同じくリクエストの筑前煮や婦人の好物を楽しみながら作った。

「84歳ですね、おめでとうございます」 「おなかがすいたのでちょっとご飯一杯食べてんよ」
そう言いながら嬉しそうに食べてくれた。 
足がめっきり弱くなって杖なしでは歩かないが、食に関しては健全で食べる楽しみを持っていて
私も作りがいがあるし、安心だし有難いと思っている。
聞いて欲しいことも話す代わりに、こちらの事情もいつも案じながら聞いてくれるし前に話した家族のことも、
結構覚えてくれているので「もう、名前が出てこうへんし、頭がめっきり悪うなってな」と言うが、私だってそう。

おかずの量が多いいので私達もおなかがいっぱいになり、(カロリー高いぞ、今夜は控えめだ!)

食事が終わると、夫は車に積んであった自転車に乗ってさっさと近くの温泉施設へ行った。

2人で食事をしながら話していると、最近見たTVの話を始めた。
高齢化社会になり独り暮らしのお年寄りが増え、孤独死も増えたりしていると言う昨今、
亡くなった後の、住まいの後始末をする業者が増えていると言う。(なるほど)
一人暮らしの人は、その後始末の予約しておいたり、連絡先や身内の電話番号など貼り付けておくとか。
婦人の一人住まいの親友が亡くなったとき、老いた兄弟が家の物全部引き取りを業者に頼んだら、
70万もかかったらしいと言う話を前に聞いたことがあった。

「今、そんな引取り業者が競争みたいになってんねんて」分かるような気がする。
以前働いていた仲間の一人は、ご主人が市のそんな仕事をしていて、腕時計など持って帰るんだと言う。
(そんなこと人に話していいの?と不思議に思ったけど)
「うちもなぁ、そんなことが気になるねん」いい加減には返答は出来ないものの一緒に悩むのもなんだか。
「けんつくさんが後はどなにでもしてくれますよ、心配しなくても。 あの人にはすぐに駆けつけてくれる
そんな友達何人もいてると思っているんですよ、だから大丈夫」そう答えるしかなかった。

実際そう思っている。 夫には結構相手の痛いところずばり言ったりするところがあったりして、
家族はそばで冷や冷やすることもあるが、でもそれは悪気でなく相手を思うからこそ本心を言うので、
だから友達が何人もいるんだろうなぁと思う、こんな都会に来て羨ましいと思っている。

おもむろに話を続けた。 「生命保険はかけてへんねん、死んだって誰もいてへんし」(え・・何を話すのだろう)
「あんたに言うとく、親戚って言っても年やし皆、あんたらが一番私のこと思ってくれてるしね」
部屋へ呼んで、何かあったり入院とかしたらこの通帳から出してと、印鑑の場所やキャッシュカード、
暗証番号、死んだら厚生年金の証書はここにあるからとかそんなことまで話し出したのである。
私は段々声が小さくなり「はい、はい」と聞きながら、涙が出てきた。 「こんなことまで言われるの嫌です・・」
「いやうちも後が心配やねん。 死んだらこの中から小さくでいいからお葬式の費用出してな」
「分かりましたけど・・」頭の中が・・わ~んとなった。 「けんつくさんがなんとかしてくれますから、心配しないで」
それだけ話すとほっとしたように、腰をかけて煙草を吸いはじめた。

「お父さんがなつめを連れて、初めて買ったんですよこのケーキ、ちゃんと名前も入れてくれてたわ」
頼んだのは私だけど、夫が・・と言うといっそう喜ばれるのが分かるのでそう言った。
ろうそくに火をつけて、2人でハッピーバースデー。 ろうそくの火嬉しそうにふぅっと消した。
私は複雑な気持ち、それに反して気のせいか婦人の話す声が明るくなって、軽くなったような気がした。
今までもこの食器棚はいいものやからあんたもらってね、暗証番号も聞いたけどすっかり忘れている。
不安だったのであろう、自分が老いていくほどに。 私に話してほっとしたのだろうか。 

婦人は夫が会社に入ったときいた事務の人。 好きな人が戦死して結婚せずにずっと一人で来られた。
お母さん、兄弟を見送り今義妹さんが月に一度くらい来られるらしいがその人だって一人、
何があっても行けないと言われたそうで(入院したりしても介護も出来ないと言う)親戚も老いて皆。

