不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の火の見櫓

2020年12月15日 | 無くなったもの(笠岡市)
場所・笠岡市茂平
無くなった日時・2020年
撮影日・2016.10.2



お盆(2020.8.10)に墓参りに茂平に行くと、火の見櫓が無くなっていた。







出来たのは小学校の3年生の春だった。
学校帰りに見つけ、みんなで走っていって火の見やぐらを眺めた。



よく梯子段を上って物見台で遊んだ。
そこに立つと、いつも揺れていた。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捕虜⑥「アーロン収容所」 

2020年12月15日 | 昭和16年~19年
戦後の著名な文化人だった京大の会田教授はかつて、ビルマ戦線での戦争捕虜でなく、終戦後に捕虜になった。
本の副題は~西欧フューマニズムの限界~となっている。

・・・・・・・・・・・・・・・



「アーロン収容所」 会田雄次著  中公新書 昭和37年発行


昭和18年末、私たちの師団はビルマ東部のシャン高原に進出した。
終戦直前には一切の重火器を失い、兵力は当初の数十分の一に減少し、
ビルマ東南端におしつめられ、全滅を待つ寸前であった。
しかし終戦によってからくも全滅はまぬがれ、武装解除した私たちの師団はラングーンに送られ、
そこで約2年間、英軍の捕虜としてはげしい強制労働に服せられたのである。


終戦

みんなマラリヤをもち、定期的な熱発(陸軍用語)に苦しんでいる。
疥癬(かいせん)というひどい皮膚病にかかっている。
かゆいのか、いたいのか、知覚に麻痺がきていてよくわからない。
アミーバ赤痢にかっかっている人も多い。
水虫もひどい。うじがわいている。
靴もない。
小銃さえ持たない兵士が多い。


陸軍主計部

私の場合でいうと、二年間のビルマ戦線生活で、何かを配給されたのは、ごくはじめの昭和19年夏以前を除くと一切なかった。
食糧は全部徴発、つまり掠奪(りゃくだつ)したり物々交換したりした。
シャツ、靴、水筒、地下足袋、小銃、背嚢、帯皮、みなボロボロで使いえなくなってしまった。
いま持っているのは、すべて前線で拾ったり、戦死者のものをみなで分けあったものばかりである。


収容所へ

鉄条網でかこまれた広い地域のなかに、屋根だけしゅろの葉でふいた、壁も床もない掘立小屋が幾棟もずっと並んでいる。
物見台があり、ダルカ兵(ネパールの土民兵)が自動小銃を持って看視している。
荷物検査が終わると、今度は噴霧器でDDTをいっぱいふりかけられた。
英軍から食糧が支給されたが、それは米の粉だけであった。
ひもじくてほとんど夜は眠れない。


捕虜生活

床にはドンゴロスをひいてねた。
中央に通路があり、その両側にメザシのように並んで寝るのである。
英軍からの支給はボロボロの衣類と寝具。
食器、床材料、タバコそのほかはみな自給した。
自給とは英軍の倉庫などから泥棒のことである。
作業は、食糧・衣類の運搬整理、工場の雑役、英軍宿舎の掃除や建設、戦禍のラングーン市の清掃復興作業などがあった。



女兵舎の掃除

英軍兵舎の掃除というのは、いちばんイヤな作業である。
もっとも激しい屈辱感をあたえられる。
便所につまった糞を手で掃除させるくらい朝飯前であった。

その日は英軍の女兵舎の掃除であった。
彼女たちの使役はじつに不愉快である。
私たちが英軍兵舎に入るときはノックの必要はない。
イギリス人は大小の用便中でも私たちが掃除しに入っても平気であった。
イギリス人からサンキューという言葉は一度も耳にしたことがない。
タバコをお礼にくれたりするが、手渡しは絶対にしない。口もきかない。一本か二本を床に放ち、あごをしゃくるだけである。
もう一つ、
足で指図することだ。
足でその荷物をけり、あごをしゃくる。

その日、掃除に部屋に入ると驚いた。
一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていた。
ドアの音で振り向いたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。
彼女たちからすれば、植民地人や有色人はあきらかに「人間」ではないのである。


(おんぼ)作業

終戦前、戦病死するイギリス人やインド人は、仮墓地に応急的に埋葬された。
それを整頓することになったのである。
私たちに与えられたのは、棺を掘り出し、別の場所に移すことである。

ほとんどの屍体は腐乱最中である。
悪臭で目から涙がボロボロこぼれる。
ウジ虫のかたまりのようなものを素手で運ばされるのである。


帰還

昭和22年5月、1年ぶりに引揚船がやってきた。
その人員が選ばれ、その中に私が入っていた。小隊長が運動してくれたのであろう。
こうして戦友と別れ、一足先に今度来た船で帰ることになった。
帰るとなるといそがしい。
没収されるかもしれないが、手紙もことづかる、戦没者や、生存者の名簿もつくる。
戦犯で刑を言い渡された人の名簿も借りてきて写した。
内地へ帰って家族の人はみなとても喜んでくれた。
生きているとはわかっていても、それが一番心配だったそうだ。

内地から送られた「リンゴの歌」のレコードも聞いた。ラジオで二三度聞いたことのある、何だかばかに明るい歌である。
負けてアメリカに占領されて、女たちが無茶苦茶されて(と私たちは考えていた)、食糧不足で、こんな明るいとは・・・・。
もうすぐこんな世界の人間になるのかと思うと不思議な感じがする。
しかし私はこの歌を知ったことに感謝した。
内地の思想の急転換をあらかじめ予想させてくれたからである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捕虜⑤「俘虜記」

