【わんちゃんの独り言】

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています
(コメント大歓迎デス・・・・・)

奈良町南の玄関口・古代~近代を歩く 2025-1-17(金)

2025-01-22 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
JR京終駅⇒椚(くぬぎ)神社⇒崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)⇒奈良町南観光案内所⇒庚申堂⇒ならまちセンター⇒猿沢池(解散)

① 椚神社(くぬぎじんじゃ)
 
空海(弘法大師)が大柳生から奈良へ来た際に、この地で休息し、出立にあたり櫟の杖を挿して置いていかれたものが芽を出し、神木となったという。一説には杖は春日明神の杖であったとも伝わる。椚大明神と呼ばれ、この椚を切ると罰が当たると言われている。文政年間に一度枯れて植え替えられ、現在は3代目の神木にあたるとされる。

② 崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)こちら




③ 庚申堂


「庚申さん」とよばれる青面(しょうめん)金剛像がまつられています。この「庚申」さんのお使いの猿を型どったお守りは、魔除けとして、よく奈良町の家の軒先にぶらさがっています。災いを代わりに受けていただけることから、「身代わり申」と呼ばれています。また、背中に願い事を書いてつるすと願いが叶うといわれ、「願い申」ともいいます。

④ ならまちセンター

  百人一首と紙芝居を楽しむ会、



⑤ 奈良町資料館

ここは1451年に炎上した旧元興寺本堂跡地である。入館無料で年中無休。
・自宅の一部を改装して始まった私設資料館
・仏像、民具、絵看板などを無料で見学できる
その昔、人間のお腹の中には三尸の虫(さんしの虫三尸 - Wikipedia)という虫がいて、庚申の日の夜、人が寝静まると体から抜け出し、その人がした悪事を天帝に告げにいくと信じられていた。奈良町の人達は、災難を運んでくる三尸の虫を退散させるため、いつも軒先に猿をつるすおまじないをするようになった。

マンホール

奈良市のシンボル「奈良公園の鹿」と「市章」の周囲に「八重桜」がデザインされている


いきいき健康ウォークは猿沢池が解散場所でした、ここから、近鉄奈良駅まですぐです、が、わんちゃんとしては歩数計のカウントが物足りません、三条通りをJR奈良駅まで歩くことにしました。
三条通りは両側にいろんなお店が続いています、懐かしいお店なんかには、ちょっと冷やかしに立ち寄ったり、JR奈良駅の構内ではベーカリーカフェで一休み。
JR奈良駅では京都行にすぐ乗車。ところが乗り換えの木津駅では学研都市線京橋行きは39分待ち「どひゃ~~。」
うちへ帰って歩数計を見ると11754歩カウントしてました。


紫式部ゆかりの宇治川ウォーク 2024-11-28(木)

2024-12-05 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
行程:JR宇治駅 ⇒ お茶と宇治のまち歴史公園 ⇒ 大吉山展望台(昼食)⇒ 興聖寺 ⇒ 宇治神社 ⇒ 宇治上神社 ⇒ 源氏物語ミュージアム(解散)
歩行(JR宇治駅発着)約6.5km 約10,000歩 所要時間約3時間
お茶と宇治のまち歴史公園こちら


京アニの夢と情熱、「繫ぐ碑」公開 事件5年を前に「仲間忘れない」こちら
 

宇治川太閤堤跡こちら


大吉山展望台で昼食

大吉山は、正式には仏徳山(ぶっとくさん)という名前の山です。標高131m
展望台にあるベンチでお弁当タイム。スッゴイ強風に悩まされながら……でした。

興聖寺曹洞宗仏徳山 :興聖寺





参道は「琴坂」と称し、宇治十二景の一つに数えられている。
曹洞宗の名刹で、春秋に美しい「琴坂」とともに人気の観光スポットです。開祖道元は、最初の禅苑を京都の深草に建てましたが、戦乱で廃絶1648年に淀城主永井尚政によって宇治の地に再興されました。茶人でもあった尚政は、山水を取り入れて現在のような枯淡閑寂な境内を作りましたが、往時には少なくとも三つの茶亭があったと伝えられています。また、平安時代中期の木造聖観音立像は、かつて源氏物語「宇治十帖」の古跡が「手習いの杜」に祀られていたことから「手習観音」の名で親しまれています。

見事な黄葉を横目に(興聖寺から宇治神社)


宇治神社



隣接する宇治上神社は明治時代に宇治神社から分離したもので、元は一体でした。宇治神社のご祭神は応神天皇の皇子・菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)この辺りは、応神天皇の離宮があった場所とされており、宇治神社のある場所が菟道稚郎子命の宮居跡と伝えられています。今でこそ、長男相続説が一般的になっていますが、古代の慣例では、なるべく若い者を後継者にする事で活躍期間が長くなり、それゆえ国が繁栄すると考えられていました。一方、菟道稚郎子命が学んでいた儒教の教えでは長男相続説を唱えるため、第一皇子、のちに仁徳天皇となる大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と、末の皇子だった菟道稚郎子命が皇位の譲り合いに。もつれ合った末に、兄君を天皇に就かせるために菟道稚郎子命はこの地で自害します。嘆き悲しんだ仁徳天皇が弟君・菟道稚郎子命の御神霊を祀ったのが宇治神社のはじまりと伝わります。

宇治上神社



明治時代までは、隣接する宇治神社と二社一体で「離宮上社」と呼ばれていました。祭神は、応神天皇とその皇子菟道稚郎子命及び兄の仁徳天皇とされています。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。境内にはその他、鎌倉時代に建てられた春日神社などの摂社や、宇治七名水の一つ「桐原水」があります。
1994年に『古都京都の文化財』としてユネスコ世界遺産に登録されました。

宇治橋

大化2年(646)に奈良元興寺の僧道登によって架けられたと伝えられ、「瀬田唐橋」「山崎橋」とともに、日本三古橋のひとつに数えられている。現在の橋は、平成8年(1996)3月に完成したもので、檜製の高欄に青銅製の擬宝珠を冠し、宇治橋が持つ歴史的イメージを残し、周辺の景観にも調和したデザインになっている。上流側に張り出した「三の間」は守護神「橋姫」を祀った名残とか、豊臣秀吉が茶の湯に使う水を汲ませたところともいわれ、そこからの上流の眺めは絶景である。

紫式部像

宇治川に架かる宇治橋の西詰にある石像。紫式部が「源氏物語」において最後の十帖が宇治を舞台にしたことを記念したもの。宇治ライオンズクラブにより2003年に建立された。

源氏物語の植物

ミヤギノハギ(宮城野萩)マメ科:別名・リュウキュウハギ。日本の宮城県で県花に指定されている。
キキョウ(桔梗)キキョウ科
ススキ(すすき)イネ科
フジバカマ(藤袴)キク科

宇治で「秋の色」も堪能しました




ところがですね、この日のコースですが過去に歩いてるんですよこちら
※記事内の説明文は『いきいき健康ウォーク』スタッフさん手作りのパンフレットより引用させていただきました。
JR宇治駅が出発地点で帰路はJR宇治駅から、帰宅後歩数計は18028カウントしてました。

秋の三井寺(園城寺)方面を歩く 2024-10-21(月)PART2

2024-10-30 | いきいき健康ウォーク
《三井寺》ユネスコ世界の記憶に登録されましたこちら

春夏秋冬の様子


大門(仁王門)


三井寺の表門で、檜皮葺の二階建ての楼門。もとは天台宗の常楽寺(湖南市石部町)にあったのを豊臣秀吉が伏見城に移し、その後、慶長6年(1601)に徳川家康が三井寺に寄進した。全国でも有数の美しい楼門として知られている。

