「卒業証書授与式について」(ご案内)
というハガキが1カ月ほど前に届いていました。
高校はちゃんと卒業したはずだったけど、と思いながら読んでみると
「毎年、卒業されて50年目の節目を迎えられる先輩方にご来臨賜っております。」
わ~、なんてロマン!
もう、おかあさんは絶対出席するつもりでいました。早速、高校時代の6人の仲間に一斉メールをしました。
M子「学校の名前も変わってるし、場所も変わってるし。懐かしいのは古い校舎とグランドを見降ろす石段とかやわ」
あと二人の女子「うん、行こ、行こ」
二人の男子の一人、M君からは電話で「お前、行くのか?ほな、行こかぁ」
もう一人の男子には再度、M君から連絡しましたがあいにく仕事の都合で欠席とのこと。
Kちゃん(もう一人の男子)以外、みんな行く、言うてるで、とM子に言うと「ほな、行こか・・・」
でも、彼女は気がすすまないようでした。
高校のときは8人グループでした。1クラス50人の男女比は3:2でしたが、このグループ(M君の名前からM一家と名乗っていました)は4:4でした。(2人の男子が欠落していますが、また、連絡を取り合いたいなと思います)
それぞれに同性の親友は別にいて、異性の友人も別にいて、なんということなく、それでいていつもたいていM一家は一緒に行動していたような気がします。
M一家はこのお正月にもおかあさんの見舞いをかねてぼくんちで集まっていました。(当時、ぼくの具合がもうあまり良くなかったので、おかあさんはできるだけぼくと一緒にいたくて、うちに来てもらうようにしていました。おかげで、この人たちにもぼくを知ってもらえたし、おかあさんのいろいろなお友だちにもたくさん会うことができたので した)
まるで『色彩を持たない多崎つくる』の高校時代のようでした。あれは卒業後15年くらい、こちらは50年、村上春樹さんに報告せねばならないような気がしますが、今考えても、そして、今も、なんか兄弟のような感覚。お正月、ちょうどおかあさんはこの本を読み終えたばかりだったので、みんなにおもしろい本よと言いました。が、きっと、その後、読んだひとは誰もいないと推測します。
さて、この6人のうち、案内のハガキが届いているのは3人だけでした。Kちゃんをのぞく5人で出席することにしましたが(最終的にはM子も風邪をひいて欠席)、どれだけの同級生が集まるのだろうかと胸ふくらませて、3月1日、あまりなじみもない、でも母校となる高校にでかけました。
その母校は奈良市内から西の京のはずれに引っ越し、伝統ある学校だったのに、姪からは「momo姉ちゃん、今、あの高校の卒業生言うたら、ちょっと恥ずかしいで」とまで言われ、校名も2度も変わっていました。(もちろん、校歌も変わっていました。卒業式に校歌を歌うのは感動的。覚えているかなぁ、歌えるかなぁ、なんて余計な心配でした)
350人ほどいた同窓生のうち、50人1クラスから4人出席ですから、28人くらいは出席しているはず。
誰に会えるかなぁ、と楽しみにわくわくしながら行ってみると、来賓の受付、控室と用意あったものの、私たち以外にはあと3人でした・・・〇○。。
「恥ずかしい」ほど低落した高校にしては、卒業式での生徒の動作はきびきびして、返事もはっきり、好感が持てました。自分たちのときのほうが、よほどなれなれしくて初々しさが無かったような気がします。クラスごとに声を合わせて「3年間ありがとうございました」と言うのも、総代の答辞とはまた違う新鮮さ。
校歌は歌えなかったものの、国家も式歌(『仰げば尊し』ではなく、式歌とありました)も一緒に歌えて、卒業式に参列できたこと、よかったと思いました。
式の終了後、あとの3人のうち、2人は面識があり、一緒に近くのファミレスで食事をし、しばし昔の話で盛り上がりました。同窓会もしなくてはね、と。

こんな粋な計らいをしてくれる高校なんてきいたことありません。大学ならあるかも、ですね。万が一きたら、おかあさんはまたきっと行くに決まっています。