2020年12月15日 | 昭和16年~19年
昭和20年12月にレイテ島から復員した大岡昇平は、翌年1月に友人小林秀雄から俘虜体験の執筆をすすめられた。
たけのこ生活の時代に、記録文学を残した文人の意識の高さを感じる。


・・・・・


「俘虜記」 大岡昇平著 講談社文庫 昭和46年発行(執筆は昭和21年)




捉るまで

(昭和20年)一月に入り、大隊本部は150名からなる斬込隊の派遣を告げてきた。
しかし彼等を乗せた舟艇は行方不明であった。
我々は無人の民家を荒らし、たまたま家財を取りに来た不運な住民を拉致して帰った。
こうして我々は不本意ながらだんだん掃蕩される原因を作っていったのである。

我々は尽くその年初めて召集され、三ヶ月の教育を受けてここへ送られた補充兵である。
この山中の生活は最初のうちはそんなに悪いものではなかった。
着のみ着のままの露営生活にはちょうど手頃な陽気である。
食糧もさしあたって不自由なく、谷川の水で飯を炊き、山地人と馴れて、赤布、アルミ貨を与えて芋、バナナ、煙草等を得た。

しかし災厄は意外な方からやってきた。
マラリアである。
山へ入るとき衛生兵がキニーネを忘棄したため、やがて急速に蔓延し、1月24日米軍に襲撃されたとき、立って戦い得るもの30人を出なかった。
最後の半月の間にには大体一日3人ずつ死んでいった。
病人は静かに死んだ。

中隊長は若い中尉で、27歳だった。
山中で米軍の襲撃を受けたとき、彼は単身前進し、追撃砲の直撃弾を受けて最先に戦死した。
恐らく本望だったろう。
一種の共感から私はこの若い将校を密かに愛していた。
私は既に日本の勝利を信じていなかった。

分隊長は、病人は退避する。
歩ける者は支度しろ、と言った。彼自身も前から病人と称していた。
私も漸く歩いて便所へ行けるまで回復していた。
退避先まで15㌔の道は自信がなかった。その先もまたどれだけ歩くのか。
私は遂に自分がここで死ななければならないことを納得した。

出発の時、私が皆について歩き出そうとすると分隊長が振り向いて「大岡残るか」といった。
私はいかに一行の足手まといか了解し「残ります」と答えた。
この退避組は全部で60名あまりになったが、2キロばかり行ったところで米軍に襲撃された。

叢を分けて歩く前に、一人の米兵が現れていた。
20歳くらいの背の高い米兵で
私は射つ気がしなかった。
米兵は私を認めずに去った。

大部分は山の中で落伍または病死した。
私は死と顔を突き合わせて残された。
私は、渇きが激しく今もし死ぬなら「一杯の水を飲む」ことを欲した。

私は銃と帯剣を棄てた。
水を飲まずに死なねばならぬことを納得した。
手榴弾を腰からはずし、信管を横に貫いた針金を抜こうとした。
手榴弾は不発だった。
(太平洋戦線の手榴弾は6割は不発だったそうである)

私は眠ったのだろうか。
一人の米兵が銃口を近く差し向け、一人の米兵が私の右腕をとっていた。
俘虜収容所ではよく米兵から、
「君は降伏したのか、捉ったのか」ときかれた。
彼らは日本人が降伏するより死を選ぶという伝説を確かめたかったのであろう。
私はいつも昂然(こうぜん)として
「捉ったのだ」と答えるのを常とした。
しかし今考えると白旗を掲げて敵陣に赴くのと、包囲されて武器を捨てるのと、その間程度の差にすぎない。



生きている兵隊

俘虜は一般に捕らえられた兵士であり、ただ祖国へ帰る日を待って暮らしていると考えられている。
しかし収容所の生活は彼らに「待つ」ことを許さない。
彼らは生きなければならぬ。
俘虜の刑期は不定であり、「待つ」目標がない。

私がここでいう俘虜とは、
終戦の大勅によって矛を捨てた兵士ではない。彼らは被抑留者である。
俘虜とは日本が戦っていた間に、降伏あるいは捕らえられた者を指すべきである。
昭和20年3月、私がレイテ島の俘虜収容所に入った時、そこには約700の陸海将兵がいた。
うち400は、レイテ島に注入された総兵力135.000から生き残った者である。

訊問がすむと俘虜は外の明るいところで、写真を撮られる。
正面と真横の二枚である。そらに全指の指紋も取られる。

彼らは意に反して捕らえられた人たちでるが、既に3ケ月を収容所で過ごして、俘虜の生活に慣れていた。
新しい集団的怠情に安んじて、日々の生活を楽しむ工夫を始めていた。

朝五時半、「総員起こし」の声に俘虜の一日は始まる。
夜が明けるのは六時である。
暗闇の中で蚊帳をはずし、毛布をたたみ、顔を洗って食事を待つ。
外に欲望を遂げる手段を持たない俘虜にとって食事は最大の楽しみである。
俘虜は空腹ではあったが、カロリーは十分で、その証拠に俘虜たちはどんどん肥ってくる。
七時点呼。
俘虜の一日の作業が始まる。

この収容所に虱は一匹もいなかった。
蚤や南京虫も生息できない。


新しい俘虜と古き俘虜

私の知る限り比島で集団投降が始まったのは、昭和20年の5月ごろからである。
あまり戦闘の行われなかった島々が主で、そのトップを切ったのは大抵軍医であった。
9月にはいってから新しい俘虜がきた。
奇妙な対立感情が醸し出された。
「虜囚の辱めを受くるなかれ」の先入観に基づいて、古き俘虜を侮辱しようとした。
ある夜元少尉が、我々の小屋に入ってきて怒鳴った。
「貴様らなぜ腹を切らんか。おめおめと生き延びている奴があるか。腹をきれ」
乱暴者の上等兵は、こういう時いつも返事を買って出る。
「何だと。山の中を逃げ回ったくせに、大きなことをいうな」