弁財天社

案内板によると「御本尊の弁財天は八臂像で鉾、剣、斧、鈷、輪、索、弓、矢を執り能弁及び学問、技芸の徳をそなえる女神である。また、人をして無礙弁財を具足し福智を増益し延寿及び財宝を得しめる神として古くより崇拝されている。」とあります。

釈迦堂(食堂)



桃山時代を代表する名建築で、国宝に指定されています。
大門(仁王門)を入ってすぐ右手に、南面して建つ比較的に簡素な造りの堂です。 秀吉による破却の後、清涼殿を移築したものとの伝えもありますが、 室町時代に建立されたものと思われます。
「園城寺境内古図」には、大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、 この堂も食堂として移築されたものと思われますが、 現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。

三井の晩鐘

近江八景のひとつとしても名高い三井の晩鐘。その音色の美しさから、「音の三井寺」として「姿の平等院」「銘の神護寺」とともに天下の三名鐘と呼ばれています。実際に鐘をつくことも出来ます。
(冥加料300円)

閼伽井

「閼伽井」とは仏さまにお供えする聖水をたたえた井戸のこと。太古から神秘的な音をたてて湧き出る霊泉は、天智・天武・持統の三帝が産湯に用いたことから、「三井」寺という名前の由来になったと伝えられています。

弁慶の鐘

平安時代、弁慶が三井寺から奪って比叡山まで引き摺り上げたと伝えられる鐘。しかしいざ鐘をついてみると「イノー、イノー(関西弁で“帰りたい”)」と響いたので、弁慶は怒って谷底へ投げ捨ててしまったそうです。鐘にはその時についたとされる傷が残っています。
弁慶の汁鍋



一切経蔵 

  案内板にはこちら

唐院・三重塔

左側・唐院(灌頂堂・かんちょうどう)は、開祖・智証大師をお祀りしている三井寺の聖域。奥にある三重塔は奈良・世尊寺(旧比蘇寺)から移築されたもので、重要文化財に指定されています

灌頂堂

微妙寺 案内板こちら 


水観寺  案内板こちら  

三井寺の別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するため本寺周辺に設けられた別院で、近松寺、微妙寺、尾蔵寺、水観寺、常在寺の五寺院を総称して五別所と呼んでいる。

村雲橋


むかし、智証大師がこの橋を渡ろうとしたときのこと。
西の空を見て入唐したときに修行した長安の青竜寺が焼けていること察知した大師。
真言を唱えて橋上から閼伽水をまくと、橋の下から一条の雲が湧き起り、 西に向けて飛び去っていったのだとか。
数日後、青竜寺から火災を鎮めてくれたことへの礼状が届いたのだという。
以来、この橋は「ムラカリタツクモの橋」「村雲橋」と呼ばれるようになったのだと伝えられている。

観音堂



観音堂:西国三十三所観音霊場の第十四番札所。ご本尊は三十三年に一度ご開扉されます。

展望台

展望台:観音堂からさらに石段を上れば、大津市街を一望できる展望台に。陽光を受けてきらめく悠然たる琵琶湖が眼下に広がります。松尾芭蕉や正岡子規など、多くの文人がここから見晴らす琵琶湖の景色を愛したと言われています。

広い広い三井寺の境内を仁王門から入って順番にお寺を参拝して写真を撮り、案内板を拝読して記事にしました。
ウチに帰って歩数計のチェック:13891歩

秋の三井寺(園城寺)方面を歩く 2024-10-21(月)

2024-10-27 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
行程:JR大津駅⇒琵琶湖沿い⇒大津港(昼食)⇒三井寺⇒JR大津京駅(解散)
歩行距離:約7km 12000歩

出発はJR大津駅から。
駅前広場でストレッチ体操

途中、大津百町(おおつひゃくちょう)で。
大津百町は、東海道五十三次の「宿場町」、琵琶湖水運の「港町」、三井寺(園城寺)の「門前町」という3つの町の顔を持ち、東海道最大の人口を誇る宿場町でした。
というところで、
『登録有形文化財』のプレートがある家屋が。


見ると玄関先の植木鉢のバーベナにヒラヒラヒラ、アオスジアゲハが。
 


琵琶湖岸を大津港の方へ

ここで、お弁当タイム。集合時間までちょっと散策。
琵琶湖観光船ビアンカ、ミシガンと並んで停泊してます、いい景色です。



何かのイベントに登場するのかな?見ると脚にキャスターが付いてる。

向こうの方に見えるのは『三上山(みかみやま)=近江富士』
びわ湖花噴水の看板も、

ライトアップの様子をネットから。

集合時間、点呼を怠りなく。次の目的地、三井寺へ

大津市のマンホール蓋

平成10年10月1日に市制施行100周年を迎え、これを記念して、大津市にふさわしいマンホール鉄蓋のデザインを公募しました。審査を経て、最優秀賞に 選ばれた作品をもとに、大津市制100周年記念マンホールキャップを製作しました。この作品は、市制施行から100年目の大津市の景観をモチーフにしています。
つづく。

~大和民族公園 ・ 奈良県立民俗博物館(みんぱく)めぐる ~2024.6.14.(金)

2024-06-18 | いきいき健康ウォーク
せいか365プロジェクト  いきいき健康ウォーク    2024.6.14.(金)
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫

コース : 近鉄新祝園駅→ 近鉄郡山駅(下車)→郡山城跡(立ち寄り)→矢田坐久志玉比古神社→ みんぱく(昼食)→近鉄郡山駅(解散 14:30頃の予定)
※状況により歩行コース、予定時間が変更される場合があります。
歩行 : 約9km、 約14,000歩、 実質歩行時間約2.5時間

大和郡山城  
郡山城址天守台の南下に、柳沢藩の開祖・柳沢吉保を祀る柳沢神社が鎮まります。桜シーズンの大和郡山お城まつりでは、金魚品評会などで賑わう神社として知られます。大和郡山城の本丸跡に建つ、風格漂うお社です。

柳沢神社 👇郡山高校 美術部一同

5代将軍綱吉の側用人として仕え、柳沢家中興の祖とも称えられる柳沢吉保公。金魚の養殖をはじめ、様々な恩恵を与えてきたその功績により、明治13年に旧藩士によって神社が創建されるに至りました。その際に植えられた数百株にも及ぶ桜の木が、今では多くの花見客の目を楽しませています。郡山城にお花見におでかけしませんか?こちら
👇郡山城絵図

天守台

この天守は逆さ地蔵の祟りや大和大地震で倒壊したという俗説が残っている。『郡山城と城下町』によると「現存している天守台に5層6階の天守は建築学上から考えて建てられること不可能」としている。しかし2013年(平成25年)から2017年(平成29年)にかけて調査・整備事業が行われ、礎石が確認された。この調査で、豊臣秀長時代あるいは増田長盛時代には天守が確実に存在し、後に二条城更に淀城へ移築された話も事実と確定された。平成29年3月26日から展望台施設が公開された。
天守台展望2013年(平成25年)から4年をかけて天守台の石垣の修復と展望施設の整備を実施、2017年(平成29年)から一般に公開されています。



標高82mで眺望がよく・奈良の春日山原始林、東大寺の大仏殿、興福寺の五重塔、薬師寺の二つの塔、唐招提寺の講堂等の世界遺産が遠望できます。

郡山高校の正門近くに、詩人で教育者の森口武男の詩碑「金魚とねこ」があります。

詩は次の通りです。
金魚が
鉢でおよいでいる
ねこがじっと見ている
どうしたの?
金魚は泳ぎをとめてきく
ねこはだまっている
あたいを写生?
金魚は
頬を鉢にすりよせる
そこで
ねこは
鉛筆と紙をさがしにいく
      森口武男
森口武男の詩碑「金魚とねこ」こちら

