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由美村 嬉々 文
松本 春野 絵
ある朝。
「おはようございます」
小さなかわいい声がきこえてきました。
「バスが来ましたよ」
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ここは、みかんや梅がおいしい、ある南の町。
わたしは、目が見えません。
若いときに目の病気になってしまったのです。
だんだんと目が見えなくなっていき、
10年後には、まったく見えなくなってしまいました。
それでも、仕事をつづける決心をしました。
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2年間は、家族につきそってもらって
仕事場である市役所に通い、
そのあと1年、仕事をやすんで、白杖をもって歩く練習をしました。
なにも見えないなか、杖で前をたしかめながら、一歩ずつ一歩ずつ、すすみます。
そしてこの日から、ひとりでバスにのり、通うことにしたのです。
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ある暑い夏の日の朝、月曜日。
「もう、ひとりで歩ける、だいじょうぶ」と自分をはげましながら、
わたしはバス停に立っていました。
バスにのって、5つさきの「市役所前」までいく、たったそれだけのことです。
でも、バスが来たことがわかるのか、ひとりで、のりおりできるのか……。
ほんとうは不安でいっぱいでした。
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ようやくバスにのりこんだときには、ひやあせをかいていました。
それから毎朝、バス停に立ってバスをまちましたが、
集中して耳をすましていないと、バスが来たことに気づかずに、
のりそびれてしまったこともありました。
バスにのってからも、ずっと右手で白杖を、左手でつりかわをにぎりしめていました。
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そんなある朝。
「おはようございます」 小さなかわいい声がきこえてきました。
「バスが来ましたよ」
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わたしのこしのあたりに、小さな手がそえられたのが、わかりました。
「えっ……」
白杖をにぎりしめていたわたしの手が、ふわっとゆるみました。
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声の女の子は、「ここが、かいだんですよ」といい、バスの入り口のほうに、
わたしをおしあげてくれたのです。
わたしがぶじにバスにのりこむと、女の子はさらに、
「席、ゆずっていただけませんか?」
と、すわってる人に声をかけました。
「いいですか?」とだれかれともなくいうと、
「どうぞ」と声がかえってきて、わたしは席にすわることができました。
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「どこまでいくの?」わたしがきくと、「和歌山小学校」女の子がこたえました。
「何年生?」「3年生です」
どうやら、わたしのおりるバス停とおなじ「市役所前」でおりる子どものようです。
小学校はおりて右、市役所は左にあります。
「わたしは『市役所前』でおります。ほんとうに、ごしんせつにありがとう」
バスのなかは、心なしかしずかです。
わたしは、じぶんのおりるバス停をまちがえないよう、
ひとつめ、ふたつめ……と、心のなかでかぞえていました。
「つぎは市役所前~、市役所前~。
おおりのかたは、おちかくのボタンをおしてください」アナウンスがはいります。
わたしが降車ボタンをおそうとさがしていると、
女の子が「おります」といって、かわりにおしてくれました。
そして、こんどは出口まであんないし、あんぜんにおろしてくれたのです。
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ぶじにバスからおりて、
「あなたは、右だね。どうもありがとう」というと、
「いえ、横断歩道までおくります」そういって、
彼女はまた、わたしのこしに小さな手をあてて、
小学校とはぎゃくの市役所前の横断歩道まで、いっしょに歩いてくれたのでした。
「さよなら、おじさん」
「さよなら、いってらっしゃい。車に気をつけてね。ありがとう」
声のするほうに、わたしはふかぶかとあたまをさげました。
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つぎの日の朝、バス停にならんでいると、昨日とおなじかわいい声がしました。
「おはようございます」「ああ、昨日のおじょうさんだね」「バスが来ましたよ」
女の子の名前は、さきちゃんといいました。
彼女は昨日とおなじように、わたしのこしに小さな手をあてて、
やさしくバスにのるてつだいをしてくれました。