やがて日本の新聞社が在外俘虜のために特に作った新聞が到着した。
マッカーサー元帥と並んだ天皇の写真が載っていた。
今度の戦争が「敗戦」したのでなく「終戦」したのであり、上陸した軍隊は「占領軍」でなく「進駐軍」であることを知った。
比国の米兵は日本の俘虜待遇のいかに過酷であったかを知った。
新聞によって知る内地の状況は早く帰ったところで、あまりうまいこともなさそうである。
ここにいれば、昼間形式的な労働に服するだけで、夜は酒を飲み、歌を歌っていればいいのである。


帰還

我々は収容所長から「11月15日に帰還」の通達を受けた。
GIが誰でも持っている大きな袋が渡され、荷物一切を詰め込むことになった。

俘虜の懸念は帰ったら祖国の人々がどう自分たちを迎えてくれるだろうか、ということである。
敗戦と同時に「死ストモ云々」は空言になったはずであるが、内心なかなかそうとも思っていない。

収容所から出られた者は全部ではなかった。
比島人が訴えた戦犯者は、名前によって比島の全部から通牒され、該当者は全部一応残されることになった。
俘虜は多く偽名を使っていたので、これは全くの災難であった。
一人でも同じ苗字の人が何かやっていたら残された。

復員船信濃丸は定員2.000人の俘虜を乗せた。一路日本へ向かった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捕虜④

2020年12月14日 | 昭和16年~19年
POW研究所のWEB


1.連合軍捕虜収容所の設置

太平洋戦争の緒戦において、日本軍は予想外の大勝利を収め、東南アジアや西太平洋の占領地域で多数の連合軍兵士を捕虜とし、その数は最終的に約35万人に及んだ。

捕虜のうち植民地兵は、日本に反抗しないことを条件に、原則として釈放されることになったが、欧米人の兵士約15万人は、現地に設置された捕虜収容所で俘囚の生活を送ることになった。

ところが1942年5月、日本政府は労働力不足を補う手段として、捕虜の一部を満州、朝鮮、国内に移して使役する方針を決め、国内には、同年末から翌年初頭にかけて、函館、東京、大阪、福岡の4ケ所に本所を置く捕虜収容所を開設し、その傘下に分所、派遣所、分遣所などが設置されていった。

これらの収容所は、京浜・阪神などの工業地帯や、鉱山・炭鉱などに多く設置され、労働力不足に悩む企業からは相次いで捕虜の使用要請が出され、陸軍も、初期の東京や大阪などでの試験的使役結果が良好であったとして、本格的な労務動員を開始した。

これら国内の収容所に収容された捕虜の総数は約36000人に達するが、それ以外に、東南アジアから捕虜を移送中に輸送船が撃沈され、約11000人の捕虜が海没するという悲劇があった。

国内の捕虜収容所の組織はたびたび改編され、終戦時においては7ヶ所の本所の傘下に、分所81ケ所、分遣所3ケ所があり、合計32418人の捕虜が収容されていた。そして、終戦までに約3500人が死亡している。

なお、当時の日本では捕虜のことを「俘虜」と称するのが正式であった。


2.捕虜の生活

(1)施設

捕虜収容所の施設は、使役企業が用意して軍に引き渡し、その後は軍が維持・管理するという形態をとった。建物は、新築されることは少なく、既存の倉庫、企業の従業員宿舎、学校の施設などを改造して転用することが多かった。それらは、有刺鉄線つきの板塀に囲まれた敷地内に、日本人職員が執務・居住する管理棟、捕虜の宿舎、倉庫、便所などの木造の建物が配置されているのが典型的なものであった。捕虜の宿舎の内部は、通路をはさんで蚕棚式のベッドが並んでいる場合や、日本式にゴザか畳を敷いて床の上に寝る場合があったようである。照明は裸電球、暖房は火鉢やドラム缶のストーブ、寝具は、分所から毛布が支給されたが、冬の寒さは捕虜の身にこたえるものであったという。便所は日本式のくみ取り式便所で、捕虜たちは悪臭やハエに悩まされた。風呂は設置されていることが多かったようであるが、燃料不足から湯が使えなかったり、人員過剰で週に1回ぐらいしか入れない場合もあった。そのため、捕虜たちは、洗濯場や洗面所で身体を洗ったり、近くの川へ行くこともあった。

(2)食事

食事は、主計係の日本兵が調達してきた材料を、捕虜の炊事当番が交代で調理する方式が普通だったようである。茶碗1杯分の米飯、みそ汁、漬物という日本式の食事が基本であったが、1日1食はパン食という場合もあった。月に何回かは肉や魚が出ることもあったが、食料事情が深刻になるにつれて姿を消していった。昼食は、仕事場へ弁当を持参するのが普通であった。

飢餓と栄養失調は、捕虜たちにとって最も深刻な問題の一つであった。日本軍としては、戦時下の悪条件の中で食料の確保には精一杯努力したという声もあるが、戦争末期にはひどい窮乏状態に陥っていたことは否定できない。捕虜が田畑の作物などを盗み食いしたり、作業場や収容所の倉庫の食料を盗んだ時には、ひどい制裁を受けたが、野生のヘビ、カメ、カエルなどを捕らえて食用にすることは黙認され、それが御馳走だったという話もある。たまに国際赤十字からの救恤品が届くことがあったが、分所によっては、赤十字の救恤品にお目にかかったことはないという元捕虜の声もある。


