漂流6日目を迎えていた。沖縄から乗った疎開船・対馬丸が米軍の攻撃で沈み、9歳の平良啓子さんはいかだの上にいた。10人ほどいた大人たちも、次々と力尽きていく。渇きと絶望。80年前のきょうである▼船は、学童や一般人1700人超を乗せて長崎へ向かっていた。生き残ったのは300人ほど。平良さんは7日目に、ようやく島へ漂着して命をとりとめた▼沖縄戦を前に、軍や政府が疎開を促したのはなぜか。本土の防波堤たる島に民間人がいたら思い切ったいくさができぬ、というのが理由の一つだった。それでは、当時の「疎開」と、いま台湾有事を念頭に計画されている「避難」はどう違うのか▼そんな声が今月初め、石垣島での住民避難の説明会であったと地元紙が報じていた。発言したのは79歳の女性。有事になれば宮古・石垣などの12万人はみな、九州・山口に移らされる。つまりは強制疎開ではないか、と女性の目には映るのだろう▼家を捨て、畑を捨て、墓を捨てる。ふるさとは戦場となり、戻れても元の風景はないかもしれない。かつて味わったような想定をまた突きつけられ、頭を抱える人がいる。そのことに心が痛む▼避難計画が無用だと言いたいのではない。だが政治家にまず求めたいのは、何としても戦争は起こさぬという決意である。肝心なところが最近揺らいではいないか。平良さんは88歳で亡くなるまで、疎開の記憶を語り続けた。避難の記憶を新たに語る。そんな未来を作ってはならない。朝日新聞朝刊2024-8-27
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私はそのアナザーストーリーを調べたのですが、開戦時から日本軍の暗号は米軍に解読されていて、対馬丸は8月16日に上海を出航し、沖縄の那覇軍港では、他の2隻の貨物兼疎開船と護衛の船2隻を伴って8月19日出港した・・・その全ては米軍の暗号解読でその行動は把握されていました・・・山本長官のラバウル基地からの偵察出撃、戦艦大和の広島呉港からの特攻出撃などは全て当時の米軍に把握されていて、日本軍(政府を含む)がそれを戦後まで知らなかった事実があった・・・
もう一つの事実は当時の軍部や政府は対馬丸事件のことは国民に知らせていないばかりか、その生存者にも口外するなと強く命令されていたのである。
戦後にこの事件は図書やアニメ映画(1982年上映)などで広く知ることになったのである。
沖縄県出身の国会議員の強い要望により、死亡した学童には勲章が、その遺族には軍人恩給(年36万円)が支給されたことについては、国民の多くは知らないのである。
話は変わりますが、戦時下の青函連絡船が軍部の強制出港の命令により、合計12隻の青函連絡船が米軍の攻撃により沈没し、多くの乗船した民間人が犠牲になっているのである。また、終戦直後の8月24日には舞鶴湾で「浮島丸」が湾内の機雷により沈没し、乗組員25名を含む549名の朝鮮の人々などが犠牲となっているのである。
この平和な日本が、これらの犠牲の上に生存しているとなると・・・合掌する気分しかないのである・・・