 
大正天皇ご即位記念に献ぜられたる青銅馬一体、先の太平洋戦争末期 供出の命を受け、国のため奉ぜらる。長く石鉄のみ残れるを痛み、之を再現す。平成二年九月吉日 今西康彰 中西佳男

【民俗博物館】


奈良県立民俗博物館は1974年(昭和49年)11月10日に開館した。奈良県(大和国)に暮らす人々がその風土の中で生み出し、改良工夫を重ねて伝えてきた生活用具など民俗文化財を通して生活文化を学ぶことができる博物館である。常設展示は大和の生業をテーマに、県北西部に位置する奈良盆地の稲作、県北東部に広がる大和高原の茶業、県南部を占める吉野山地の林業をその代表として取り上げ、地域で伝統的に培われてきた仕事の様子が理解できる構成となっている。また2013年(平成25年)からは「昔のくらし」として、大正から昭和期の一般家庭の家の中をイメージした展示や、実際に道具に触ったりできる体験コーナーなども設置されている。


【大和民俗公園】



奈良県立大和民俗公園は約26.6ヘクタールの敷地を有する都市公園で、民俗博物館は公園の一角、敷地の南東寄り中央に位置している。公園は「里山」を活かしながら梅林や菖蒲園などが整備されている。また、公園内には奈良県内各地から移築・復原した江戸時代の伝統的な家屋(民家・土蔵)など15棟があり、うち3棟は国指定重要文化財、10棟は県指定有形文化財となっています。
【矢田坐久志玉比古神社】

 
拝殿の扁額には【矢落大明神】と。

矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)は、別名「矢落(やおち)神社」。延喜式神名帳に記載されている大和国添下郡十座の筆頭社で式内大社。旧社格は、県社(昭和13年10月、郷社より格上げ)。『新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)』大同元年(806)の諸社神封の条に「矢田神二戸 大和」とあり、当社はそれ以前に創祀されていた古社であることがわかる。仁徳天皇の皇后である矢田皇女は、この地方の出身と考えられている。「当地方最大の古社として創建より六世紀前半までは畿内随一の名社として栄えた」と掲示板に記されている。祭神である櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)が天磐船(あまのいわふね)に乗って空を飛んだという、先代旧事本紀に記されている故事により航空祖神として崇められ、毎年9月20日に航空祭が行われる。実際に、戦闘機で使用されていたプロペラが奉納され、楼門屋根裏から吊されている。

このプロペラは「陸軍九一戦闘機」のもので、実際に軍用機として使用されたものを奉納したもののようです。
当社が航空の神として信仰されていることを端的に示すものです。

ここで解散でした、さて、「みなさぁ~ん、近鉄郡山駅まで徒歩で行くか近くのバス停で郡山行きのバスに乗るか、どっちにしますか?」「バスに乗りたいでぇ~す」少し歩くと《矢田東山》バス停が見えました。
ウチに帰って歩数計を見ると18224思わず「やったぁ!!」

タイサンボク(泰山木)モクレン科

 郡山城                民族博物館庭園
別名で、ダイサンボク、ハクレンボクともよばれる。ときに高さ20メートルになる大木であり、白い9枚の花被片からなる大きく碗状の花が上向きに咲く。花の形から「大盞木」(たいさんぼく、盞は「さかずき」)とされ、その後「泰山木」の字が充てられたともされる。北米南東部原産であるが、日本など世界中で広く植栽されている。

大和郡山市マンホール

大和郡山市の代表的な地場産業である「金魚養殖」の金魚が、金魚鉢の中を元気よく泳ぐ姿を図案化して製作したマンホール蓋。大和郡山市の金魚養殖は享保9年(1724年)、柳澤吉里候が甲斐から 大和郡山へ入部したことに端を発すると伝えられ、幕末には藩士の副業として盛んに行われるようになりました。 それ以来歴史を積み重ね、今では毎年4月上旬に金魚品評会が桜花爛漫の郡山城址内の柳澤神社で行われるほか、 8月下旬には金魚スクエアで「全国金魚すくい選手権大会」が開催されるなど、大和郡山の風物詩になっています。


~坂と信仰のある街並み・天王寺七坂をめぐる~2024-5-22

2024-06-02 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
【天王寺七坂】
コース:近鉄新祝園駅⇒大和西大寺(乗り換え)⇒近鉄上本町駅(下車)生玉真言坂⇒生国魂(いくたま)神社⇒源聖寺坂⇒口縄坂⇒愛染坂⇒清水坂⇒天神坂⇒逢坂⇒一心寺⇒茶臼山(昼食)⇒「てんしば」:解散

天王寺界隈の上町台地の西側にある七つの坂を天王寺七坂という。
それぞれに深い歴史を刻んだ坂道でたくさんの寺院や石碑を見ながら巡る。
「天王寺七坂ご利益いっぱい歴史も満載スタンプラリー」に参加すると「完歩証」が貰える。

1「真言坂」
 
天王寺七坂の中で最も北に位置する坂で、石畳でできています。
生國魂神社の神宮寺、生玉十坊が真言宗の寺だったことが由来。
家造祖神社(やつくりみおやじんじゃ)

生國魂神社(いくたまじんじゃ)の境内にある8つの末社のうちのひとつ。祭神は手置帆負(てきほいの)神、彦狭知(ひこさち)神で、ともに建築業の祖神として土木建設業界の信仰を集め、毎年4月11日には業界多数の参列のもとに例祭が行われる。
生國魂神社境内

江戸時代中期の落語家で、上方落語の祖といわれる米澤彦八の碑が、生國魂神社境内の片隅に建っています。 神社の境内に小屋を建て、大道芸人風の見世物芸などを見せていたのが始まりだそうです。大阪市天王寺上方落語発祥の地⇒こちら

2「源聖寺坂」
 
石畳と石段が美しい坂道。今は生国魂さんにある源九郎稲荷が昭和末期まであった。坂の上にある「銀山寺」には近松門左衛門の浄瑠璃「心中宵庚申」の主人公お千代・半兵衛の比翼塚がある。。また、精華町・植田にある「来迎寺」にはお千代が植田村の大百姓、嶋田平右衛門の二女であったことから墓石が置かれている。こちら
タイサンボク:モクレン科

ハクレンボクとも呼ばれます。北アメリカ南東部の原産で、明治初期に渡来した常緑高木、白色の大きな花で直径12~15cm、芳香があります。花形も丸みをもった杯形となり、雄大で美しい。
何気に見つけた白い大きなお花。

3「口縄坂」

坂の下からの眺めがくちなわ(蛇)のように見えるのでこの名がついたといわれているが、豊臣秀吉による大坂城築城の際の縄打ち口(起点)であったからという説もある。上がったところには織田作之助の「木の都」の文学碑もある。


4「愛染坂」


愛染さんのお参りはこの坂道を通る。「愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)」金堂に愛染明王が奉安されたことから大阪市民の間では「愛染さん」の名で知られている。愛染明王は男女の愛情を司る神で、縁結びのご利益を求めて祈願する人が絶えない。愛染堂境内に多宝塔は、1600年の建造で大阪市内最古の重要文化財。樹齢数百年のカツラの木にノウゼンカツラが絡む「愛染かつらの木」も縁結びの霊木として有名。また、大阪の夏祭りの先駆けである「愛染まつり」も風物詩として名高い。

5「清水坂」


坂の上の「清水寺」には大阪市内唯一の滝「玉出の滝」がある、


ハルカスが見えた

通天閣も見えた。

この坂には昔、料亭「浮瀬」があり芭蕉や蕪村も訪れた。

6「天神坂」

安居の天神さん「安居神社」の横の坂。

真田幸村が非業の死を遂げた場所でも有名。NHK大河ドラマ「真田丸」放映以来訪問者が絶えることがない。

7「逢坂」

四天王寺西門に至る坂道。昔は急な坂を登り切れないので押屋(荷車を押す人)がいたそうだ。昔は「合坂」とも表記されている

一心寺

わんちゃんのおばあちゃんの骨仏のあるお堂


茶臼山

ここでお弁当タイム

天王寺公園へ
  


マンホール

大阪城と市の花サクラと水流をデザイン、平成6年の市下水道事業100周年を記念し、一般公募で集まった615点の中から採用された。上部に大阪市の市章

★過去に天王寺七坂散策してます、スタンプラリー敢行こちら

地図で見る【天王寺七坂】


記事中の解説は「いきいき健康ウォーク」スタッフさんの手作り資料より引用させていただきました。


中将姫ゆかりの牡丹の名所、石光寺・當麻寺をめぐる

2024-05-04 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
日程:2024年4月25日(木) 
コース:近鉄新祝園駅⇒橿原神宮前(乗り換え)⇒二上山駅(南大阪線)下車⇒道の駅ふたかみパーク當麻・公園(昼食)⇒石光寺⇒傘堂⇒當麻寺⇒當麻寺若しくは近鉄當麻寺駅にて解散(15:00頃予定)

1【中将姫ゆかりの牡丹の寺・石光寺】
二上山の麓にある石光寺(せっこうじ)。
天智天皇の勅願寺とされます。

正門をくぐって直ぐ、美しく盛られた白砂が目を引きます。

「想観の沙(そうかんのすな)」といい、砂を「沙」と書くのは、お釈迦様が沐浴されたガンジス河の沙に例えているからです。

手前が此岸で、向こうが彼岸を表します。方形の執着から円形の覚(さと)りへと至る道。迷いから解き放たれ、悟りの境地へ向かいます。
人生は思い通りにならないという一切皆苦。
そこがスタート地点であり、苦しみの原因である執着を手放すことが仏教の教えにもなっています。何事も杓子定規に考えるのではなく、まぁるく全体を見渡してみたいものです。四角四面ではなく円満に対処する・・・人生行路のコツなんだろうと思います。
 
「想観の沙」から並びに『染めの井戸、糸掛け桜』
これは、中将姫が當麻寺の御本尊の當麻曼荼羅を織る際に、蓮の茎を集めて糸を採り、この寺の井戸に浸したところ五色に染まったという伝説の場所だからです。その井戸を染の井といい、蓮糸を掛けて干した桜の木が、糸掛け桜です。姫は五色に染まった蓮糸を當麻寺に持ち帰り、わずか一晩で當麻曼荼羅を織り上げました。
庭園内のフジが見事でした。

 


ヒメシャリンバイ(姫シャリンバイ)バラ科 / シャリンバイ属 原産地:日本
 
 
👆アオスジアゲハが……。
石光寺から當麻寺への途中に
2.傘堂

傘堂は、1674年(延宝2年)に、水飢饉に苦しむ農民のために大池(おいけ)を築造した郡山藩主本多政勝の菩提を弔うため、郡奉行の吉弘統家(よしひろのりいえ)がその供養塔として建立したものです。

3.西南院(當麻寺 塔頭) 

 
池への映り込み、ステキですね👏

シャクナゲ (石楠花、石南花) ツツジ科ツツジ属



西南院は、當麻真人国見が麻呂子親王によって草創された萬法蔵院を、
白鳳十二年 百済の僧正恵灌を導師に迎え、當麻寺として還造した時、坤(ひつじさる)=方位としては西南(裏鬼門)の守り寺院として創建されたのが始まりである。

4.當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一対で残る全国唯一の寺としても知られています。
以前は無かったはずやけど...。


よく見ると、傘の形をしたおみくじ。いろんなお願い事があった。
當麻寺についてもっと詳しくはこちら

 
冬牡丹を訪ねたことがありました。こちら 

當麻寺で解散でした。
「近鉄当麻寺駅のそばに中将餅のお茶どころがあったと思う、帰り道やし寄ってみようよ」
「はいはい、賛成賛成」
金子みすずファンクラブ(勝手に命名)のお店の奥さんと立ち話を。
奈良県葛城市の當麻寺参道にあるお土産店。「奈良 みすゞの和(民芸店 和)」の奥の方に金子みすゞのポートレートが視線の先に飛び込んできました。ホッコリする奥さんの人柄、金子みすゞさんのお話が楽しかったです。
駅に向かって歩き『中将餅』のお店へ。「駐車場に車停まってへんね、お店はあっちなんかな?うわっ閉まってる」「ざんね~ん」
『中将餅』をいただいてました。こちら
近鉄当麻寺→橿原神宮前→新祝園→狛田 橿原神宮前駅で京都行急行に乗れたのはラッキーでした。
歩数計は18,753カウントしてました。
「脚にこたえるかもね、え~~っと冷水か温水かどっち?」
「言うてみたら炎症を起こしてるんやから、両ひざ下から両足まで冷水をかけると、ひどい筋肉痛にならないと思うよ」
翌日から翌々日に痛みが来るんちゃうか、と心配やったけど、ぜ~~んぜん、やった。

いっぱいの艶やかな牡丹

 

 

 

 



~『ちはやぶる』百人一首の名所、竜田川をめぐる~

2024-04-01 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫

コース:近鉄新祝園駅→大和西大寺(乗り換え)→生駒(乗り換え)→平群駅(生駒線)
道の駅大和路へぐり⇒竜田公園(昼食)⇒三室山(標高82m)⇒JR・近鉄王寺駅解散(14:30頃解散予定)

平群駅の駅前広場で準備体操後、ウォーキングスタート。
『道の駅大和路へぐり』で休憩。


地元産のお野菜などイチゴもいっぱいありました、美味しそうなイチゴ、「買いたいなぁ」でもでも、ウォーキングイベントにはアカンアカン。
ひときわ目を引いたのが『四天王像・広目天』問い合わせ(奈良県庁観光課)てみたら高さ5mですって。

作者さんは籔内佐斗司 こちら
【竜田公園】でお弁当タイム
斑鳩町の南西部に位置し、竜田川沿い総延長約2km、総面積14haの公園です。
枝が大きく張ってるサンシュユに遭遇、足元にはハナニラ
 


三室山へも行きました、三室山の登り口で。

※①「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」
神の時代にも聞いたことがない。竜田川の水を(紅葉葉が)あざやかな紅色にくくり染めにするとは。
百人一首の他に、古今和歌集、伊勢物語にも収録されています。
この歌は在原業平が詠んだ歌です。古今和歌集には、「屏風に描かれた、竜田川に紅葉が流れている様子を題材に詠んだ歌」と但し 書きがあります。一方で伊勢物語には、「竜田川に出かけていって実際に景色を見て詠んだ歌」とも書かれています。
※②「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり」
烈しい嵐が吹き散らした三室山の紅葉は、やがて竜田川に流れ入って川面は錦のように美しいことよ。
後冷泉天皇主催の「永承四年内裏歌合」で紅葉を題に詠まれた歌です。
古今集の「竜田川もみぢ葉流る神なびの 三室の山にしぐれ降るらし」という詠み人知らずの歌を踏まえています。
作者は能因法師(のういんほうし)[988〜1050年]
俗名は橘永愷(たちばなのながやす)平安中期の歌人・僧侶で、中古三十六歌仙の一人です。
標高82mからの景色

桜はアキマセンでした⇒桜の見ごろっというのはホンマに難しいなぁ
満開の時に行った記録があります。こちら

ウォーキング中に見つけたマンホールの蓋

生駒郡平群町
町章と町の花キク(平群町は夏秋期小菊の生産日本一。)町の木カシのデザイン。「おすい」の文字。
汚水管マンホール蓋
北葛城郡王寺町
町の木ウメ、町の花サツキと、 聖徳太子の十七条の憲法第一条「以和為貴」(和をもって貴しとなす)の精神を引継ぐ地域のシンボルの和(やわらぎ)の鐘のデザイン。 周囲は4重の凸模様。「おうじ」「おすい」の表記。
汚水管マンホール蓋
王寺駅で解散、歩数計を見ると16156カウントしてました。


精華古社探訪半日コース 2024-1-29

2024-02-04 | いきいき健康ウォーク
コース:近鉄・狛田駅⇒春日神社(菱田)⇒春日神社(舟)⇒木津川堤防⇒むくのきセンター(トイレ休憩)⇒祝園神社⇒武埴安彦破斬旧跡(たけはにやすひこはざんきゅうせき)⇒近鉄新祝園駅(解散)約6Km

集合場所は近鉄狛田駅

わんちゃんちから極々最寄りの駅。
1番目は春日神社(菱田)

菱田地区の氏神。奈良市にある春日大社の若宮社殿を移築したと伝わる本殿は重要文化財。

本殿は格子の向こうだったので、格子の隙間から……。



拝殿の白馬と黒馬は、近世初期の絵馬として有名。


2春日神社(舟)


舟地区の氏神。社殿は昭和54(1979)年に再建されたもので、安永2(1773)年の絵馬が残る。
例祭は毎年10月17日。
境内の大きな樹木はすべて伐採されていた、
 
「どうしてなんですか?」「近隣に住宅が増えましてな、台風なんかの時に大木が倒れたりしたらアカンよってに」

3百久保地先遺跡出土の石造物



 
ホトケノザ(仏の座)シソ科

「雑草なんかを撮ってはりまんのか?」「はい、お花屋さんで売られてるお花よりも、田んぼのあぜ道なんかに咲いてる野草が好きなんですぅ」「そうでっか、いろんな人が居はりまんなぁ」

むくのきセンターでトイレ休憩

センター2階の交流広場は屋根付き、雨天の日でもグラウンドゴルフが楽しめるんです。


4道標
 
江戸時代には、大和郡山藩、小泉藩の参勤交代の行列や伊勢参りの旅人などが往来していた道。
道標には「左 なら(奈良) 右 京(京都)よど(淀)八わた(八幡)」とある。

5祝園神社


正月に行われる居籠祭は、京都府の無形民俗文化財の指定を受けている。二日目に大松明を先頭に祭場へ
向かう御田(おんだ)の儀、三日目に竹で邪鬼をかたどった綱をひきあう綱曳(つなひき)の儀という神事が行われる。

6武埴安彦破斬旧跡(たけはにやすひこはざんきゅうせき)
 
『古事記』『日本書記』によれば、武埴安彦は第八代孝元天皇の皇子である。崇神天皇に対する反乱で敗れ、この場所で斬首されたと伝えられている。

また、この場所は居籠祭で綱曳の綱をやく場所でもある。

7仇討ち地蔵



以前にウォーキングしてました。こちら⇒精華町の古社を訪ねる:木津川堤防沿い

コースのおさらい
木津川沿いの景観を眺めながら進み精華の史跡を探訪する。
木津川は大変な暴れ川で、江戸時代の約250年間でも多くの洪水被害が記録されている。
下狛駅・狛田駅から東へ進むと、奈良の春日大社ゆかりの菱田と舟の春日神社を経て、木津川へ出る。
その美しい流れと開けた景観を観ながら南へ進むと、祝園神社や常念寺など、由緒ある寺社や、『古事記』に伝承が残る史跡を訪ね歩くことができる。
参考資料:いきいき健康ウォークスタッフ手作りパンフレット
この日の歩数計は16859歩

紅葉の坂本 日吉大社を巡る  2023-11-30(木)

2023-12-21 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫

行程:JR唐崎駅(湖西線)⇒唐崎神社⇒坂本城址公園(昼食)⇒日吉大社(解散)

JR唐崎駅前でウォーキングに備えて準備体操

1唐崎神社


日吉大社で代々神職を務められた家の先祖である、琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)という方がこの地に居住され、「唐崎」と名付けられました。この頃、天智天皇が奈良の三輪山から大己貴神(おおなむちのかみ)を大津にご勧請された際に、琵琶湖を渡り、この唐崎の地に降り立ったとされており、日吉大社西本宮のご鎮座に大変縁のある場所です。ご祭神女別当命(わけすきひめのみこと)は琴御館宇志丸の御妻君であり、持統天皇の御代697年に創建されたと伝えられています。

琵琶湖の向こうに三上山(近江富士 として知られる。標高 432m。)




2唐崎の松

初代は持統天皇の御代に琴御館宇志丸が初めて植えたことに始まる。記録の上では初代の松は天正9年(1581)に大風によって倒れ、二代目は天正19年(1591)当時の大津城主 新庄直頼公が植えたとされています。この二代目の松は大変大きく、明治初期の由緒書には、東西72メートル、高さ27メートル、幹の円周11メートルもあり、境内を覆うほどでありました。今なお多くの絵画などにその姿が残されております。
石川県の兼六園にも二代目松の実生があり「唐崎の松」として植えられております。

芭蕉は『野ざらし紀行』の旅で琵琶湖の向うに「唐崎の松」をながめて、

『唐崎の松は花より朧にて』
唐崎の松は桜よりも朧に霞んで見える、
という句を詠んでいます。

3.穴太衆の石積み


比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として栄えた坂本は、隣接する穴太村の職人集団「穴太衆(あのうしゅう)」によって石垣が築かれ、大小の整形していない自然石を巧みに積み上げ、かつ挟み込んだ「穴太衆積み」によって通り道の景観が形成されている。その美しさと堅固さから戦国時代にはいくつもの城郭の石垣にも用いられた。
坂本の町には、比叡山で修行 を積んだ僧侶たちの隠居坊である「里坊」が集中しているが、その里坊が各々石垣を築いているので、坂本は穴太衆積みのまちとなっている。
また「穴太(あのう)」は大津市坂本付近に今も地名として残る。

4.坂本城址公園



坂本城は1571年の延暦寺焼き打ち直後、織田信長の命により明智光秀が琵琶湖岸に築城。安土城に次いで絢爛豪華な城であったといわれる。1582年の本能寺の変の後、羽柴秀吉軍の攻撃により落城。城内と推測される場所に光秀の供養塚と伝わる明智塚がある。また、琵琶湖の渇水時には湖中の石垣が姿をあらわすが、普段は見ることができない。現在は坂本城のあった辺り2カ所に碑が建っている。一つは下阪本の旧北国海道沿い東南寺付近の碑で、もう一つは湖岸に作られた公園の前に建っており、公園内には明智光秀像もある。

5.日吉大社




👆阿像     👇吽象

日吉大社 詳しくはこちら
全国に約3,800社余りあるの「山王さん」の総本宮。平安京の表鬼門にあたる場所に社殿があり、平安時代から都の守護神として、また比叡山延暦寺の御法神として信仰を集めてきました。神の使いの猿「神猿(まさる)」は、「魔が去る」「勝る」に通じる魔よけの象徴として大切に扱われ、お守りやおみくじ、絵馬などにも描かれている。広大な境内には国宝の西本宮と東本宮の本殿をはじめ、日本最古の石橋といわれる日吉三橋など重要文化財も数多くあり、境内全体が国指定の史跡となっています。社名の「日吉」はかつては「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。鳥居は、その上部に比叡山延暦寺を示す山形をのせる独自の形式で※「山王鳥居」(合掌鳥居、総合鳥居)と呼ばれる。

※鳥居形式の一。明神鳥居の笠木 (かさぎ) の上の中央に棟柱 (むなばしら) を立て、木材を合掌形に組み渡し、その頂上に烏頭 (からすがしら) という反りのある木を置いたもの。日吉 (ひよし) 大社の鳥居に始まるという。
👆文中の解説は『いきいき健康ウォーク』のスタッフさん手作りのパンフレット参照。




 

 

 





 












ここ、日吉大社で『いきいき健康ウォーク』の行程では解散でした。
ゆる~い下り坂を歩いて湖西線JR比叡山坂本駅へ

ホームで虹を見た。みかちゃん、Kさんと『ラッキー』っと、思わずハイタッチ。
帰宅して見ると、歩数計は20173カウントしてました。

嵐山周辺散策 2023-11-27

2023-12-02 | いきいき健康ウォーク
≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
10月20日(金)のいきいき健康ウォークの日はわんちゃん的には参加が無理やったんで、「あの辺りなら知ってるわ」と、『独りいきいき健康ウォーク』を決行。
行程:JR太秦駅⇒車折神社⇒法輪寺⇒中之島公園(解散)
いきいき健康ウォークのスタッフさんに訊いてちょっと予習を
『JR太秦からは駅を出て戻る方向で踏切を渡り京福の撮影所前駅を通って行ったら三条通に出る。帷子ノ辻駅前を進むとそのまま、真っ直ぐで嵐山に。 』

「よしよし、これでオッケーや」と勇んで出かけたもののイザ太秦駅を出ると「う~~ん??」
まず、車折神社目指して、途中の斎宮神社に寄り道

斎宮神社は、京都市右京区嵯峨野宮ノ元町にある神社で、天照大神を祭神としています1。斎宮は伊勢神宮に奉仕する斎王が有栖川の辺に野宮を建て、精進潔斎をした旧跡と伝わるこじんまりとした神社で、厄除け開運・婦女子の血の道の守護などに御利益があるとされています。
境内に大きな樹

ムクノキ(椋木)ニレ科
この一帯は古くから「斎の森(いつきのもり)」と呼ばれていました。このムクノキはその名残で現在は「清く正しいい心のよりどころ」として、地域の人たちに親しまれています。

目指すは車折神社

車折神社の御祭神は、平安時代後期の儒学者・清原頼業(きよはらよりなり)公。願いを込めると必ず叶えてくれる「約束を違えない神様」として信仰され、商売繁盛・家内安全・金運上昇・縁結びなど、あらゆる願いを叶えてくれるご利益がある。清原頼業公は大外記の職を24年間も務め、その優れた和漢の学識と実務の手腕が高く評価された人物。1189年に逝去されると、清原家の領地であった現在の社地に設けられた廟(祖先や個人の霊を祀る建物)に葬られ、それが時代を経て現在の「車折神社」となった。
『大外記(だいげき)』とは
律令制で、式の執行などを司る官職・外記のうち、上位の立場にある者。★パンフレットより

車折神社
玉垣に記された名前にスゴク興味津々


公式HPによると、玉垣一枚の奉納料は21,000円(※2023年4月時点)。申し込み日より2年間掲載いただけるそうです。
芸能神社


嵐山に近ずくと観光客がいっぱい、渡月橋などは橋の両側の歩道なんて人であふれそう。

ふと川面を見ると

ヒドリガモが……。

渡月橋を渡り終えて人ごみにつられて進むと、法輪寺の入り口が
石段を上がっていくと、バぁ~~ンと


 

虚空蔵法輪寺
およそ1300年前の和同6年(713年)に元明天皇の勅願により行基菩薩が創建したのがはじまりです。
清少納言の『枕草子』では、京都の代表的な寺院として挙げられ、本尊のご利益は『今昔物語』にも描かれています。
幕末の禁門の変によりお堂の大半が焼失してしまいました。その後、お堂や山門、多宝塔が再建され現在に至っています。

法輪寺と申しますと『十三参り』こちら 
二月八日 針供養 の日にお参りしてるんですよ。こちら

ランチは?
三条通りに面した『喫茶軽食リベラル』

ランチ定食

 

焼肉のたれが絶妙なお味、白菜の煮びたし:薄味でしっかりしたお味
食後の珈琲がほっこりしたお味
「ごちそうさまでした、ここから京都駅に出たいのですが一番近いのはどこからの停留所がありますでしょうか」
「京都バスか市バスが便利ですよ、2~30m行ったところにバス停がございます」
すぐバスが来た、超満員だった、運良く後方座席の段差のところのシート後ろ側にもたれかかることができて約30分立ちん坊でも苦にならなかった。

京都駅舎の壁面がミラーのようになっていて、京都タワーがそっくり映っていた。
ウチに帰って歩数計を見ると『17012

山背古道から青谷梅林を歩く 2023-3-08

2023-03-17 | いきいき健康ウォーク
 ≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
せいか365プロジェクト いきいき健康ウォーク
日程:JR山城青谷駅⇒龍福寺⇒中天満神社⇒青谷梅林⇒JR長池駅(解散)

以前、近鉄の『酒蔵みてある記』で青谷梅林からゴールの城陽酒造までのコースに参加したことがあった。こちら
今年の『酒蔵みてある記』は「あらっ!いきいき健康ウォークとおんなじ日やんか、城陽酒造のお庭にも梅が満開とちゃうかなぁ。」
との思いを込めながらUさんと参加しました。

1.龍福寺京都府城陽市 - 八百万の神



龍福寺は浄土宗のお寺で、山号は天沢山。1607年に曇誉(どんよ)が創建したのが始まりで、現在地に移転したのが1674年と伝えられる。1690年に火災で焼失、奈良の東大寺から『阿弥陀如来坐像』を譲り受けて本尊とし、1837年に隋誉(ずいよ)が再建した。大正に入り、1923年に再び火災で焼失したが、翌年に再建され現在に至っている。

2.中天満神社


旧中村の産土(うぶすな)神で、祭神は平安後期の著名な学者「学問の神様」として知られている菅原道真である。
 神社周辺には数基の古墳が存在するが、このことからもわかるように、中村は歴史の古い集落で、平安時代に編さんされた「和名抄」には、綴喜郡十郷の一つとしてその名が記されている。
 神社の創記・沿革は明らかではない。社殿に残されている棟札のうち最も古いものは、慶長十一年(一六〇六)であるが、神社の成立は、これより早かったとも考えられる。
 江戸時代には、境内で「雨乞い」も行われ、また、慶応三年(1867年)には「おかげ踊り」が盛大に催されており、拝殿正面にかけられた絵馬には、その様子が生き生きと描かれている。

3.青谷梅林

青谷梅林は起源が明確ではありません。青谷梅林は鎌倉時代に南朝の初代天皇、後醍醐天皇の皇子。宗良(むねよし)親王が和歌「風かよふ 綴喜の里の 梅が香ふ 空にへだつる 中垣ぞなし」と詠んでいることから鎌倉時代末期には既に梅林があったとも言われています。その後江戸時代には淀藩の奨励を受けて大いに植樹され、更に1900年 (明治33年)、「青谷梅林保勝会」が設立されて梅林の保護と宣伝に努めるようになり、景勝地として定着。 また1972年 (昭和47年)には梅が城陽市の木に制定されています。
江戸時代には淀藩の奨励を受けて大いに植樹され、更に1900年 (明治33年)、「青谷梅林保勝会」が設立されて梅林の保護と宣伝に努めるようになり、景勝地として定着。 また1972年 (昭和47年)には梅が城陽市の木に制定されています。
(いきいき健康ウォーク・スタッフさん作成のパンフレットを参考にしました)



ハチが一生懸命……。 



さて、青谷梅林でお弁当タイムとなり、梅林の真っただ中でのおにぎりはいつものよりおいしかった。
いきいきウォークのスタッフさんに「近鉄の『酒蔵みてある記』がちょうど今日、城陽酒造なんでそっちの方へ廻りたいので、この後ぬけますけど、よろしくお願いします」「はい、分かりました、いいですよ」
城陽酒造はJR奈良線の西側、歩いてはる人たち、なんとなく『酒蔵みてある記』参加者の皆さんかなあっとか思いながら、Uさんと「こっちこっち」とか言いながら。

4.城陽酒造に到着




利き酒「純米吟醸無濾過生原酒」
原料米:京都府産五百万石100%
精米歩合:50%
アルコール分:16度
をいただきました。まろやかで美味しかったです。




城陽酒造の庭園はよく手入れされた梅の木々のお花が満開でした。

『城陽酒造の梅酒は、このご当地・青谷梅林の特産である「城州白」という大粒で果肉の厚い香り高い品種の、さらにその中でも粒の大きな特に香り高い、青梅ではなくほどよく熟した梅の実のみにこだわって使用しております』
梅酒を作るために漬けてあった梅を売ってました、買って帰りました、そして酒粕も。予期していたとは言いましても帰りのデイバッグは重たかった。
早速、作りました
梅酒の梅の甘露煮          梅酒の梅のジャム=ヨーグルトにトッピング
 
梅酒の梅の甘露煮:レシピ
梅酒に漬け込んだ梅・・・500g
水・・・・・・500ml
砂糖・・・・・250~300g
1.蓋をして、沸騰まで中火。沸騰したら弱火で30分煮る
2.蓋をしたまま冷ます。熱いうちに蓋をとると、シワシワになります。
3.蓋をしたまま煮ることで、シワシワの梅もある程度ふっくらしてくれます。
4.アルコールはほとんど飛びますが、若干残っている感じです。
ジャムは甘露煮の種を取り出してそのまま潰すと美味しいジャムになりました。パンに塗るというよりも、ヨーグルトのトッピングの方が👍グッド。

城陽市のマンホール

町章を囲むように、市の木「ウメ」と市の花「ハナショウブ」を交互に並べた汚水用マンホール蓋。

行きしなに、下狛駅のホームで見つけた

昇る人が居るんですねぇ
後日、調べましたら。
下狛駅のホームの街灯(水銀灯と思われる)の電柱に「昇柱禁止」という札が貼られているのは、電柱に登って作業することを禁止しているという意味です。電柱には高圧電流が流れているため、安全のためにも昇柱は避けるべきです。また、電柱には他の事業者のケーブルなども共架されている場合があり、それらに影響を与える可能性もあります。
と、調べた結果です。



星のブランコ 2022-11-28

2022-12-20 | いきいき健康ウォーク
 ≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
せいか365プロジェクト いきいき健康ウォーク

コース:JR河内磐船駅・・京阪河内森駅→私市駅・・府民の森・星田園地(交野吊り橋・星のブランコ)・・展望スポット・・昼食・・JR星田駅   歩行:約10Km・1万5千歩

祝園駅で集合、京阪私市駅で下車、駅前でストレッチ(柔軟体操)身体がほぐれますね。


星のブランコ目指してイザ!! てくてく!




日本でも最大級の木床版の吊り橋
1997年(平成9年)になみはや国体の会場の1つとして、ほしだ園地が選ばれ、
クライミングウォールがほしだ園地に登場し、
 
時期を同じくしてこの星のブランコができました。


星のブランコの名前の由来は、大阪府交野市の星にまつわる歴史(七夕伝説空海の八丁三所伝説など)から星がキーワードな街なので、星という名前が付けられて、この吊り橋の名前が「星のブランコ」となりました。
星のブランコは、標高180m、全長280m、最大地上高50mの木床版吊り橋で、人道吊り橋としては全国的にも最大級の大きさを誇り、山と山をつなぐつり橋⇔全国でも珍しいらしい。

高さがおよそ50mもあるので、吊り橋からの景色は絶景。交野の美しい里山の景色が眺望できます。

「気持ち良いな-。京都タワーも見えるんやって」そんな声が聞こえてました。
11月末から12月半ばは紅葉が見ごろ「ハイそうでした」





「星のブランコ」主塔の秘密
「星のブランコ」は完成から25年が経った。主塔は茶色くさびている。?????

「出来た当初からこの色なんです。古くなってさびたわけではありません」『耐候性鋼材』と呼ばれる特殊な材質を使っておりわざと、さびを発生させ、腐食の進行を抑えている。また、塗装の必要がなく、メンテナンスの費用も抑えることができるメリットもあるという。
「星のブランコ」の関係者さん、塩野雅典さん(55)は主塔の秘密を教えてくれた。
また、塩野さんは、国土地理院の地図に「星のブランコ」を示す直線が刻まれたとき、自分へのご褒美だと感じたという。
「自分がかかわったつり橋が地図に載り、こんなうれしいことはない」
2022-12-02朝日新聞朝刊22面 おでかけ関西ちょっとウラ話より。


交野市のマンホール 五つの……
一つ目、交野は古くからさくらの名所であり市の木にも選ばれている「さくら」。
二つ目は市の花に選ばれている交野市城に自生するミツバツツジ、モチツツジ等の「つつじ」。
三つ目は古歌に詠まれるなど、古くから交野にゆかりの深い市の鳥である「きじ」。
四つ目に交野市の中心部を流れる「天野川」。
五つ目に交野市のマークである交野市の「交」の字を図案化し、交野の桜と平和の象徴である鳩を型どっている市章。
これら五つをバランスよく配置したものが現在、交野市内の各所に設置されているデザインマンホールです。


その日はとても良いお天気でした、星のブランコから眺める山々の紅葉も素晴らしく青い空に映えてとてもキレイでした。
ウチに帰って歩数計を見ると、なんと”20243”カウントしてました。
(記事中の説明は一部分、いきいき健康ウォーク・スタッフさん手作りパンフ参考)

古都の世界遺産を巡る(下鴨神社~上賀茂神社) 2022-5-18(水):後編

2022-06-08 | いきいき健康ウォーク

上賀茂神社賀茂別雷神社(上賀茂神社)

竹細工おみくじアート
 

上賀茂神社(上社)の祭神は別雷神(わけいかづちのかみ)で、下鴨神社(下社)に祀られている玉依媛命の子にあたる。神徳は厄を祓い、あらゆる災難を除く厄除明神・落雷除・電気産業の守護神であり、広く信仰されている。
その昔、雷神が神社の北北西の方向にある神山(こうやま)に降臨され、天武天皇6年(678年)に、本殿に鎮座されたと伝えられている。従って、社殿の造営も天武天皇6年とされている。雷神が降臨したのは神代の昔らしい。この話はかつての神話そのものであるが、神社は神を祀っているのであるから、現在でも神話が生きていても不思議なことではないのかもしれない。
上賀茂神社は昔から皇室との関係が深かったようで、天平17年(745年)に天皇の病気治癒祈願が行われたのが関係の始まりとされている。以後、国家の重大時には必ず、奉幣・祈願が行われたという。大同2年(807年)には伊勢神宮に次ぐ地位が与えられたといわれている。神社は中世になって一時衰退したらしいが、徳川幕府の庇護、信心により隆盛し、第二次大戦の終戦までは官幣大社の首位に位置していたという。
「上賀茂神社」の正式名称は「賀茂別雷(かもわけいかづち)神社」であるが、一般には通称名である「上賀茂神社」のほうがよく知られている。



上賀茂神社立砂(たてずな)

上賀茂神社立砂は細殿(拝殿)前にある円錐状の2つの砂の山です。立砂は神代の昔に祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのかみ)が降臨した神体・神山(こうやま)を模したのもで、向かって左に3本(陽)と右に2本(陰)の松葉が差されています。上賀茂神社の神が降臨する場所である.
立砂の意義とは・・・こちら

本殿


紫式部歌碑


紫式部 
ほととぎす声待つほどは片岡の杜のしづくに立ちや濡れまし (新古今191)
  ホトトギス(将来の結婚相手)の声を待っている間は、この片岡社の梢の下に立って、朝露の雫に濡れていましょう。
    ※ホトトギスと共に片岡の社もまた素晴らしいという意味。

上賀茂神社を散策







大田神社へ徒歩で
大田神社:カキツバタ(杜若)
こちら


外側からカキツバタを撮影


「カキツバタとアヤメってよーぉ似てるやんか?どこがちゃうねんやろか?」ッと声がしてました

あやめ(菖蒲)。花びらの中央部分に網目の模様があるのがよくわかりますね。


かきつばた(杜若)。花を見ると、かきつばたの特徴である花びらの中央が白色になっています。

大田神社で解散、徒歩で地下鉄北山へ、地下鉄北山から帰路につきました。
行程歩数18,297歩でした。


古都の世界遺産を巡る(下鴨神社~上賀茂神社) 2022-5-18(水):前編

2022-06-05 | いきいき健康ウォーク

≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
いきいき健康ウォーク=せいか365健康プロジェクト

古都の世界遺産を巡る(下鴨神社~上賀茂神社)
行程:出町柳~下鴨神社~鴨川河川敷~上賀茂神社~上賀茂神社の社家~太田神社~北山駅(解散)約9Km
下鴨神社こちら
賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)。
賀茂御祖神社は、鴨川の下流に位置することから「 下鴨神社 」と呼ばれています。
歴史
京都の社寺でも最も古い部類に入り、社伝では神武天皇の御代に祭神の伝承が見られます。いつごろ社殿が造営されたのかは諸説ありますが、奈良時代以前から幾度も社殿が造替された記録があります。
810年(弘仁1)以降約400年にわたって斎院が置かれ、皇女が賀茂斎王として賀茂社に奉仕しました。
他にも、『源氏物語』や『枕草子』等の王朝文学にしばしば登場する様に、この時代の文化、宗教の中心地の一つとして栄えました。
平安時代末期になると、全国に60余箇所もの荘園、御廚を持って勢力を誇りましたが、鎌倉時代、室町時代、そして戦乱の世になっていくにつれ、各地の荘園も絶えてしまいました。神殿守(殿司)と呼ばれる人々が全国をまわったのはこの頃の事で、賀茂神社を舞台とする能(謡曲)等に、そのころの様子を伺うことができます。
明治初年、全国の神社の代表として官幣大社の首位に置かれる事となりました。

特別保護建造物 摂社 二十二所社


御祭神 鴨氏二十二譜始祖神 例祭 四月十四日
明治十年(一八七七)三月二十一日、摂社七社の内、第六社として制定されたお社です。
社殿は、第二十三回・正徳元年(一七.一)、式年遷宮により造替され、末社雑太社と相殿に
なりました。*相殿(あいどの):主祭神に加えて他の神を合祀・配祀することを言い、それぞれの祭神を祀るための二殿をあわせて作った社殿を指します。
明治四十三年四月八日、特異な様式の社殿により、特別保護建造物に指定されていました。

末社 雑太社(さわたしゃ)




ご祭神 神魂命(かんたまのみこと) 賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
明治10年(1877年)九月十日、社前の馬場にて、御祭神の神魂命(かん「たま」のみこと)は、「球」に通じるとして、糺の森で初のラグビーの練習が第三高等学校と慶應義塾大学生のあいだでおこなわれました。それが契機となり日本ラグビー界の歴史が始まり、今日まで数々の名勝負が展開されてきました。昭和四十四年(1969年)十月五日、その歴史を後世に伝えるため「第一蹴の地」の聖地として記念碑が建立されました。

河合神社





美麗の神様「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」が祀られています。「玉依姫命」は、美の聖地としても知られ、縁結び、安産、育児、学業、長寿などのご利益があるそうです。
河合神社では、家庭でもよく使われている手鏡の形をした「鏡絵馬」を奉納します。
その際「鏡絵馬」には、自分の化粧道具(メイク道具)を使って顔の絵を描きます。裏面には願いを書いて奉納、美麗祈願をします。
自分の化粧道具で描くというのもオモシロイですね。
お化粧をお持ちでない方は、色鉛筆を借りて「鏡絵馬」の奉納ができますので、ご安心ください♪

言社(ことしゃ) 重要文化財



言社は大國さんと親しく呼ばれている。大國さんとは、大国主命の略称で、正式社名は言社であり七つのお社がある。
祭神の大国主命が持つ7つの名前をそれぞれ十二支の
守り神として祭る。
自分の干支に参拝するとご利益あるらしい

相生社


京都にある世界遺産・下鴨神社。その楼門の手前にある小さな社「相生社」は縁結びのパワースポットとして注目を集めています。
ご祭神は宇宙の生成力を神格化したといわれる「産霊神(むすびのかみ)」で、古代から縁結びの神様として知られています。ちなみにめでたいことを相生というのはここから始まったといわれているそうです。実にこじんまりとしたお社なのですが、常に参拝者が絶えない縁結びの人気スポットなのです。

水みくじ 御手洗川



下鴨神社の人気のおみくじは、授与所で「水みくじ」を引いて、隣を流れる御手洗川(みたらしかわ)に「水みくじ」を浸すものです。
しばらくすると文字が浮かび上がってきます。

下鴨神社から鴨川河川敷でお弁当タイム。


食後、上賀茂神社へ・・・後編へ続く⇒こちら

里山の風さんよりのコメントを紹介させていただきます。

鎮守の森と小川に守られた下鴨神社(W2-60) (里山の風)2022-06-21 16:43:18
世界遺産の下鴨神社には、ホットスポットや「七不思議」と言われる見どころが沢山あります。最近の朝日新聞(6月15日京都版)には神の食事を冷やした「氷室」(ひむろ)再興の記事がありました。
相生神社の「連理の賢木」(れんりのかたぎ)、河合神社の「鏡絵馬」、言社(ことしゃ)の干支参りなどに人気があり、沢山の方の願いに、ご利益があるとよいのですが!!!
私も年に2回程度、参拝しますが、特に「糺の森」(ただすのもり)は必ず散策します。この森は原生林の植生が残っているとして調査も実施されています。
古くは100ヘクタール以上の大面積があり、応仁の乱では殆どが消失したそうです。それでも、現在は12ヘクタール程度あるとのこと。
古神道では神が鎮座する森のことを「鎮守の森」とされています。まさに、糺すの森は「鎮守の森」です、この森には小川もあり、伊勢神宮の参道のように、なにかすがすがしい気分と、自然のオーラを感じます。
境内には4つの小川があるそうで、そのうちの一つが御手洗川でその池の地底から湧き出す泡玉の様子を団子にみたてたのが「みたらし団子」の呼び名(発祥の地)です。
奈良時代以前から、この森と小川に育まれてきたのが下鴨神社(賀茂御祖神社)「かもみおやじんじゃ)です。しかし平成27年4月に第34回式年遷宮をすませたが、コロナ禍などで、相当な財政難があり、法隆寺のクラウドファンディングのような取り組みがあるのではと思っています。 その時は、ささやかな寄付をいたしましょうか!!
ここで、私のエピソードを紹介しましょう!!、それは今から4~5年前の5月の連休日のことです、参拝を終え、賀茂川と高野川の合流点の近くで、弁当を食べていた時に、突然、鳥(トビ)が飛んできて、弁当の揚げ物を取られそうになり、ビックリしたことがありました。よくみると、上空に数羽のトビが旋回しているではありませんか。これもご利益の一つでしょうか!!