日々雑感 ~写真と思い~

今日と言う日は、二度と来ない。 
だから今日を大切に・・そんな私のデジカメ散歩 

* 万年青(おもと) *

2008年01月18日 | 雑感

阪神淡路大震災より13年、万年青に赤い実がついた。
時々私たち夫婦が尋ねる神戸の一人暮らしの婦人の、無二の親友の方からいただいたものである。
震災の年、崩れかけた灘区の岸壁に船を止め、家が全壊し婦人が身を寄せていた親友の家へ
灯油や食料品を買いこんで見舞った時に、お礼にと下さったのだ。 この方も一人暮らしだった。
この方のことは良く聞かされ、喧嘩するほど仲が良いと言われるようにお互い言いたいこと言いながら、
学生時代からずっと親交を深めていた。 
長女が二人にお揃いのマフラーをプレゼントしたのを、年賀状に”あの時は本当に嬉しかった
温かいマフラーで今年も冬を過ごしています”と書道教室をされていて達筆な文字で毎年送って下さった。
私も年賀状には”万年青はいつも青々と育っていますよ”と書いていた。 
我が家の鉢を整理する時、実をつけないがこの万年青だけはその方のようで処分出来なかった。
昨年からあの唯一墨の文字ですらすらと流れるような文字で書いた年賀状が届かない。
一昨年のクリスマスに急死された。 その二日前婦人に”親の墓参りしないから頭に腫瘍ができるのよ、
お墓参りに行きなさいよ”と電話の声を残して。

その万年青がはじめて赤い実をつけた、まるでその方の生まれ変わりのように・・。
私には、親友を亡くして一段と気弱な婦人をどうかよろしくね、その方の遺言ではないだろうかと思う。
震災の日を迎えるからでなく、水をやるたびにその時のことを思い出すから。

二泊三日の短い鹿児島旅行から帰った翌日からひろとが熱を出していて我が家へ一泊していた。
昨日は早朝ひろとが段々と熱くなり40度の熱、12月は入院したし小さな子供のこと、心配だった。
次女がタクシーで往復してくれたが、インフルエンザでもRSウィルスでもなくてひと安心である、 
インフルエンザならあずかれないし、愛ちゃんも困るだろうし。
病院から帰ると元気になって、食欲もあり夕方は熱が下がった、しかし昨日40度あって
今日完全に下がるはずがない、やはり夜中息子から次女へ申し訳ないが頼むと電話があった。

今日は友人三人で有馬温泉、昨日は早朝から一人がお葬式が入って到着が遅れるよとか
一人先に到着すると言う時刻の電話、「私もね孫が熱でね、あずかっているのよ」
”楽しみにしているよ”と言いながら、用意もしていない私は少々後ろ髪ひかれる思い。
それに一番の寒さだと言う。 この再会は私に何を教えてくれるのだろう。

今日の子守は次女しかいないから大変だけど、夫も”がんばれ”と次女に言う。
”休みをもらったばかりで休みを言えなかった愛ちゃんの気持ちが良く分かる”そう言いながら、
引き受けてくれた次女に感謝である。 見てやりたくとも簡単に休めなかった親の辛さも分かる。
こんな時に、なつめの元気でいてくれることがどれだけ有難いことか。 
ひろとは寝言に「なっちゃん・・」と言っていた。 喧嘩しながらも一緒に育って行くことはきっといいことに。

万年青・・「玄関に飾ると縁起がいいのよ」そう言って下さった、今は亡き方からの贈り物、
寒い冬もいつも青々として、震災後の荒地の神戸で生きて来られた逞しさと笑顔私に忘れさせない。

ブログも今年は順調な滑り出しかと思いきや、孫から目が離せず訪問も出来ないけれど、
子供たちにしてやれること、子供たちの連係プレーをこの上なく幸せな自分たちであることを思う。 
27日は神戸の婦人の81回目の誕生日、(前日お祝いに夫と行きますよ)万年青に語りかける。


* 女三人よれば・・ *

2008年01月14日 | 雑感

新成人の様子がTVに映し出される。 
同じ晴れ着を着ていても、親に感謝ですと感激している子もいれば、またかと思うくらい、
暴れたりであげくの果て警察沙汰、無謀な情けない新成人たちもいる。 
レポーターにマイクを向けられた女性が「今時の若い者はと良く言われるけれど、大人だって
ちゃんとやって欲しい。 大人がちゃんとやれば子供だって・・」言葉は返せない。
昨年の不祥事など見る限り、将来を担う子供たちの見本たる大人の姿や何処へ。