(3)衣服

衣服は、捕虜の私物の他に、収容所から作業服、手ぬぐい、地下足袋、軍手などが支給されたが、戦争が進むにつれて衣料品の不足も深刻化し、衣服の修繕や取り替えなどは困難となり、戦争末期には、捕虜はボロボロの姿になっていたという証言もある。雨具や防寒用のオーバーなどの支給は、分所によって様々であった。


(4)日用品・嗜好品

分所内に酒保(売店)が設けられていて、簡単な日用品が買える場合もあった。


(5)娯楽

捕虜の宿舎内での日常生活には、監視員はあまり干渉しなかった。ピンポンやキャッチボールなどのスポーツ、ギターなどの楽器の演奏、YMCAなどから差し入れられた本の読書などができる場合もあったが、そのようなことが望めない分所もあったらしい。
クリスマスは欧米人にとって最大の行事なので、この日は精一杯お祝いの行事が行われ、日本軍もそれを容認した。


(6)宗教

基本的には捕虜の自由。


(7)通信

捕虜は、国際赤十字を通じて、単語25語以内等の制限つきで本国の家族と交信できることになっていたが、実際に手紙のやり取りができたのは、収容期間を通じて1、2回あったかどうかという程度。


(8)労働

建前としては、1日8時間労働、週1回休みが基本になっていたようであるが、実際には、それをはるかに越える労働を強いられるケースが多かった。労働内容は、企業の種類にかかわらず、原料や物資の運搬、荷役、土木、採鉱などに関わる単純肉体労働がほとんどであった。労働は苛酷で、食料不足の捕虜の身にこたえるものであった。

捕虜の労働に対しては賃金が支払われた。日本軍の規定では、賃金は企業から軍に対して捕虜1人あたり1日1円が払われ、そのうち捕虜の受け取り分は、兵卒は1日10銭。実際には、「1人として無為徒食するものあるを許さない」(1942年5月、東条陸相の訓示)という日本軍の方針の下、「自発的」装いをとりながら労働を課せられた。
元捕虜の中には、賃金をもらっていないと証言する人も多い。


(9)医療

医療は、日本人の軍医や各分所の捕虜の軍医が診察にあたった。各分所には簡易な診察室のようなものがあったが、医薬品の支給はほとんどなく仕事を休んで安静をとる場合は、食料も減らされる始末だった。また、衛生状態の悪さから、ノミやシラミに悩まされ、伝染病の恐れもあった。


(10)監視員と懲罰

捕虜の監視は、収容所内と仕事への行き帰りには、収容所勤務の日本兵と軍属の監視員があたりる。
監視員による捕虜への暴力は多発し、監視員の機嫌を損ねただけでもピンタを食らわされるなどは日常茶飯であった。些細な規則違反でも懲罰は厳しく、特に食料不足などから起こる捕虜の窃盗行為などに対してはひどい制裁が加えられた。げんこつだけでなく、軍刀の鞘や銃の台尻で殴る、「気をつけ」の姿勢で長時間立たせる。頭上に水の入ったバケツを持たせて立たせる、長時間のランニングを強いる、営倉に監禁して食料を与えないなど、捕虜の手記や戦犯裁判の記録には様々な虐待行為が記されている。


(11)死者

日本国内の捕虜収容所全体での捕虜の死亡率は約10%であった。死亡原因のほとんどは、栄養失調、過労、衛生状態の悪さなどからくる病気・衰弱死であり、捕虜収容所での待遇は過酷であったと言わざるを得ない。
ただ、泰緬鉄道の地獄などに比べると国内の収容所はまだましだった(国外も含めた全体の捕虜の死亡率は約27%)。
その他の死因として、作業中の事故や監視員による暴力も大きな問題であった。これは、直接の死因になった例はそれほど多いとは言えないが、事故や暴力で受けた負傷が原因で間接的に死につながるケースは少なからずあった。

なお、本土決戦という事態になった時には、捕虜は全員殺害という方針が示されていたことは事実のようである。

捕虜が死亡した時はほとんどの場合火葬され、分所の近くの寺院などに遺骨が預けられることが多かった。遺骨は戦後、占領軍によって回収された。


3.捕虜の解放と戦犯裁判について

日本の敗戦と同時に、日本政府に対して、各地の捕虜収容所の屋根に「PW」と標記することを命じた上で、空母艦載機やB29による救援物資のパラシュート投下作戦を行った。同年9月中には、ほとんどの捕虜が沖縄・マニラ経由で本国へ帰還した。

一方、占領軍は1945年末から戦犯容疑者の逮捕に乗り出し、それとともに横浜でのBC級戦犯裁判の審理が開始された。

開戦直後、連合国は日本政府に対して、捕虜の人道的待遇を定めた「ジュネーブ条約」を適用するよう要望し、日本政府は、同条約を批准はしていないが、その規定を「準用」すると回答した。しかし実際には、日本軍は捕虜収容所の監視員などに「ジュネーブ条約」などは全く教育しておらず、暴力は多発し、極度の物資の欠乏や重労働と相俟って、日本側の捕虜の取り扱いは「人道的」にはほど遠いものであった。連合国は戦争中から日本軍の捕虜虐待を察知して、国際赤十字を通して抗議を繰り返したが、日本側はこれをほとんど無視した。しかし、その結果は、戦犯裁判において連合国からの厳しい処断を受けることになった

横浜裁判で起訴された事件の総数は327件、被起訴人員は1037人であるが、そのうち国内の捕虜収容所関係者に対するものは222件、被起訴人員475人という多数を占める。これは、日本軍による日常的な暴力、逃亡捕虜の殺害、医療処置の欠如、食料の支給不足、赤十字救恤品の横領などが罪に問われたものである。

この結果、全国のほとんどの分所で戦犯者を出しており、そのうち28人が死刑を執行された。刑死者を多く出した代表例としては、東京俘虜収容所第4(直江津)分所の8人と、同第6(平岡)分所の6人があり、これらは劣悪な待遇で多数の捕虜を死亡させた責任を問われたものである。

