「俺は母親(おふくろ)が可哀そうでね」と彼は沈み込んだ声で云った。
「そうだよ、お母さんも奥さんもみんな可哀そうだよ」
突然彼は四つ角で立ち止り、
「広津、僕の母親を呼んで来て呉れ」
「うん、呼んでくるからここで待っているね」
「うん、待っている」
私は宇野の家まで走って行って、彼の母をつれて来た。
彼は「あ、お母さん」と云って母を庇うようにその背中に腕をまわし、彼女の頭をやさしく撫で始めた。(中略)
「よく見えるがな。浩二、わたし眼悪くないがな」と母はおろおろと泣き出しそうな声で云った。
「広津、女房を呼んで来てくれ」
私は又走って彼の細君を呼んできた。
「広津、兄貴も呼んで来てくれ。可哀そうな兄貴なんだ」
私は彼の兄をも呼んで来た。彼の兄は子供の時分脳膜炎をやった事があるので、廃人同様で、彼の家に厄介になっていたが、顔は年を取っているのに、いつも子供のように無邪気な笑顔をしていた。こういう場合にもやはりその笑顔は消えなかった。
宇野は往来の真中で、母と細君と兄とを抱きかかえるようにしたかと思うと、突然こんな声を彼が持っていたかと思われるような大きな声を張り上げて、
「これだけが宇野浩二の家族だぞォ!」と叫び、続いて、「おう!おう!おう!」と何度も語尾を引っぱって唸るように叫びつづけた。
彼に抱かれた三人の家族は、言葉も出ずに悲しそうな顔附で、吼えつづける彼に取りすがっていた。
私は一間ほど離れたところに立ち、その光景を呆然と傍観していた。
彼の声に煙草屋からも酒屋からも、その反対側の店屋からも人が出て来た。私の側に来て二、三人が訊いた。
「どうなすったんですか」
「ウイスキーに酔っ払って管を巻いているんですよ」
私は咄嗟にそう答えたが、不覚にも涙が溢れて来そうになったので、その場を去り、一人で宇野の家の六畳に帰って来て、そこに坐り込んだ。(中略)
兎に角あの光景は見ていられない--併し自分は見ていられなくなって此処まで逃げて来たが、母や細君や兄は見ていられないと思って帰って来てしまう事も出来ないのだろうと思うと、家族というものの悲しさが改めて考えられて来る。「これだけが宇野浩二の家族だぞォ!」……あの光景は人間生活の淋しい縮図のような気がしてくる……
(広津和郎『年月のあしおと』講談社刊 「宇野浩二病む」より)
上野桜木町の往来で発狂する宇野浩二。
何か、暗くて熱いんである、この時代。
「そうだよ、お母さんも奥さんもみんな可哀そうだよ」
突然彼は四つ角で立ち止り、
「広津、僕の母親を呼んで来て呉れ」
「うん、呼んでくるからここで待っているね」
「うん、待っている」
私は宇野の家まで走って行って、彼の母をつれて来た。
彼は「あ、お母さん」と云って母を庇うようにその背中に腕をまわし、彼女の頭をやさしく撫で始めた。(中略)
「よく見えるがな。浩二、わたし眼悪くないがな」と母はおろおろと泣き出しそうな声で云った。
「広津、女房を呼んで来てくれ」
私は又走って彼の細君を呼んできた。
「広津、兄貴も呼んで来てくれ。可哀そうな兄貴なんだ」
私は彼の兄をも呼んで来た。彼の兄は子供の時分脳膜炎をやった事があるので、廃人同様で、彼の家に厄介になっていたが、顔は年を取っているのに、いつも子供のように無邪気な笑顔をしていた。こういう場合にもやはりその笑顔は消えなかった。
宇野は往来の真中で、母と細君と兄とを抱きかかえるようにしたかと思うと、突然こんな声を彼が持っていたかと思われるような大きな声を張り上げて、
「これだけが宇野浩二の家族だぞォ!」と叫び、続いて、「おう!おう!おう!」と何度も語尾を引っぱって唸るように叫びつづけた。
彼に抱かれた三人の家族は、言葉も出ずに悲しそうな顔附で、吼えつづける彼に取りすがっていた。
私は一間ほど離れたところに立ち、その光景を呆然と傍観していた。
彼の声に煙草屋からも酒屋からも、その反対側の店屋からも人が出て来た。私の側に来て二、三人が訊いた。
「どうなすったんですか」
「ウイスキーに酔っ払って管を巻いているんですよ」
私は咄嗟にそう答えたが、不覚にも涙が溢れて来そうになったので、その場を去り、一人で宇野の家の六畳に帰って来て、そこに坐り込んだ。(中略)
兎に角あの光景は見ていられない--併し自分は見ていられなくなって此処まで逃げて来たが、母や細君や兄は見ていられないと思って帰って来てしまう事も出来ないのだろうと思うと、家族というものの悲しさが改めて考えられて来る。「これだけが宇野浩二の家族だぞォ!」……あの光景は人間生活の淋しい縮図のような気がしてくる……
(広津和郎『年月のあしおと』講談社刊 「宇野浩二病む」より)
上野桜木町の往来で発狂する宇野浩二。
何か、暗くて熱いんである、この時代。