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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡男子校・女子校時代の思い出

2020年12月23日 | 城見小・他校
「笠岡小学校百年誌」 笠岡小学校編 昭和48年発行





笠岡町男子国民学校の思い出


〇スパルタ教育の一語につきる。

〇昭和4年ごろから毎月はじめに笠神社へ行くようになった。途中から毎月8日に変わった。

〇昭和18年頃海洋少年団ができた。その後、航空少年団ができた。

〇学級編成は忠・孝・敬の3組だった。1学年140~150人くらいで、6年になると進学組と高等科に分かれ2クラスだった。
進学組は成績順に後ろから並んだ。

〇遊び場所は、仁王堂は遍照寺、スサキ通りは智光寺というようにお寺や神社が多かった。

〇にくだん、陣取り、馬飛び、けり馬、たけ馬、パッチン。夏はだいたい海で、東と西の波止場の間が泳げないと一年前ではなかった。

〇笠神社の祭りと正月が小遣い10銭、大仙様の縁日は5銭。








笠岡町女子国民学校の思い出

●印象に残る楠公母子銅像

校門を入ると楠公母子銅像がありました。
なにかあると、その前に全校生徒が並んでお話を聞いたものです。





●ちしゃの木
昔の本館の玄関右にあり、
岡山の後楽園にある木だと言われていました。

●六甲国民学校の児童
昭和18年9月、六甲国民学校の5.6年生が疎開してきました。
玄忠寺や遍照寺などに泊まっていました。
学校から帰ると、よくいっしょに遊んでいました。

●空襲警報
5.6年生を先頭に、畑の中に伏せたり、商業の山に登ったり、墓の中に伏せたり。
陣屋のどぶ川にはいって伏せていた時、すぐ頭の上をB29が通ったこともありました。


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昭和の笠岡男子校・女子校

2020年12月22日 | 城見小・他校
 「笠岡小学校百年誌」 笠岡小学校編 昭和48年発行


(大正5年男女両校御真影奉戴、県庁通りにて。左男子校児童、右女子校児童)




(大正末の笠岡)



(女子尋常高等小学校、町立笠岡女学校も校内にあった)




・・・・・

昭和2年5.21 アメリカ人形展覧会開催(女子校)


・・・・・

昭和3年11.10 今上天皇即位の大典、全児童旗行列(男女両校)



・・・・・

昭和4年10.2 遷宮遥拝式挙行(外宮建てかえ)


・・・・・

昭和5年10.20 御真影奉安殿竣工(男女両校)


・・・・・

昭和6年1.13 御真影返還(男女両校)
    1.21 御真影奉戴し奉拝式挙行(男女両校)
    3.30 国旗掲揚台竣工(男子校)女子校は4.1竣工


・・・・・

昭和7年 2.9 二宮尊徳翁幼時銅像建立(男子校)
    9.18 満州事変一周年記念旗行列(女子校)



・・・・・

昭和12年4月29日 大楠公銅像 男子校正面玄関脇に建立





・・・・・


昭和15年2.11 学校神社建立(男子校)
   10.7 楠公母子銅像除幕式(女子校) 





・・・・・

昭和17年1.30 二宮尊徳銅像供出(男子校)
    2.13 二宮尊徳陶像建立(男子校)
    2.18 シンガポール島陥落、祝賀式ののち、旗行列


・・・・・

昭和18年8.27 大楠公銅像供出(男子校)
    11.25 楠公母子銅像除魂式、楠公母子陶像入魂式を挙行(女子校)







・・・・・

昭和19年11.27 動員学徒の壮行式(女子校)



・・・・・

昭和20年.1.23 鍛錬遠足を兼ねた、どんぐり蒐集を行う(女子校)
   2.28 6年の疎開児童のための送別式を挙行(女子校)
昭和20年4月3日 6年生の代表児童、高島宮参拝(この年をもって終わる)
    4月15日 井戸公例祭参拝(この年をもって終わる)
    6月15時 学徒出動(女子校高等科2年)
    6月28日 学徒出動(男子校高等科2年)大塚工場へ入所式 8月27日退所式
    7月23日 学徒出動 報国鉄工所 女子高高等科1年
    8月16日 児童を臨時招集し、戦争終結について校長訓話