米軍はかなり徹底した調査をおこなっており、全くの事実無根による冤罪といったケースは、横浜裁判に関する限りあまり見当たらない。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

玉野分所

1945年6月1日、広島俘虜収容所第3分所として、岡山県玉野市日比448に開設。使役企業は三井鉱山日比精錬所。
終戦時収容人員200人(英など)、収容中の死者なし。


(日比五丁目から見る三井精練 撮影日・2015.10.18)


向島分所
1942年12月27日、八幡仮俘虜収容所向島分所として、広島県御調郡向島町兼吉に開設。43年1月1日、福岡俘虜収容所向島分所に改編。
3月1日、第11分所と改称。7月14日、善通寺俘虜収容所へ移管、第1分所となる。
12月1日、第1派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第1派遣所となる。8月、第4分所と改称。
使役企業は日立造船向島造船所。
終戦時収容人員194人(米116、英77、加1)、収容中の死者24人。

笹本妙子によるレポート
因島分所

1942年12月27日、八幡仮俘虜収容所因島分所として、広島県御調郡三庄町(現・因島市三庄町)に開設。
43年1月1日、福岡俘虜収容所因島分所に改編。3月1日、第12分所と改称。7月14日、善通寺俘虜収容所へ移管、第2分所となる。
12月1日、第2派遣所と改称。45年4月13日、広島俘虜収容所に移管、第2派遣所となる。8月、第5分所と改称。
使役企業は日立造船因島造船所。
終戦時収容人員185人(英182、米3)、収容中の死者12人。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉敷市域における朝鮮人

2020年12月12日 | 昭和16年~19年
水島には多くの朝鮮人が住んでいた。
それは戦時中に三菱航空機工場の工事の由来かと思っていたが。

大正時代に高梁川の改修工事、
昭和になると紡績工場、
戦時中は航空機関連、
戦後は水島工業地帯の大発展の関連産業、
いつも多くの朝鮮人がいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「新修倉敷市史第六巻」倉敷市 平成16年発行

倉敷市域における朝鮮人


韓国併合直後の朝鮮人


明治43年(1910)韓国併合以降の朝鮮人労働力については、高梁川河川改修工事に従事する朝鮮人に関する記事が明治44年11月に「山陽新報」で確認できる。
以下引用する。

此の頃備中高梁川河川改修工事の酒津工場へ一行廿八名の朝鮮人が去月初旬頃から土工に従事している。
此の一行は全て慶尚北道の大邱または氷川のものである。
此の28名の外婦人が2名いる。
此等は年齢24.5乃至30歳くらであるが、其中に自己の姓名を記す者、僅かに1名あるのみで、他は一丁字なき徒である。
彼等は船尾村の□□と云う人が連れて来たので、同人が朝鮮総督府奉職中に道路や橋の架設等に使用して居つて、皆経験のある者だと云うことである。

彼等の仕事はトロッコで土砂の運搬をし、賃金毎日50銭乃至55銭位を得ている。
其の働きぶりは如何かと云うに、
内地人は概して朝(午前)は極力労働する代わり、日没頃になると疲労の体が見るが、
彼等は朝から晩まで平均に働いている。
ケレド彼等は四五日働けば一日休む。
仕事ぶりは丁寧で陰陽なく働き、狡猾の処は見えぬ。
労働の忍耐力も強い。
煙草は至極好物であるが、仕事中は決して喫まぬ。




紡績業と朝鮮人労働者

第一次世界大戦後の「大戦景気」も要因の一つ。
岡山県の主要産業のひとつ「繊維産業」も朝鮮人労働者の参入が始まっていく。
大正6年倉敷紡績万寿工場、11月に玉島工場が朝鮮半島に於いて労働者の募集を開始した。
大正6年8月の倉敷紡績の社報「倉敷時報」には、

工場の職工労銀著しく高騰せるより朝鮮人の内地出稼人頓に激増の趨勢を示せるが、万寿工場に於いては第一回募集で男女職工約70名を採用したるが
今回の応募者は三道にして既往一ヶ月の成績を徴するに、性質温順勤勉にして労働能力比較的優秀、
就中妙齢の婦人の如き概して動作敏捷軽快、職務に対して忠実熱心にして其技術の進歩遥かに内地人を凌駕するもの少なからず。
当事者も此の好結果に意を強ふし今後更なる大規模の募集を継続する予定にて
鮮人職工の将来に大に望みを嘱しつつあり。

新聞や社報によると、この時代に労働力として「移入」してきた朝鮮人は、「性質温順勤勉にして労働能力比較的優秀」にもあるように、労働の質的によいものであったと推測される。


朝鮮半島内の変化

韓国併合後、日本政府は「土地調査事業」や「産米増殖政策」等を実施した。
これらの政策が進むにつれ、土地所有が困難になった農民の小作人への転化が増加していった。
その結果、半島内での就労が困難になった朝鮮人が増加し、その労働力が日本国内の労働力市場へと本格的に参入せざるを得ない状況であったといえる。

大正12年11月13日「山陽新報」の記事。

爆弾を投じた。強盗を働いた。・・・・
あらゆる流言蜚語をなげかけられていた憐れな鮮人の群れが震災以来住み慣れた関東をはなれて段々地方に落ち延びてくる。
復興の斧の響きが震災地の空に張り渡すと彼等に対する蜚語が全く濡れ衣であった事が分かり今では賃金が安くて好く働く彼等は至る所で歓迎され・・・・。