成人式私は田舎へ帰らなかった。 京都会館第二ホールの成人式に列席、でなく舞台の上にいた。
勤めていた京都の病院で正月帰省して京都に向かう夜行列車で、早朝5時頃母娘さんが寝ている所を
バッグから財布を抜き取った少年、反対側の座席から私は偶然にも窓に映る現場を見てしまった。 
怖かったが次の神戸駅へ降りるなり保安へ連絡、その少年は現行犯で捕まった。3分停車の間に。
母娘さんからお礼にと、2000円いただいたっけ(当時の給料2万)
列車が出ると、出来事を思い出し震えが止まらなかったのを覚えている、よくやったなぁ私。
そんなことがあって”若者の勇気を讃える”何人かの一人で警察官より表彰されたのだ、賞金5000円。
あの時の私は、長い髪お気に入りの黒のベレー帽に、金ボタンのダブルの黒のスーツだった。
思い出した私の二十歳。 有名な産婦人科の病院で看護婦目指して頑張っていたのだ。

その私が京都の病院へ就職するとき、同級生の女性二人と男性三、四人が尾道まで見送ってくれた。 
男性たちは同じ列車で京都の病院まで送ってくれ、京都観光して帰った、夫がまわしもの。 
その時の女性二人と、18日有馬温泉へ泊まり、翌日京都観光をすることになっている。
三人組・・一人は栄養士現役のT美、「死ぬまでみかんを送ったげる!」と言ったふるさとの彼女。
道は違えど中学時代の三人組、一度一緒に温泉に行きたいねと言いつづけてくれた、念願?悲願?
来年は還暦の同窓会、何があるか分からない歳・・その前に一度会おうよと言うことになった。
企画は、二年前定年を前に教頭の職を辞したU子。  お昼頃っていつ神戸に着くんだろうね。
未だ企画書が届いていない
女三人寄れば・・企画書なんて私たちにはいらないや、賑やかな語りが浮かび笑っている私。


* 堂島ロール・・ *

2008年01月13日 | 料理・その他食
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晴れて温かな日になった。 何かと言うとき息子は雨男と言われるくらい晴れの確率は低いのに。
昨年は伊丹空港で、展望デッキから飛行機に乗リ込むのが通路で見えたり、離陸するまで
飛行機の離発着も眺めて楽しめるし、乗った飛行機が小さく空に消えるまで見送れた。
食事をしたらもう時間、9時20分搭乗「ばいばい」と言ったら帰るしかない関空はあっけない。
しかし同じ一年前を思うと、孫たちを見年月の経過の重みを感じる。



寄り道して二色の浜近くの公園で鳩と戯れていたら、11時頃着いたと長女にメールが入る、早いなぁ。
二泊三日で可愛そうだけど、鹿児島の空気を楽しんで来る事だろう。

本日念願の”モンシュシュ”の”堂島ロール”ゲット!
4年と少し前オープン、いつも行列が出来ていて気になっていたらあっと言う間にTVのあちこちの番組でおめざだのおみやだので登場している”堂島ロール”
気をいれて行かないと、たいてい売り切れ、色々あるがたいていの人のお目当ては堂島ロール。 
南堀江のお店一日午前午後限定100個づつ、午後の部娘たちが30分待ち、それでも30番目。 

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高かろう美味かろうでは当たり前、安かろう美味かろうがこれ! 1本1050円なり。
見た目シンプルだがふわっとしたスポンジ、クリーミィな生クリームはたっぷり入って独特、あっさり。
セイ君は二切いったそうだ。 私もいける!(メタボなんぞ目隠し)

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セイ君の姪っ子さんの成人式の撮影帰りにセイ君がいただいてきた立派な海の幸、夫が料理、
我が家で夕食をともにした。 脂ののったぶり、鯛、めちゃくちゃ美味しかった。
その後、夫、次女夫婦、なつめはセイ君のところへ、昨晩から連泊、Wiiの夜だろう。
私は一人・・の~んびり、こんな夜は・・まぁないのだから。