・・・・・




昭和21年
1月11日 御真影を地方事務所へ奉還
    8月27日 連合軍司令部の指令により、奉安殿・学校神社撤去
    12月5日 連合軍司令部教育係大尉2名が本校を巡視し、事務室の検査、校舎の巡視、学校長、児童、教員に質問を行う



・・・・・


昭和22年10月1日

笠岡男・女校が西小・東小による男女共学
全児童が運動場に出て、各クラスとも東小から西小、西小から東小へ行く児童、そのまま残る児童と二列に並び、
行進曲でいっせいに別れていった。

本日をもって実質男女共学となった。
どちらもライバル意識を持ち勉強、遊びに対抗意識が強かった。
しだいに学校全体の空気が和らいできた。


・・・・・

昭和33年頃 笠岡東小学校




昭和42年頃 笠岡東小・西小










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奉安殿(笠岡商・笠岡高女・笠岡男女校・大井校)

2020年12月20日 | 城見小・他校
奉安殿(ほうあんでん)も二宮金次郎像も、昭和10年頃から20年頃まで、どの学校にもあったが、
ほぼ10年で消えた。


金次郎像は奉公に出されて溶かされた。その2~3年後、奉安殿はGHQの指令で解体除去された。



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笠岡商業創立90周年記念誌」  平成3年発行



御真影に向かって











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「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行

笠岡高等女学校




奉安殿 (昭和4年3月落成)





奉安殿落成式

昭和4年3月25日第15回卒業式の当日午前9時から、
奉安殿の落成式が挙げられました。
一同殿前に集合、祝詞を奏し、次に校長が恭しく御影を奉遷せられ、
職員総代生徒総代工事請負人の順に玉串を献ぜられました。
最後に本工事功労者、森岡氏の表彰があって厳粛裡にその式を終りました。

因みにこの奉安殿は御登極記念事業として、本校職員生徒全部の寄附になるもので、
石川本県技師の設計になり、様式は住吉造、屋根は銅葺、鉄筋コンクリートの永久的建築でありまして、
場所は玄関の西側、その後周囲に10幾本の松樹が植付られたので、
緑の枝の中に千木高く聳え、宮柱太しきたちにて、自ら頭の下がる神々しさでございます。
(千鳥18号)








桜道を登り、いくつかの石段をあがると、左に奉安殿がありました。
奉安殿を通るときは、皆必ず最敬礼をしたもので、
袴をはいた女の先生の最敬礼の独特なスタイルが、今も目に浮かびます。
(M子 昭和6年卒)









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「笠岡小学校百年誌」 笠岡小学校編 昭和48年発行

笠岡男子校
笠岡女子校




学校神社建立(男子校) (昭15.2.11)







奉安殿前に整列する女子国民学校児童




昭和21.8.27 連合軍司令部の指令により、奉安殿・学校神社撤去




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大井小学校誌」 大井小学校 山陽印刷 昭和52年発行


昭和10年 御真影奉安殿を三好佐太郎氏寄付により建築す
昭和11年 御真影奉遷(昭11.3.4)



奉安殿(昭和10年落成)

天皇・皇后陛下の御真影を安置申し上げた。
校門を出入りする時、必ず奉安殿に向かって最敬礼をした




 
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昭和の学校史⑤大井小学校その2

2020年12月20日 | 城見小・他校
「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)

【座談会】

明治生まれ


・学校は、本校が宗岡、分教場が小平井住山と西大戸に分かれていた。
現在の地には大正4年9月に移転した。
・読み書きそろばんが主で、理科や図工は5年生から、唱歌は君が代を歌った程度。
・服装は、着物・帯・前だれ・そうり履き、冬は袖なしを着ていた。
・勉強道具は風呂敷に包んで腰にくくっていた。
・パンツをはいている子が少なかった。
”ひざを曲げ””足を上げ”の号令の時にはまる見えになっていた。
・石筆で石板に書いて習った。
・勉強は真田くみや牛飼いが終わらなければしてはならなかった。
・明治41年に学生改革があり、4年で卒業して、また6年で卒業式をしてもらった。
・尋常高等小学校は、大井になかったので東大戸と小平井は笠岡へ、西大戸は金浦へ行かされた。