この記事によると、岡山県下に在住する朝鮮人は震災後数百人増し1.037名で、そのうち紡績業への従事者が142名。
「内地人に比し生活程度が低いところから三割がた安い賃金に甘んじて好く働くから何処でも非常に気受けが好い」ともある。


水島航空機製作所と朝鮮人


昭和12年7月7日、日中戦争勃発。
昭和13年3月、国家総動員法が成立。
昭和14年7月、必要となる労働力の内7.5%は朝鮮人労働力による供給することを閣議決定。

朝鮮人の日本への「移入」は、朝鮮総督府、警察署、職業紹介所、協和会等の協力により朝鮮半島内で「募集」し、
朝鮮人の引率、賃金、住宅、雇用期間等にわたるまで雇用主に詳細な統制を義務付けるよう指示している。
この決定は、
本人の意思に拘らない「国家権力」という点が明確に加わることとなり、その形態も国家による強制的「移入」形態であることから、朝鮮人の日本への「移入」に関して明らかにこれまでと異なり、日本在住朝鮮人の労働力構造やその生活に大きな影響を及ぼすこととなった。
これに基づき「集団募集」の呼び名のもとに日本に移入した朝鮮人は、石炭山、金属山、土建業等へ強制的に就労させらていった。

昭和15年末、募集総数62.044人。移入者は48.595人(約78%)
昭和16年、三菱重工業水島航空機製作所は朝鮮人移入許可を得ている。
昭和16年12月。真珠湾攻撃。



(「亀島山地下工場の碑」、碑文には・・・この地下工場は、総延長2055m、軍の監視のもと、朝鮮人を含む多くの労働者によって掘られたものです 平成8年 倉敷市)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捕虜③向島捕虜収容所 

2020年12月11日 | 昭和16年~19年

(元・向島紡績 2012.4.28 尾道市向島町)

向島収容所​

ウイキペヂア

元々収容所として用いられた建物は、1918年帆布工場として建てられたもの。煉瓦造でノコギリ屋根が特徴的な建物であった。1923年頃大日本帝国海軍が借り上げた。

1942年11月、八幡仮俘虜収容所向島分所として開所。東南アジアで捕虜となったイギリス・アメリカ・カナダ兵が収容され、この地の北東にある日立造船向島工場で、船の清掃・荷役のほか溶接・鍛冶などに使役された。
この周辺では南の因島にも収容所が置かれ、同様に造船業に使役されている。以下向島収容所のことで判明している終戦までの概略を示す。
1942年11月、インドネシアからイギリス兵約100人収容
1944年9月、 フィリピンからアメリカ兵116人収容
1945年8月20日 、 アメリカ兵10人収容。この兵士たちは広島市への原子爆弾投下により間接被爆している(広島原爆で被爆したアメリカ人参照)。
9月12日、 解放。この時点での収容人数はアメリカ116人・イギリス77人・カナダ1人。

1945年7月27日には日立造船向島工場が空襲されることになるが、赤十字の印をつけていたことからこの周辺は全く被害はなかった。
同年終戦後、連合国側はその赤十字を目標にパラシュート付きの救援物資が入ったドラム缶をいくつも落とし、
そしておすそ分けの形で周辺の民家にも落としたことから、空襲で被害のなかった周辺の民家の屋根を壊したという。
アメリカ兵捕虜たちはこの救援物資を用いて手製の星条旗を作り掲げている。
終戦後日本国内における初の星条旗掲揚と言われている。同年9月13日この星条旗を掲げて尾道港まで行進し帰国した。

この間、死者は24人。内訳はイギリス23人・アメリカ1人で、この人物の名前がプレートに刻まれている。
死因は栄養失調によるものがほとんどで、うち15人は到着後2ヶ月以内に死亡していることから東南アジアからの不衛生な航海が死期を早めたと推定されている。
劣悪な環境であったが島民は彼らに親切に交流した記録がいくつも残る。
死亡した捕虜たちを弔い北側対岸である尾道の共同墓地に墓標が建てられていたが、1947年頃に掘り出され現在は横浜の英連邦戦死者墓地に埋葬されている。


プレート設置

戦後1948年から建物は向島紡績が用いた。
建物自体は広島県の近代化産業遺産に認定されていた。

1998年、向島を訪れた元イギリス人捕虜との交流をきっかけに旧向島町内で慰霊碑建立の機運が高まり、向島キリスト教会の牧師の音頭で寄付を集めていった。そして2002年、向島紡績工場外壁にイギリス兵のプレートが設置された。同年、アメリカ人捕虜にも死者がいたことが判明し、別にプレートを設置する考えも生まれることになる。

そこへ向島紡績は円高の影響により傾き2011年末に操業を停止し敷地を売却、
地元スーパーマーケットチェーンエブリイが買い取り建物を取り壊し商業施設が建てられることになった。
これにプレートの設置運動を行った市民団体が建物存続に向け動いたものの、膨大な耐震補強が掛かることに加え地元自治体からの補助金が見送られたこともあり存続を諦め、敷地の一角を無償提供されそこに移設することになった。
有志からの募金やエブリイからの寄付に加え、廃材となった煉瓦ブロック約2万5千個をガーデニング材として販売して移設資金を集めた。
2013年現在地に移設、同年隣にアメリカ兵プレートが設置された。


(元・向島紡績 2012.4.28 尾道市向島町)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捕虜②「貝になった男」

2020年12月11日 | 昭和16年~19年
「貝になった男 直江津捕虜収容所事件」  上坂冬子著 文芸春秋1986年発行



昭和55年3月、直江津高校に一通の手紙がオーストラリアから届いた

「私は、1942年(昭和17)から1945年までの三年近くを直江津で過ごしました。
シンガポールとマレーから直江津に送られた三百人のオーストライア軍の中尉です。
直江津では宿舎としてステンレス工場をあてがわれました。

