堀川惠子著「教誨師」という本を読みました。
初めて知る言葉であり、仕事(ボランティア)でした。
教誨師とはその精神の救済のために死刑囚と対話し、最後は死刑執行の現場にも立ち会う。それを長く勤めた渡邉普相という僧侶のインタビューをまとめたドキュメンタリー。
「この話は、わしが死んでから世に出して下さいの」と言う約束どおり、その僧侶の死後に出版された。
彼はアルコール中毒で入院しながらも刑務所に通って教誨を続けた。
「お母さん、お母さん!」声にならない声で届くあてない名を叫び続けている。事態を察した刑務官が互いに目配せし、さっと彼の四方を固め、両脇を抱え、ずるずると処刑部屋へ引きずっていく。もはや順を踏んで行われたお別れの儀式の余韻など無い。こうなると一転、よってたかっての殺人現場と化す。ーーーーーーーーーー死刑囚の身体が視界から消え去る間際、渡邉の頬に大粒の涙が流れた。
死刑執行までの長く孤独な道のりに、ほんの一時でもほっとできる時間、空間を作る大切さ。
許されざる罪を犯し、命で償えと送られてくる死刑囚。彼らの未来はそれ以上でもそれ以下でもない。反省や更正でなく、究極の「罰」を受けること。それが社会が彼らに求めた最後の仕事。そこに宗教者が乗り込んで何かをできるとおもうことのほうが間違っている。死を突きつけられた人間に対して他人がそう簡単に「救い」など与えられるものではない。
ただ相手の話に真摯に耳を傾け「聴く」。少しでも穏やかな時間を作る。偏見を持たずひとりの人間として向き合い、会話を重ね、時を重ね、同じ空間に寄り添う。できることはそれだけ。
犯罪と言うのは、被害者の家庭も崩す、加害者の家庭も崩す、いいことなんか何も無い。本人が執行されても、幸せになった人間は誰一人いません。誰も幸せになってない。だから、そういう犯罪を防ぐ、減らす運動を、本当は考えないといけない。
重い重い話でした。でも、知らないといけないと思いました。
まさに、7月6日、7人の死刑執行がありました。
オウムのことは長い時間かかって、結局のところ、真実は暴かれなかったと、徒労に終わったと、被害者側の弁護人が言っていました。
死刑執行よりも、なぜそうなったか、二度と同じことを繰り返さないために究明すべきだったのではないか、と。
死刑執行の現場には上のお役人は来ないそうです。つらいつらい仕事でしょうね、想像するだけでも。