・遊びは、ぶちごま、たこ、竹馬、なわとび、陣取り、お宮で木に縄をかけてブランコ。
・おはじき、お手玉、チリンコ、けまり。



(「明治から大正初期の服装」全員和服、最前列はべべちゃんこ、右側の女先生は横を向いている、頭は束髪)






大正生まれ

・大井は陸上競技が優秀で、他校との合同運動会では優勝旗を8本も持って帰ったことがある。
・女子は5年まで着物、6年から白黒の縞のスカートをはくようになった。
・授業の始まりと終わりは高等2年の生徒が太鼓を叩いて知らせていた。
・体操の時間には道上池で水泳訓練をした。

・遊びは、ケンケン相撲、背とび、リームころがし、ブリキごま
・まりつき、お手玉、チリンコ




(「高等科生徒」、大井小には大正5年4月高等科ができ、大井高等尋常小学校と改称した)



(「昭和初期・尋常科生徒」)





昭和初期生まれ

・「ハナハト」から「サイタサイタ」に変わった。
・1クラス72~73人の大学級だった。しかし男子と女子が並ぶことはなかった。
・満州の兵隊さんにウサギの皮を送るというので授業そっちのけで、学校の裏山でウサギを追い回した。
・紀元2600年の記念式典があって、旗行列や運動会をよくした。

・遊びは、ラムネ玉、釘立て、パッチン、竹とんぼ、コマ。

  


昭和中期生まれ

・開墾開墾で、小平井の分教場跡、六道、門田、鳴淵などへ鍬をかついでよくいった。
畑には芋やとうきびを植えて、学校でふかしたり、焼いて食べていた。
・運動場は大半が芋畑で、勉強も運動もなかった。炭焼きをして学校で使っていた。

・遊ぶことは少なかった。
・学校から帰れば、牛飼い、さなだ組み、子守、トラックや魚売りの押し子(才の神の坂を押してお金をもらう)
・出征兵士を吉浜まで送りに行った。大井出身の兵士は大井村駅まで旗をもってみんなで送ったものだ。




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昭和の学校史⑤大井小学校

2020年12月20日 | 城見小・他校
「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)
より転記する。


(講堂)

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大正5年・高等科を併置し、大井尋常高等学校と改称す
大正9年・今上天皇・皇后陛下御真影を奉戴す
昭和8年・講堂起工・落成
昭和10年・御真影奉安殿を三好氏寄付により建築す
昭和11年・御真影奉還
昭和16年・大井国民学校
昭和20年・初等科2個学級増加
昭和22年・高等科廃止、大井小学校
昭和23年・1学級増加12学級
昭和46年・新校舎落成


・・・・・



旧職員の思い出
「終戦前後の思い出」 笠岡市吉浜 K男(昭和52年80歳)

昭和18年4月大東亜戦争の真最中、新山校から大井校へ転任、それから昭和24年まで6ヶ年勤務しました。
その間、多数の戦士を村人とともに戦場へ送りだしました。
当時の村長、助役、収入役、農協の組合長さん等の緊張された顔が浮かんで参ります。

戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、
蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び汗を流しての国の方針に尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。

昭和20年8月15日正午、あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止めどもなく涙が流れ、職員室で何時間も机にかじりつき悲しく動けなかった事が思い出されています。

戦後はマッカサーの指令とかで、大切に使用していた掛図や図書は一纏めいして提出、どう処理されたかは不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし極度の動揺を来たしました。

尚、在任中青年学校が吉田校へ組合立で参加したこと、戦後六・三制の実施に当たっては西中に通うようになったこと、
PTAを初めて作り多数の参加を戴いたことは大きな出来事でした。



・・・・・

卒業生の思い出
「小平井分教場のこども」 M男・大正4年度卒業

大井小学校小平井分教場に入学したのは明治44年4月、ところは住山の公会堂のあたり。
現在の道路を挟んだ南の部分が運動場。

運動場の北が一段高くなって校舎。
校舎といっても上手水のついた農家の母屋と長屋で、ガラスの入った障子は一枚もない。

先生は3人、複式学級編成だ。
朝学校へ行く。
当番は七輪に火をおこし、薬缶をかけてお湯を沸かす。
近くの川のほとりの野井戸からバケツに水を汲んで、2人でさげて帰る。
それが使い水であり、飲み水でもある。
その頃、先生が見える。
岩倉から自転車のG先生、今立のY先生、園井のN先生。