捕虜たちはステンレスとシンエツの工場で、鉄鋼を伸ばす仕事やカーバイドなどの生産にあたり、
また港に出て石炭や塩の荷降ろし作業に従事したりしました。

1944年から44年にかけての冬の寒さは特にきびしく、その時は収容所で沢山の死者が出ました。
遺骨はしばらく収容所に置かれた後、直江津のお寺に移され、最終的には横浜の墓地に埋葬されていると思います。
1944年にアメリカ軍とイギリス軍が私たちに合流しました。
直江津には1945年8月までいて、それから私は厚木飛行場を飛び立ってオーストラリアに帰還したのです。

収容所で死んだ60人のオーストラリア兵を偲ぶためと、直江津や近郊の多くの方々が捕虜にお寄せ下さったご親切へのお礼を含めて
船便で本を数冊お送りしました。
そろそろつく頃だと思います。」

氏への返信にたいしては、

私の手紙をきっかけとして、直江津の若い人たちに戦争中にここで何があったのかを知っていただきたかったのです。
60人の仲間の悲劇的な死を考えると、8人の戦犯の受けた罪は当然のことと思います。

彼等が捕虜に対して無慈悲極まる、人間として許されぬ行為は、徹底的に追及されるべきものと考えます。
もちろん、人道として基本を外さなかった人もいます。


収容所で働く人の話

700人分の食糧を集める。
精米
精麦
味噌
粉味噌
乾燥蕗
私ら死に物狂いで食糧を集めましたもの。
いく先々で捕虜なんかに食わせるものはない、と白い目を向けられて惨めな思いをしましたよ。


覚真寺の和尚

捕虜の遺骨は、付近の寺からことごとく断られた。
無理もない、アメリカ製の人形までがいじめの対象とされた時代である。
だが、覚真寺の和尚だけは、事もなげに捕虜の遺骨を引き受けた。
「死んだ者に敵も味方もありゃせん」



印画紙一枚の運不運

どのような経緯で戦犯として告訴になったのであろうか?

「手掛かりは写真です。戦後チズルス大尉が日本人関係者の顔写真を撮っていました」
警察から呼び出しを受けた人は、正面と真横の二枚ずつ写し撮られた。
捕虜たちは本国へ帰ったあとだった。
写真から戦犯を割り出したのであろうか?


直江津に着いた捕虜はシンガポール・チャンギー収容所から来た

検査を受けて健康な者だけが船に乗せられて、常夏のシンガポールから真冬の直江津に来た。

一挙に20人の肺炎患者が出た。
薬や看護は不十分だったが、一人も死亡者は出なかった。
捕虜たちに体力があった。

ところが二度目の冬は、300人の中50人が死亡した。
捕虜は二組に分けられ、
二交替で24時間業務に従事した。
信越化学では重い鉱石を背負い、急な坂づたいに溶鉱炉まで運ぶ仕事に従事した。
溶鉱炉のそばで働くのは20分が限界で、10分の休憩をおくことになっていたが、拷問代わりに1時間働かされる捕虜もいた。

収容所から工場まで、約1マイル(1609m)の距離を通勤するのに、駆け足で命ぜられた日も多い。
落伍したものは打ったり蹴ったり、なかには肛門に棒を入れられたりした。
倒れると失神するまで叩かれた。


チズルス大尉の陳述

私は1942年11月にシンガポールから直江津に着き、1944年8月まで捕虜側の代表をつとめた。

日本人軍属は、犬殺し棒をもっていた。
脚気の患者を殴り、やがて死亡した。
溶鉱炉の作業で暑さで失神した捕虜に、助け起こした捕虜を殴りつけた。

長靴事件
汲み取り便所が1943年ごろから溢れだした。
糞尿は裏の物干し場まで流れていた。
うじ虫が這いまわっている中を、便所に行く。
当時の捕虜の健康状態は、文化国家なら全員が入院させられていたであろう。
殆んどの捕虜が脚気にかかっていたし、虱がわいて悪性の皮膚病が流行していた。
風呂はごくたまに入れるが、捕虜たちの体は骸骨のようであった。
収容所に火の気はなく、重ね着をしたくとも衣類とてなく、
外は5フィートの雪が積もり、濡れて帰ると凍えて寝るしかなかった。
病気に対する抵抗力などあるはずがない。


治療をしてやると脚の上で火を焚いた
脚気患者が大量に出た夏に「我々の脚に火を焚いた」、
「それは違う。虐待ではなく、お灸という治療法だ」


蠅取り騒動
ある夜、ハエを一人につき二匹づつ取れと命じられた。
翌日の夜、一日の仕事で疲れ切った捕虜たちは戸外を走らされた。
スピードを落とすと、棒で背中をつつき、止まって腕立て伏せをしろと命じられた。



初期のころ

初期のころ日本各地の捕虜収容所は戦時下にしては穏やかな雰囲気だったようだ。
昭和17年11月8日 朝日新聞は
「米英俘虜戦う日本へ一役、米俵担ぐ青眼人夫」と、次のように伝えている。

香港、マレー、フィリピンをはじめ、南方各戦線で我が軍門に降った米英俘虜は、皇軍の道義に基づく厳然たる公明正大の取り扱いを受けて、
内地、朝鮮、台湾をはじめ各地の俘虜収容所に収容され、生産充実の方面に活用され、指揮下に規則正しく行われ能率をあげている。
帝都の玄関口東京湾に荷揚げされる物資は英国海軍が米俵を担いで運んでいく。
俘虜が来てから埠頭の荷役が円滑の度を増してきた。
イギリスやアメリカの奴らに負けてなるものかと、知らず識らずの間に能率があがっている。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捕虜①偽りのメリークリスマス

2020年12月11日 | 昭和16年~19年
そもそも、「生きて虜囚の辱めを受けず」の玉砕を旨とする日本軍が、捕虜を正当に扱うことができたのだろうか?

