僕が彼女と会ったのは、そう、もう30年も前のことだ。
その頃僕は銀座一丁目にあるとても小さな広告代理店に勤めていた。
コピーライター養成講座で紹介された会社に3年務めた後、この会社へ移った。
制作部勤めをして3年過ぎても特にコピーライターとして力が蓄えられたわけでなくて、
ただの使いっ走りでしかなかった。
さて、どうやって生きてい行けばいいのか?
そんな大仰な考えもなく、ただただ一日が楽しかった。というより一人暮らしに慣れ、給与の使い方にも慣れ、
普通に生活するだけのテクニックをある程度習得してしまっていたのだろう。
既に結婚をしてしまっていた。だからというわけではないが生活はラクな方向に進んでいたんだ。
あの頃の事を思い返してみたところで今が変わる訳じゃない。
「そんな事は分かっている。」
そんな言葉が頭の中をグルグル回っていた。
僕の席の少し後ろのテーブルに座る彼女の仕草を感じ取る為に椅子を前に引いた。
残念なことに何も感じ取ることはできなかった。
まるで真冬に吹く北風のような冷たさが伝わってきた。
こんな空気だった。あの頃の僕たちの出会いは・・・・
彼女は僕の勤めていた会社で経理の仕事をしていた。
年齢は僕より二つ上。28歳だった気がする。随分と昔の話だから、間違っているかもしれない。
今と違って僕は酒を飲めなかった。ビール一杯が限界だったし、何よりも酔うという体の状態が好きではなかったのだ。
でも、会社仲間たちと飲みにはよく付き合っていた。
それは無理をしている訳ではなく、周りの人たちに嫌な顔をされたくない・・・そんな恐怖心が僕にピエロ役を演じさせていたんだ。
そして何よりも僕が一番年下だったことが何よりの理由だったのだろう。
いつものように会社仲間3~4人で会社近くの居酒屋で飲み始め、二軒目を彼女が決めその店へと向かった。
晴海通りを渡り新橋方向へ向かった。並木通りの一本電通通りよりの道を50メートルほど歩いた雑居ビルの2階にその店はあった。
「TOMY」。
今でも覚えている。カウンターの席が8席。その奥にBOX席があった。
歳のころなら40歳代のようなバーテンがひとり。彼がオーナーだと分かったのはずっと後の事だった。
長身でやけに腕が長かった。色白でハンサム。頭髪はくせ毛にも関わらず七・三にキッチリ分けて、白いワイシャツが眩しかった。
彼の顔を見た途端、背中をゾウリムシが這いまわっているような嫌な気分になった。
しかし、彼女はやけに親しげで、少しも恐れてはいなかった。
むしろ、このバーテンダーの下心を弄ぶかのように振舞っていた。
そんなことを思い返していたとき、グラスにワインが注がれた。
「どうして・・・頼んでいない・・・」
給仕にそう伝えた。給仕は左目だけをつむり、顔を少し右へ傾けた。
僕はワイングラスを右手に持ち席を立った。
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