服装は木綿の筒袖の着物。
冬は羽織を着る。明治45年頃からさるまたをはいた。
帽子は学生帽、祝祭日には小倉の袴をはいた。
女のことはよくは知らないがずーとノーパンだったろう。

大正4年9月、現在の位置に木造2階建て外部ペンキ塗りの、その当時としては一級の校舎ができあがった。
その時、自分は6年生だったのでその校舎の第一回卒業生ということになる。
その2年か3年前に、井笠鉄道が開通した。


・・・・・


「小学校時代の思い出」 M男(大正11年度卒業)

私は新校舎ができて第一回の入学生として70余名の学友と入学した。
担任のY先生は今井村より来られて、左ぎっちょの拳骨はかなり印象深かった。

家に帰ると殆んどの者は麦稈真田を編むか,或いは弟妹の子守をするのが日課で、家計の一翼を担っていた。
遊び道具も工夫して、コマ・飛行機・竹とんぼ・竹馬等を作って遊んでいた。

電灯が灯るようになったのは、大正6.7年頃だったと記憶している。


・・・・・


「思い出の記」 M男(昭和11年度卒業)

私たちが入学したのは昭和6年4月、高等科が2年それに補習科や青年学校が併設されて先生もすいぶん多数おられたようです。

その頃、満州事変が勃発----金浦の吉浜、山陽線わきに「大井小学校」の横断幕をたてて出征兵士を見送りに行きました。
列車が通過したたと、田んぼの中に兵隊さんが汽車の窓から投げていった名刺やキャラメル、乾パンをひろい家族の人に届けるのも小学生の任務だったようです。


・・・・・

「雑感」 F男(昭和13年度卒業)


昭和12年7月に始まった支那事変で大井の村もたいへんであった。
村の男たちがつぎつぎと招集で郷里をあとにされた。
赤いタスキと日の丸の小旗は井笠鉄道の大井村駅までつづいた。

一段高いところに立つ出征兵士、見上げて激励の言葉をのべる村長。そして万歳、満開の桜で送ったこともある。
こうした戦時下の6年間であり、勉強のことはあまり記憶にないが課外活動の思い出は鮮烈である。

冬から春に移る季節に、高学年お子供がめいめいに作ってきた割った青竹を手に手に、ウサギのひそんでいそうな山に向けて出陣する。
山のふもとに一線に横一列に展開し、若い先生の合図で、割竹を鳴らして大声をあげ、上へ上へとよじのぼってゆく。
「デタッ」という声がかかった時は、急に勢いずいてスピードが増してくる。
ウサギは脱兎のごとくかける。
山頂には高さ1mくらいの網を横に長くはられており、それにウサギは飛び込む。

もち帰った獲物は、皮をはがれ戸板にピンと張られて乾かされる。
毛皮は兵隊の防寒服の裏に使われる。
肉は蛋白源の補給として、まさに一石三鳥の役目を果たす。


・・・・・

「思い出」 F男(昭和20年度卒業)

私たちの入学は昭和15年4月で、この年から学校の名前も「国民学校」と呼ばれるようになりました。
4年生の頃には、戦争も激しくなり、授業は午前中くらいでした。
また土地におられる若いお父さんお兄さん(当時16才くらい)達が毎日のように戦争に狩りだされて行き、
その軍人さんたちを大井村の駅まで国防婦人の皆様と見送りに行くのが毎日のようにあったと思います。

全校生徒で先生に連れられて、お宮に参っていました。
毎月8日は、きまってました。

5年生のころは戦況も悪化して、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生と六道の山へ開墾に行き、戦争に勝つため食糧増産にと切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしました。
運動場も大半は耕して、もちろん遊ぶことも運動会もありませんんでした。

6年生の時は、戦況は最悪になり、本土決戦を叫ぶ声も強まって、初等科以外は授業を1年停止。
中学生・高等科の生徒は学徒動員で兵器を作る工場へ連れていかれました。

今思うと、戦争で始まり、戦争で終わった小学時代で、楽しい思い出がありません。
先般百年誌を作るに当たり、年代順に卒業写真を探してみたら私たちだけの卒業写真がありません。しかし71名全員健在でおられることは、何よりの喜びです。