* 明日に向けて・・ *

2008年01月12日 | 雑感

昨日の午後から雨になり、今日も雨が降ったり止んだり、鳥たちも行き場を求めて
寒空を飛び交う。 冷たい土曜になった。 明日は晴れるだろう、晴れて欲しい。

週の終わり、明日は息子夫婦とひろとは愛ちゃんのふるさと鹿児島へ行く。
野球の展君以外、早朝からみんなで関空へ見送り。  我が家のこれは行事になっている。
昨年は14日の日曜でみんなで見送った。 あれから一年孫たちも随分と成長したものである。
愛ちゃんのお姉さんや先に帰っている沖縄の妹さんと2歳のかずまくんも鹿児島で待っている。

私たちはいつも身近にいて、息子夫婦や孫といい思いをさせてもらっている。
楽しければ楽しいほど、私は申し訳ない気持ちにもなる、近ければ愛ちゃんだって
もっとご両親に甘えられるのに、ご両親だってもっと娘にしてやれること、ひろととも遊べるのに。
ごめんなさいと思う、でもその分若夫婦の役にたてるのなら、努めますから・・そんな思いである。
3日前、ぎっくり腰をやったらしい息子、ちょっと腰痛と言う愛ちゃん、温泉へ浸かってきて。

昨年の帰省の1月、鹿児島では菜の花が満開だったそうだが。 


* お鏡開き・・ *

2008年01月11日 | 料理・その他食


                 ◆アオツヅラフジ(カミエビ) 多摩のNTの住人さまより

午後が雨になるとかの予報だったので、11時から1時間半歩いた(正味1時間) いつもの丘陵。


                                         この丘陵の下は中央体育館

花は山茶花がせめてもの彩りだが、冬を耐えている木々の中にも思いがけず絵になるものもある。
PCに落としたらいい色合いだった。 木の名前、なんだったかなぁ・・思い出せないが。

今日はお鏡開き、朝飾っていたお鏡を下げる。 少し前まではお鏡の形にお餅が埋め込まれていて、
まだ割るときには昔の気分を味わえたが、今中味はパックの小餅ちが詰め込んである。



お供えしたお餅は11日のお鏡開きでみんなで分け合って食べることで神様から力をいただき、
新しい年を元気に過ごせるとされている。 もともとは武家の間で行なわれていた習慣が一般化。
武家の風習のため、切ると言う言葉は縁起が悪いとされ「運を開く」にかけて鏡開きといわれ、
手で割ったり、木槌で割り開く
。(ダイエー歳時記カレンダー引用)

田舎にいた頃はまだ暗いうちから、蒸篭(せいろ)で蒸したもち米を石うすに杵で父や兄が餅をついた。 
以下子供たちは片栗粉をひいた広い台を囲んで、つきたてを母が「熱う!」と言いながら
小さく、切り分けていくのを待ち、そうして熱いうちに丸めて、あん餅や平餅を作って行くのだった。
つきたてのやわらかいお餅に二つも三つもあんを入れて食べる!それが餅つきの日の醍醐味だった。
出来たお餅はいくつかずつお盆に載せて、奥の部屋へ広げた新聞紙に片栗粉をひいた上に並べていく、
子供らは競って走って、行ったり来たり嬉しそうに運んだものだった。 
お鏡はむろん、これは母の役目、つきたてを大きく切り分け冷めないうちに両手でくるくる回しながら作る。
そんな母の芸当のようなわざを、目を輝かせながらいつもすごいと見つめていたっけ。
これが時間が経ってもひびの来ないつるっとしたお鏡餅にうまく出来上がるのだ。
小さなお鏡は私たちにも作らせてくれた。 田植えも稲刈りも雑穀もこんなことも、みんな家族総出。
暗いうちから電灯に照らされ家族みんなの笑顔や声が今だに忘れられないでいる。
家族の『和』と言うものは昔から、自然にこのように出来上がっていたのではなかろうか。

今は都会ではパック包装、味気はない。 しかし行事だけは代々伝えて行きたいものである。
せっかくだと言うのに、次女はお昼ごろからずっとむかむか、体調悪く・・おぜんざいを食べていない。

 
                 家族分母が手縫いのランチョンマット