「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行より
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軍事教練の思い出

昭和十年代後半の生徒は、当時の思い出を次のように回想している。
「軍事教練の思い出」
半世紀前の悪夢のような思い出をひとつ回想してみよう。
当時中学生の服装は、カーキ色(国防色)の学生服で、登下校時と教練の時はゲートル(巻脚絆)の着用だった。
帽子は、昭和16年以降の入学生は国防色のいわゆる戦闘帽を被るようになった。
教練の時間は2時間続きで週3回、合計6時間がこれに当てられた。
教練に係る教官の職員室は、運動場のもっとも近い位置にあって、体育の先生と同室で、「生徒監」と言い、入室時には入口で
「〇年〇組○○○○、入ってよろしいでありますか?」と蛮声を張りあげ、中から
「入ってヨーシー」と教官の許可が無ければ入室できなかった。
生徒監の横には武器庫があり、二二式銃(明治38年製歩兵銃)と騎兵銃銃剣が収納されていた。
教練の時、1・2年生は木銃を、3年生は二二式銃を、4・5年生が三八銃・騎兵銃を使用していた。
実弾射撃も時にあり、5年生が騎兵銃を運動場の南側で、三八銃を使う時は遥照山麓の池畔で実施していた。
教練の場所は、ほとんで運動場であったが、時々今の学園校地の広場で軍隊さながらの訓練を行っていた。
それは酷暑炎天下でも、吹雪・豪雨の中でも実施された。
教官は三先生に一配属将校であった。
教練そのものも厳しかったが、服装・銃の管理、規律も大変だった。
また軍人勅語の完全暗記は絶対的なものであった。
訓練内容は、集合、歩行、匍匐前進、塹壕突破、手榴弾投擲、突撃等で、
サーベルで突かれ、長靴で蹴られながらの真剣勝負であった。
今の中・高校生生活では、とうてい想像もつかないことである。
それが戦時下では当然のこととして実施されていたのである。
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軍事教練の思い出

昭和十年代後半の生徒は、当時の思い出を次のように回想している。
「軍事教練の思い出」
半世紀前の悪夢のような思い出をひとつ回想してみよう。
当時中学生の服装は、カーキ色(国防色)の学生服で、登下校時と教練の時はゲートル(巻脚絆)の着用だった。
帽子は、昭和16年以降の入学生は国防色のいわゆる戦闘帽を被るようになった。
教練の時間は2時間続きで週3回、合計6時間がこれに当てられた。
教練に係る教官の職員室は、運動場のもっとも近い位置にあって、体育の先生と同室で、「生徒監」と言い、入室時には入口で
「〇年〇組○○○○、入ってよろしいでありますか?」と蛮声を張りあげ、中から
「入ってヨーシー」と教官の許可が無ければ入室できなかった。
生徒監の横には武器庫があり、二二式銃(明治38年製歩兵銃)と騎兵銃銃剣が収納されていた。
教練の時、1・2年生は木銃を、3年生は二二式銃を、4・5年生が三八銃・騎兵銃を使用していた。
実弾射撃も時にあり、5年生が騎兵銃を運動場の南側で、三八銃を使う時は遥照山麓の池畔で実施していた。
教練の場所は、ほとんで運動場であったが、時々今の学園校地の広場で軍隊さながらの訓練を行っていた。
それは酷暑炎天下でも、吹雪・豪雨の中でも実施された。
教官は三先生に一配属将校であった。
教練そのものも厳しかったが、服装・銃の管理、規律も大変だった。
また軍人勅語の完全暗記は絶対的なものであった。
訓練内容は、集合、歩行、匍匐前進、塹壕突破、手榴弾投擲、突撃等で、
サーベルで突かれ、長靴で蹴られながらの真剣勝負であった。
今の中・高校生生活では、とうてい想像もつかないことである。
それが戦時下では当然のこととして実施されていたのである。