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あこがれの「笠岡女学校」

2020年12月19日 | 江戸~明治
あこがれの「笠岡女学校」


管理人の祖母は4人姉妹の次女だった。
長女が家を出たので、次女である祖母が養子をもらって家を継いだ。
なぜ長女が家を出たのか、数年前におばの話しで知った。
以下はおばの話。


「長女は笠岡に女学校ができるというので、そこへ行きたかった。
どうしても行きたかったが親が許さなかった。

そしたら吉浜の(子供がいない)分限者から、「うちへ養女に来るなら、女学校へいかしちゃる」という話があった。
長女は自分から進んで養女になった。
そして出来たばかりの笠岡女学校へ入学した。
女学校の第二回卒業生だった。」



下記は笠岡女学校の創立当時こと。
勉学に燃える女性で、かつ裕福な家庭の子が入学したのであろう。


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「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行



(第二回卒業生・明治38年 「笠岡高校70年史」)


明治32年(1899)高等女学校・実業学校令が公布され、教育機関開設の要望は高まってきた。
明治33年(1900)岡山に県立の高等女学校が設けられた。
笠岡女学校はこのような背景のもとに創立されたのである。

こうして明治35年(1902)この地に町立の女学校が創立され、同時に町立の商業学校が設立された。
修業年限・定員を本科4ヶ年160名、技芸3ヶ年60名として開校された。
明治37年3月に第一回卒業生12名を送り出した。

明治40年、小学校令が改正され尋常小学校の修業年限が4年から6年になった。
同年以降入学志願者が増えた。女子教育の関心が高まり、
笠岡女学校は明治末期になっていよいよ充実発展の過程をたどるようになった。


(職員・生徒 明治40年 「笠岡高校70年史」)






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対華二十一ヵ条要求

2020年12月19日 | 大正
「日本近現代史講義」 山内昌之・細谷雄一著 中公新書 2019年発行




対華二十一ヵ条要求


要求の起源
二十一ヵ条要求は、かなり広範にわたるもので、日本の中国権益を一挙に拡大しようとするものであった。

なぜ日本政府は、このように弾圧的な要求を突如提出したのであろうか。
1905年、ポーツマス条約でロシアが満州に持っていた権益(遼東半島の租借権、南満州鉄道の経営権など)を獲得し、大陸国家となった。
朝鮮半島と地続きの「特殊な関係」を持つ土地として、また日本の商工業進出や移民開拓のための土地として観念されるようになった。
1905年、北京条約で南満州の鉄道や鉱山、炭鉱の権益を拡大していった。
その結果、満州の在留邦人は日露戦前の4.000人から1910年には76.000人を超えるまでに膨れ上がった。

「10万の英霊、20憶の国ど(国の財産)」を代償に勝ち取った地としてみなされた。
1910年日本が韓国を併合。
欧米や中国では、日本が満州を「第二の朝鮮」にの懸念がしばしば表明されるようになった。

日本が獲得した中国大陸の権益は、不安定なものであった。
実は満州権益の返還期限は、遼東半島1923年、南満州鉄道は1939年に設定されていた。
日露戦争後、租借権延長は外交課題として意識されていた。

1911年辛亥革命が勃発。翌年「中華民国」が成立。
中国ではナショナリズムが高まり、列強の持つ中国権益を回収すべきだとする意見が取りざたされるようになった。
日本国内では危機感が高まった。


第一次世界大戦

満州権益の租借権延長は日本に一方的に有利で、中国にとってはメリットが全くなかった。
認めさせるのは大変困難であった。
何らかの「取引材料」が必要であった。
それを突如日本に提供したのが第一次世界大戦であった。

加藤高明外相の強力なリーダーシップのもとで、日英同盟を理由として連合国側にたって参戦した。
ドイツが持っていた南洋諸島を陥落させ、山東半島の租借地を占領した。
これによって戦後にドイツ権益の継承の発言権を獲得した。
加藤の主目的は、
山東半島の返還を取引材料として、中国からより大きな利益を得ることにあった。
”好意”を中国側に示すことによって、満州問題を解決しようとして出されたのが
二十一ヵ条要求だったのである。

外交交渉は、非常に紛糾した。

日中間の問題を網羅した感があり、過大な要求を中国に突き付けたのが根本原因である。
中国では、日本の参戦前から山東半島権益の返還を当然視する世論が盛り上がっていた。
袁世凱政権は情報を国内外に巧みにリークした。

主要部分を中国に認めさせ、初期の目的をかろうじて達成したが、
中国側の激しい反日運動を招き、
欧米の対日不信感情を増すという大きな代償も払うことになった。


中国の対日イメージは一気に悪化した

中国には、英・仏・露も多くの権益を持っていたが、二十一ヵ条要求の提出によって
日本が新国家建設を妨げる「単独敵」として浮上することになった。
その後の日中対立の原点になった。
袁世凱は日本の圧力に屈した「漢奸」(売国奴)とされ、評価は極めて低い。

二十一ヵ条要求は、短期的には利益を得たが
中国人から信頼を失うという大きな代償を払うことになった。
日中の友好や提携の可能性を狭めたと言わざるを得ない。


二十一ヵ条要求はなぜ転換点なのか

日露戦争後の日本の中国に対する優位意識、
一等国になったという意識、
日英同盟に拘束されない対中政策の展開、といった
日本の対中観、姿勢が表れた。
列強に事前通告もなかった。
中国では以後、「親日」はタブーとなった。

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笠岡高校時代(昭和39年~昭和49年)

2020年12月18日 | 昭和41年~50年
「岡山朝日研究紀要」 岡山県立岡山朝日高校  平成12年発行

校長・巻頭言
笠岡高校時代(昭和39年~昭和49年)

昭和37年に教職の道に入り、邑久高校牛窓校舎に2年勤務。
昭和39年から笠岡高校。
赴任当時は地元の評価も低く、あの地区で行われていた備西テストでは常に金光学園がトップでそれに井原高校、矢掛高校が続きいつも最下位は笠岡高校の定番であった。
合同採点を行うため、くやしくてくやしくて、いつもその場を一刻も早く逃げ出したい衝動にかられた。
しかし、このテストは輪番で出題することとなっており、校内で総力を上げて問題検討を行うため、大いに勉強になったような気がする。
問題の品位に至るまで先輩に指摘され、まけじ魂に火をつけてくれた。
授業を工夫する日々を送り、数学教員としてのある程度の自信ももてたと思う。

担任指導では、最初はたよりないと思われたのか副担任とされ、少し不満もあった。
2年目から正担任となった。
クラスの数も多くいろいろな制約があり、窮屈なものもあった。
不登校の生徒に、かかわり方がわからず本を読んで頑張ったが、頑張るほど悪い方向にいき、ゆとりをもって考えるまでには、かなりの時間がかかったようだ。

笠岡高校では前半は教務課の時間割り係と管理係、後半は進路指導を担当した。
管理係は用品の管理で、もっとも苦痛なことは定期的に輪転機の掃除をすることで、手が真っ黒になり数日は痕跡がのこった。
最後の学年まで進路担当をしたときは定員205名中120名が公国立大学に進学し、祝杯をあげたことは楽しい思い出である。

趣味の世界では海の好きな生物の先生といつも行動を供にし、神島や高島によくでかけた。
漁の楽しさを学んだのはこの学校だ。



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いかさ第九演奏会

2020年12月17日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市 (笠岡市民会館)
無くなった日時・2007年12月24日  
撮影日・2007.12.24(画像はテレビ放送から)


笠岡市では毎年12月に、市民会館でベートーベンの”第九”の演奏会があった。






井原・笠岡・浅口の会員により合唱され、演奏は本格的な楽団が来ていた。





合唱も演奏もすばらしかったが、2007年を最後に休止となった。


コメント (1)
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井原市立田中美術館

2020年12月16日 | 無くなったもの
場所・岡山県井原市井原町 田中美術館
無くなった日時・2021年(予定)
撮影日・2020.12.13

田中美術館が建て替えられることになった。
現在の老朽化した建物は2020年末で閉館する。

同じ敷地に、田中苑が眺められる、ガラス張りの新美術館が建設される。
2023年4月に完成するそうだ。





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