それに、食うや食わずの日本及び日本軍が、捕虜に与える食料はどれほどのものだったのだろう?

兵や国民は、米英の捕虜を見て、人間でなく”鬼畜”であると思ったのだろうか?


・・・・・



「にっぽん俘虜収容所」 林えいだい著 明石書店 1991年発行


泰緬鉄道


キャンプに収容された日、日本軍の捕虜に対する乱暴な態度にオランダ兵たちは驚いた。
監視兵に文句を言ったり反抗すると、いきなり銃殺されることもあった。
捕虜たちは恐怖の日々を送った。

突然、移動命令が出て貨物船に積み込まれた。
少量の水と握り飯だけを与えられ、約百数十時間かけてシンガポールのチャンギキャンプへ収容された。

泰緬鉄道建設のため貨車でマレー半島を北上、タイ側の山岳地帯からビルマへ向かって工事を始めた。
栄養失調と伝染病、荒れ狂うモンスーンで捕虜たちが倒れると、クワイ河へ投げ捨てられた。
レール1本に1人の人柱といわれるほど、多くの犠牲者を出した。
”戦場に架ける橋”のようなヒューマンな物語ではなかったのである。



強制労働

日本国内の労働力が不足して、1942年7月、シンガポールやマニラから第一次として、
比較的健康な捕虜1万人を輸送することになった。



偽りのメリー・クリスマス



二瀬俘虜収容所
この写真は、キャンプの責任者の命令で、ある日本人が撮ったものである。
捕虜に対する日本人の「良い待遇」を宣伝するための偽装写真である。
撮影後、食べ物はすべて取り上げられてしまった。






生きていてよかった

日本軍は明らかに、収容する戦時捕虜の食糧の供給をはじめ、医療に関する計画を立てていなかった。
国際協定では、捕虜1人について1日1.800カロリーを与えねばならなかった。
捕虜あての救恤品(きゅうじゅつひん)は、アメリカを経由してソ連のウラジオストックに送られてきた。
国際赤十字では、日本の船で輸送していくれといってきたが、政府は船腹がないといって断った。
最終的には白山丸が受けとりに行き、一旦門司港まで運ぶと、あとは阿波丸が南方の俘虜収容所へ配った。
キニーネ、マイシン、総合ビタミン剤、軍服、靴などが送られてきたが、実際には捕虜たちには少量しか与えられなかった。
解放された捕虜たちは、骨と皮だけに痩せ衰えていた。
戦争の終結も知らずに彼らは死んでいったのである。



帰国

終戦翌々、輸送機が上空を旋回しながら、パラシュートで物資を投下した。
9月に入ると捕虜たちの帰国が始まった。
西日本地区では長崎から軍艦や輸送船で沖縄へ送り、そこからフィリピンのマニラへ輸送機で送られた。
マニラは栄養補給と社会復帰するための休暇で、そこで数週間過ごすと輸送船や輸送機で故国へ向かった。



進駐軍


GHQ戦犯調査委員会によって、全国的に戦犯調査が始まった。
横浜裁判では、俘虜収容所関係のケースが多い。
全ケース307件の中で、242件と捕虜虐待が占めるウエイトが高いのは、戦時捕虜の取り扱いに問題があったからである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「青い目の人形」の顛末

2020年12月07日 | 昭和16年~19年
歓迎会
「井原市史Ⅴ 近現代資料編 平成15年発行

昭和2年5月10日
青い目をしたお人形歓迎会

後月郡教育会の主催にて、来る11.12両日井原小学校付属幼稚園に於いて開催することになった。
お人形の数は二百余種もありて、園内に陳列し一大異彩を放つ筈である。
同日西江原出身の日米新聞編成、井上部長が公演あるはずである。

・・・

「憎い敵だ許さんぞ」
「貝になった男」 上坂冬子著 文芸春秋 1986年発行

昭和18年2月19日 毎日新聞
青森県鮫ヶ沢発
今にして思えば恐ろし仮面の親善使節であった。
鮫ヶ沢国民学校では初等科5年以上特修科までの児童に、その処置についてアンケートをとったところ
「決戦下日本の観念が童心にも根強く織り込まれ」ているのがわかった。

破壊  89
焼いてしまえ 133
送り返せ  44
海へ捨てろ  33
白旗を肩にかけて飾って於く  5
米国のスパイと思って気をつけよ  1

これに対して郡の教育会では
「郡下の人形を一場所に集め、機会あるごとに児童に見せて敵愾心を植えつける」方針を表明した。

文部省国民教育局総務課長談
「15年前の人形を麗々しく飾ってあるとは思えませんが、
もし飾ってあるならば速やかに引っ込めて、こわすなり、焼くなり、海に捨てるなりすることには賛成である。
常識から考えて、米英打倒のこの戦争が始まったと同時にそんなものは引っこめてしまうのが当然であろう」
と讃えている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇紀2670年と2680年の「神武天皇像」

2020年12月06日 | 令和元年~
神武天皇が東征の際、8年程滞在したという神話の吉備国・高島。

備中高島に先月神武天皇像が出来た。



これが、備中高島の「神武天皇像」


(撮影・2020.11.30 笠岡市高島)

2020年11月6日建立で、島民の健康や観光を目的に住民が制作した。





こちら、備中神島の「神武天皇像」


(撮影・2012.9.30 笠岡市神島外浦)


台座には、

皇紀2670年記念
平成22年建立
とある。

島民の実業家が寄進したもの。



同じ市内に、二つの神武天皇の像があるのも珍しい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする