しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「軍事教練の思い出」 (金光中学校)

2020年12月06日 | 昭和16年~19年
「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行より


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軍事教練の思い出





昭和十年代後半の生徒は、当時の思い出を次のように回想している。


「軍事教練の思い出」

半世紀前の悪夢のような思い出をひとつ回想してみよう。
当時中学生の服装は、カーキ色(国防色)の学生服で、登下校時と教練の時はゲートル(巻脚絆)の着用だった。

帽子は、昭和16年以降の入学生は国防色のいわゆる戦闘帽を被るようになった。

教練の時間は2時間続きで週3回、合計6時間がこれに当てられた。

教練に係る教官の職員室は、運動場のもっとも近い位置にあって、体育の先生と同室で、「生徒監」と言い、入室時には入口で
「〇年〇組○○○○、入ってよろしいでありますか?」と蛮声を張りあげ、中から
「入ってヨーシー」と教官の許可が無ければ入室できなかった。

生徒監の横には武器庫があり、二二式銃(明治38年製歩兵銃)と騎兵銃銃剣が収納されていた。
教練の時、1・2年生は木銃を、3年生は二二式銃を、4・5年生が三八銃・騎兵銃を使用していた。
実弾射撃も時にあり、5年生が騎兵銃を運動場の南側で、三八銃を使う時は遥照山麓の池畔で実施していた。

教練の場所は、ほとんで運動場であったが、時々今の学園校地の広場で軍隊さながらの訓練を行っていた。
それは酷暑炎天下でも、吹雪・豪雨の中でも実施された。
教官は三先生に一配属将校であった。

教練そのものも厳しかったが、服装・銃の管理、規律も大変だった。
また軍人勅語の完全暗記は絶対的なものであった。

訓練内容は、集合、歩行、匍匐前進、塹壕突破、手榴弾投擲、突撃等で、
サーベルで突かれ、長靴で蹴られながらの真剣勝負であった。
今の中・高校生生活では、とうてい想像もつかないことである。
それが戦時下では当然のこととして実施されていたのである。

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学徒動員壮行式答辞 (昭和19年6月11日・金光中学)

2020年12月05日 | 昭和16年~19年
先に記述の、

”昭和19年、本校では
第一学期中に
5学年が乙島の飛行機工場に
4学年が兵庫県の播磨造船所に
3学年が乙島工場に出動した。
2学年・1学年も挙げて農家の手伝いや開墾作業に奉仕した。”

の「5学年が乙島の飛行機工場に」の壮行式の答辞。


「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行より


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学徒動員壮行式答辞


愈々学徒動員が下り、我等五年生は戦力増強生産の任務を以って出発致すこととなりました。
本日茲に我等のために壮行式を挙行致され、
校長先生より御憩篤なる御訓示を賜り、
在校生総代より親切なる激励の辞を寄せられ感謝感激の至りであります。

日々夜々前線に繰り返されて激烈極まる戦闘の状況を聞くたびに、我等の血潮は高まります。
敵米英がこしゃくにも物量をたのんで我皇軍を圧倒せんとし、無数の爆弾・無数の弾丸を以って我将兵を悩ましているのであります。

今や一機でも多くの飛行機を、一発でも多くの弾丸を、一日も早く前線へ送らねばなりません。
我等学徒が工場へはいり、軍需の生産に従事することは実に重大なる任務であります。

我等は今や直接国家のために役立つ日を迎えました。
我等が一本の鋲釘を打つその動作も、そのまま前線へひびくのであります。
このことを思う時、どうして自重せずにおられませうか。
祈りを込め、誠心をこめて働かずにおられませうか。

力の限り御奉公を致します。
諸君もしっかり勉強して下さい。

昭和19年6月11日

第五学年生総代




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注文と同時に目の前に出る”牛丼”

2020年12月04日 | 初めてのこと
注文と同時に目の前に出る”牛丼”


東京には高校生の時「修学旅行」で行ったことがある。
それから8年後、二度目の東京は「社員教育」に出席で行った。

研修場所は、代々木の東京オリンピック選手村の宿泊施設だった。
その前日の日曜日に東京に行き、学生時代の友人Tくんと会った。

Tくんは、まず小腹にと新橋駅前の食堂に案内してくれた。
席に座って、Tくんが注文を口にすると、その瞬間に料理が出てきた。

この早さにはびっくりした!

Tくんは、東京はどこでも注文したら料理が出るのは早いが、「ここは特別早い」と言った。
その時は「牛丼」と「おしんこ」が出た。

Tくんは、この店は東京ではチェーン店が多いとおしてくれた。
その店の名は「吉野家」で、
以後、その名を新聞などで見るようになった。


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注文して、だいぶんたってから出る”牛丼”


吉野家は関東から関西へ進出し、店舗数は増えた。
同業者も増えた。
今はコンビニ店と同じように全国どこの町にも、牛丼店がある。

昨日(2020.12.3)井原市の或る牛丼店に入った。
牛丼を注文しても、なかなか商品が出てこなかった。

自分の中に牛丼は出るの早いという思いがあったので「遅いな」と、思う頃に出た。

このスピードに新橋駅前でカルチャーショックを受けたのを思いだし、逆カルチャーショックを受けた。

(時代は変わるし、お店のメニューも増えていて、ある面当然の待ち時間であって、
このお店を非難している訳ではありません)

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終戦直後の指令①金光中学校

2020年12月04日 | 昭和20年(戦後)
「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 





終戦直後の指令・金光中学校

終戦直後は、次から次へと指令が発せられ、また調査報告が要求されて、その事務に忙殺される有様であった。
昭和20年第二学期は、9月3日職員生徒登校、翌4日から授業を開始した。

9月10日、県神祇教学科から指令が届いた。
それは銃器返納を請求してきたのである。
最上級生が各自二挺ずつの銃をもって、あの混乱した輸送事情の中を汽車で岡山へ向かったのである。

11月19日、県が学校当局を招集して、マ司令部の主旨に基づくとして軍事教育を廃止すること、職業軍人の追放、教科書から不適当な箇所の削除、校歌、校訓、額、掛軸等から戦時色を拂拭すること、
その他伊勢神宮大麻奉斎の神棚撤去等の指令があり、
また挙手の敬礼その他軍隊的動作、作法は避ける要ありなど、細部に亘る注意事項の指示があった。

11月23日、文部省主催の教育新方針講習会が三原で開かれ、そこで武道も滑空も共に全面的に停止、
また団体的訓練はマ司令部の喜ばざるところで、今後隊伍を整え、歩調を取っての行進は廃すべきものと指示された。

越えて昭和21年1月7日、修身、歴史、地理の三教科につき、現行教科書使用を即時禁止。指示するまで授業を停止を指令された。
1月9日、戦争に関する書籍一切を提出せしめられた。

1月12日、両陛下の御真影全部を奉還することになって、都窪浅口地方事務所へお移し申し上げた。

2月2日、進駐軍検査官一行が来校した。
一行は書籍の破棄も行き過ぎにならぬようにと注意を与えた。

人心の荒廃は学生界にも大きく響いたが、幸い本校の生徒は、混乱のなかにあっても、安定を得ていたことを心強く感じている。

三代目校長「60年のあゆみ」より

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工場の移転・・・安田工業

2020年12月03日 | 昭和16年~19年
「激動を生きる・安田工業80年記念誌」安田工業(株) 平成21年発行 




工場の移転

大正12年(1923)の関東大震災から6年後、信次郎はストロング商会を立ち上げた。
近い将来、輸送と移動の手段はきっと自動車が担うことになる。
信次郎は自動車用のピストン加工とシリンダーの再生加工を生業として選んだ。
ストロング商会の創業当時、日本国内を走る自動車といえば、フォード、シボレーといった米国車がすべてだった。
日本フォードや日本GMが日本でノックダウン生産を始めた。
車は一定の距離を走ると、ピストンリングやシリンダー壁が摩耗する、
ストロング商会は、この劣化したシリンダーを再切削し、それに合わせたピストンやリングを加工し取り付けたことである。