家庭を持たなかった婦人なので、夫は夫人をずっと「おかん。おかん」と呼んで定年退職後もつきあってきた。
婦人の周りの人は、親戚だと思っていたようだ。
私もやさしいそんな夫の流れで、結婚する前から休日には訪ねたりして親しくさせてもらっていた。
子供が出来ては連れて行ったり、婦人が家庭を持たない分子供になったようにおつきあいをしてきた。
もう40年にもなる。 電話で色んなことをアドバイスしてもらったりもした。 我が家のことを大事に思ってくれ、
家族の関係を私たち夫婦の手柄のように、いつも喜んで讃えてくれていた。

老いが増し、近い将来介護が必要になるであろうそのとき私たちでいいのだろうか。
さしでがましくはないだろうか、自分達の生活と・・どこまで出来るだろうか・・そんな不安もあった。
最近夫とそんなことを話す時がある。 
私の中では、田舎のお互いの老いていく母たちは兄夫婦が365日大切に面倒をみてくれている。
そのご苦労を思う時、核家族でいる自分がまるで気楽なようで申し訳なく思う時もあって、
もしかしたらこの婦人のお世話をさせてもらうことが、申し訳になるのだろうかとそのように思うようになった。 

夫が温泉から帰り、見送られて別れた。 外まで見送りに出てくれた、小さくなるまで立っていた。
黄色のソシンロウバイや菜の花に華やかさを感じなかったのは、周囲にははどんどん大型店が出来賑やかなのに、
復興住宅には、一人暮らしの人が多くて、人気が感じられないそんな精だったからかも知れない。

車の中で夫に話すと、少々驚いて何とも言えない顔になっていた。 私以上に大切に思う人だから。
「おかんもそんなこと話したら、僕らの重荷になったらあかんと思うて、言う時を待っとったんかなぁ」
「私らに後を託したって言うことは、お世話をさせてもらわないとあかんと言うことやね」
さしでがましいかとか、そう思っていたが、頼まれた方がさせてもらうのに気が楽かもしれない。
正直、今の生活の中で私が神戸へ通い、介護をするようになったらどうなるだろうと思う時があった。

春、次女夫婦は自立してここから出て行く。 かんたの子守はするがいずれ2人を保育所に入れると思う。
夫と2人暮しになったら、婦人のお世話にも動きやすくなる訳だ。
「子供らの自立はさぁ、このことに繋がっているんかも知れんね。 お世話しやすくなるし良かったんやない」
夫は黙っていたが、複雑な心境か? かんたの動きに目を細めている夫だから、最近は特に。

私が生きていく中で、色々と出来湧くことがらは、今は大変なようでもこのことは後できっといいことに、
そう繋がって行くのではないだろうかと、冷静になるとそう考えてきたことが多くある。
思えばそれは母がいつもどんな時も、何かがあったとき「そんなくらいで良かったね、もっと大変な人もいる」
そんな例をあげながら、「がんばれよ、またいいことがあるよ」と励ましてくれた、それはいつもそして今でも。
そんな母の、プラス思考の生き方はすごいと思う、そして昔から口癖のように子供に伝えることもすごい。
「たとえ心配ごとがあっても、隠さず言ってよ」いつも言ってくれていた。 「心配させまいと思うよりも、
親子なんじゃから、一緒に悩んで心配してあげるのも親の務めよ、話してくれた方が親は嬉しいものよ」
そう言ってくれた。 だから私も甘えて話してきたかも知れない。 「がんばれよ」の母の声が聞きたくて。

今年は87歳を迎える。 老いてもなお励まされる、偉大なる母には・・思い出すと込み上げてくる。
本当なら子供が親にがんばってねとそう言う年なのに。
姉や妹たちと長電話をした後はいつも母を讃え、語尾は母のまねで終わる「がんばろうで~」
さぁもう2月だ、がんばろうで~と私も終わろう。

帰り尼崎のCOCOE初めて行ったが、吉永小百合、笑福亭鶴瓶出演の映画「おとうと」を観て帰った。 
小百合の弟、鶴瓶が一人暮らしなどの人の支援の施設で死んでいくシーン・・なんだかなぁ。  65点。

あ~、また長くなった、日々雑感~写真と思い~でなくて、~写真よりも思い~にしよっかな。 1日AM6:22記