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そしていつのまにか、バスが来たことをしらせ、
いっしょにのりおりしてくれることが、あたりまえのようになり、
来る日も来る日も、それはつづいたのです。
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やがて、季節は冬になり、また春が来て、夏が来て、
おだやかに月日がながれていきました。
「おはよう」「さむいね」「あついね」「げんき?」などと、
わたしたちは毎日、ことばをかわしました。
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ある秋の日、今日はだれの声もきこえません。
バスが来た音がして、ひとりでバスにのりこむと、
さきちゃんのことが心配になってきました。
「今日は、どうしたのだろう。ねつでも出してしまったのかな?」
さきちゃんとひとこと、ことばをかわすのが、
いつのまにか、朝のたのしみになっていたことに気づきました。
バスをおりると、市役所にいくまでの道で、
キンモクセイのいいかおりがして、おもわずかおをあげていました。
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翌日、
げんきなさきちゃんの声がきこえたときは、ほっとしました。
それからも、
バスののりおりをやさしくてつだってくれる日々が、つづきました。
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月日はめぐり、
日ざしがあたたかく感じられる4月になりました。
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いつものように「バスが来ましたよ」の声。
あれ?声がちがう、と気がつきました。
「あなたは、さきちゃん?」
「いいえ、わたしは、みなです。おねえちゃんは、卒業しておとなりの中学校にいきました。
これからは、わたしがあんないしますね」
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それからというもの、わたしをたすけてくれることが、
いろいろな子たちにリレーされていきました。
「わたしたち3姉妹なの。わたしは3ばんめの、ゆあです」
「わたしは、ゆあちゃんの友だちの、かれんです」
「ぼくはともだちの、ゆうたです」
「えーっと、たくまといいます」
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さきちゃんからはじまった「バスが来ましたよ」は、
さきちゃんのすがたを見ていたまわりの子たちへ、うけつがれていきました。
わたしは、横断歩道までおくってくれる、子どもたちにむかって、
いつも大きく手をふっていました。
「ありがとう。いい一日でありますように」
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10年以上もの間、毎日つづけてくれた、小さな手のぬくもりのリレー。
今年、おかげで60さい。わたしは、仕事の定年をむかえます。
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だれかにおそわるのではなく、はじまったしんせつ。
それを見ていたまわりの子どもたちが、なにもいわないのに、うけついでいってくれた。
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わたしの心のなかにある、
いろいろな子どもたちの「バスが来ましたよ」の声。
これからも子どもたちのなかで、ぬくもりがリレーされていきますように……。
あとがき
1月下旬、ある記事に目を留めました。
それは、「網膜色素変性症」という難病におかされて目が見えなくなってしまったあとも、地元の小学生に10年以上もサポートされ、ついに定年を迎える直前まで働き続けることができたという、ある男性についての記事でした。
この実話は、彼自身が「あたたかな小さい手のリレー」と題して書き、懸賞作文「小さな助け合いの物語賞」に応募し、「しんくみ大賞」を受賞しました。
6月下旬、わたしはその男性、山﨑浩敬さんを取材するため、和歌山をたずねました。みかんや梅の生産で有名な、一年じゅうあたたかい気候の和歌山の町。彼が通勤に利用していたバスにも乗ってみました。
温かくむかえ入れてくださった山﨑さん、和歌山大学教育学部付属小学校の先生方、信用組合のみなさまや、この話題をキャッチし、世に出してくれた読売新聞の記者・太田魁人さん、根気強く取材を続けてくれたNHKの記者・植田大介さんにも心から御礼を申し上げます。
また、コロナ禍にもかかわらず、この絵本の絵を描くために、取材に同行し、本書の世界観を共有してくださった松本春野さんとの出会いも幸せでした。
あらゆる人の思いをのせた『バスが来ましたよ』。
善意のバトンが日本全国、そのまた海の向こうに渡っていきますように……。
2022年 夏
由美村嬉々(木村美幸)