昭和16年、軍部からの発注が増え始めた。
陸軍兵器本部、陸軍技術本部、陸軍兵器学校などである。
民間の自動車はガソリンが使用できなくなり、木炭自動車が登場した。

昭和17年(1942)1月、「ストロング」は敵国語であるという理由から、社名を半ば強制的に「安田自動車工業(株)」に変更させられた。
仕事も軍需関連一辺倒となってゆく。
昭和17年7月、商工省から自動車修理工具工場に指定された。
翌月、大阪陸軍造兵廠の監督工場に、翌年には海軍航空技術廠から航空機エンジン用のファインボーリングマシンの発注を受ける。

昭和19年(1944)1月、改正防空法にもとづいて軍需会社に疎開命令がだされ、安田自動車工業も否応なしに地方都市のどこかへ転出しなければならなくなった。
津田明導(白印)師が強く笠岡を勧めてくれた。
昭和19年3月、工場の設備機器と家族ぐるみの従業員たちが、いっせいに創業の地、大阪を離れ、見知らぬ遠隔地、岡山県の笠岡へ疎開することになった。

重い機械設備類や家財道具などを満載した木炭車のトラックの列が山陽道を西下、疎開地笠岡へと向かった。
船坂峠ではトラックが登り切れず立ち往生。笠岡から急遽、牛車を呼び寄せた。
貨物列車・樹帆船・木炭トラック・牛車まで総動員、引っ越しはなんとか終わった。
同じ年3月13日から8月14日まで、大阪は合計8回の空襲を受けた。

笠岡事務所は空き家になった医院、工場は石油販売店や製麺工場の倉庫建物、さらにはタンス屋の工場から酒蔵に至るまで転用した。


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男女共学・・・金光学園の場合

2020年12月02日 | 昭和21年~25年
男女共学

戦前までは「男女7才にして席を同じゅうせず」で、小学校の場合
笠岡でいえば
大きな笠岡は、男子校と女子校に分れ
中位の金浦は、男子クラスと女子クラスに分れ、
小位の城見は、一クラスを男女に二分の塊にした。

戦後の男女共学はクラスごと男女半々、席も男女男女で左右・前後に並んでいたと思っていたが・・・
金光学園では、そうではなかったようだ。


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「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行




創立以来、男子校であった学園も、戦後の新しい学校制度のもとに、女子生徒の受け入れに踏み切った。
学園に初めての女子生徒が入学したのは、中学校では昭和23年4月に中学1年生200人のうち、約50名。
昭和26年、高校1年生の生徒250名のうち、女子生徒80名の入学があった。


スタート時は男女別クラス。
昭和29年ごろは共学の研究期間であり、たえず検討を続けた。
「どこまでも男は男らしく、女は女らしく成長せしめ、自覚せしめることが大切である」
その観点から数年を費やし、その結果
昭和36年から中学校から完全共学、高等学校では昭和39年入学の1年生からであった。


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学校の工場化②淳和高等女学校と金光中学校

2020年12月02日 | 昭和16年~19年
淳和女子---激動を生きる・安田工業80年記念誌」安田工業(株) 平成21年発行 


地元の淳和高等女学校に対して、同校の工場化と報国隊の動員を依頼。
その開始式典の挨拶に、

「戦局愈々急迫化し、敵機の本土空襲もしばしばなる状況と相成りました。
今回、当校学徒の受け入れと学校工場化の御承知を賜り、ただ今から当校校舎は兵器生産の工場と変わる訳であります。
学徒諸君は産業戦士として出陣され、邦家のため、まことに御同慶に堪えざるところであります。」

この式典終了の日から、早速、安田工業の手によって基礎教育が行われた。


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金光中学--「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行


戦争末期の学校状態

昭和19年、本校では
第一学期中に
5学年が乙島の飛行機工場に
4学年が兵庫県の播磨造船所に
3学年が乙島工場に出動した。
2学年・1学年も挙げて農家の手伝いや開墾作業に奉仕した。

工場出動については、負傷者を出したり、死者を出す学校もあり、空襲の危険にもたえずさらされていた。

水島空襲の後、
乙島工場の一部を学校工場として大谷へ移すことになり、後に学園建設の工事場になったあの場所を、取り片付け改造を加え、
機械の据え付けも終り、さあ始めようという時に、終戦となったのである。


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