ももすけの日記

化粧水のほのとかをりて初化粧
ああ面白かったと言って死ねたらいいな

極楽の余風

2014年07月23日 12時01分19秒 | ひとりごと

京都の夏といえばおそろしいほどのうんざりした暑さを想像します。(冬は冬でおそろしく底冷えがする)

俳句を始めてから、いっぺんくらいは祇園祭を見ておかなくてはお話にもならないと思いつつ、暑さの中を出ていく勇気が持てないままでいました。

昨年は大きな怪我をして退院してきたら、今度は先生(敬愛する俳句の先生)のお具合が悪く、とうとうこの4月にお亡くなりになってしまい、その句会も終わりました。

大好きだった先生に対する感謝を忘れないためにも俳句は続けたい。そしてたったこれだけのことを言うのにだらだらと書いてしまう性質のおかあさんです、俳句はきっぱりと、憧憬でもあり、先月から新しい句会に入れていただくことになりました。

新しい先生、新しい句会の人たちとは、まだ何となく違和感がありますが、一人前になるためにも『祇園祭』を知らねばと京都のお友だちNちゃんにお願いしました。

しかし、その祇園祭行きの相談をするのに前もって会う約束(たんなるおしゃべりの機会)をしていたのですが、おかあさんはこのところ疲れやすくて、その約束もキャンセルをしてしまっていて、本番の7月17日、決死の覚悟で近所のお友だちといっしょに出かけました。

祇園祭と言えば「山鉾巡行」。でも、今回は八坂神社の行事いわゆる本番のお祭り「神興渡御」を。

京都のお友だち曰く「京都の祭りは辛気臭いですから・・・」

お馬さんだって、人間だって暑くって疲れています。 

4時からの祭礼に、もうすでに人垣ができていました。二人の優しいお友だちは、momoちゃんの疲れないよう、好きなようにしたらいいよと言ってくれましたので、おかあさんは人垣をくぐって一番前まで行って、どっかと座りました。

みんなが立って待っているのに、一人、とてもおしゃれなおばあさまがやはりどっかと腰をおろして座っていたので、おかあさんもにっと笑って横に並びました。かなりの年配にお見受けしましたが、つばのくるんと巻いたお帽子に、履きやすそうな涼しそうな(パッチワークでもなく、メッシュでもなく、、、)靴、洋服も一見してちょっと上等。

するとそのおばあさま、「はじめてどすねんえ、わたしは金閣寺から、あんたはんは?」とおしゃべりが始まりました。

暑いですね、と言ったとたん、す~っと涼しい風が東山の方から吹いてきて二人は顔を見合せます。「極楽の余風どすなぁ」  

懐かしい言葉、もう長いこと聞いたことがありませんでしたが、『極楽の余風』 いいなぁ、胸にほっこりときました。

3基のお神輿(これはスサノオノミコトが乗られているという)が次々と担がれだし、ぐるぐると境内をめぐって  神社下の松原交差点を渦を巻くように練ってそれぞれ町の中の御旅所まで行きます。

さて、我が友Nちゃんは名プランナーなのです。食事は先斗町のお好み焼きで~ 生ビールの美味しかったことといったらありません。

それから夜遅くに大阪に帰ってきましたが、京都より大阪のほうがなんだかむっと暑いね、とお友だちと言ったことでした。

 

 


わがふるさとは大和

2014年07月08日 15時17分27秒 | ひとりごと

このところ、おかあさんはなんだかぐずぐずした感じで寝たり起きたりでした。

怠け癖がついてしまったのかなぁ、と思いつつ、でも、起きられるときは颯爽と台所に立ったりお掃除したりできるのです。だから、きっと、怠けてなんかいないんだわ、と自分で弁解しているのですが。

出かけることも多くなってきましたし、その分、疲れやすい、年齢も考えねばなりません。

この前の土曜日はコーラスのコンサートでした。それぞれのコーラス団の紹介や曲名などをアナウンスする役(陰アナ)をあてがわれ、それくらいならと軽く引き受け、原稿も一瞥したまま前日になって練習開始。

最初の練習の録音を聞いた途端、は~~~、なんて下手!

なんでもっと早くから練習しない、慌てふためき焦りました。何につけてもそうなのです。かといって、さほど後悔するようなおかあさんではありません。それからがんばってたいていはOKなので、結果オーライならばそれでよし、と思ってしまうのです。(自分に甘い!)

そのアナウンスのなかで「ヤマトタケル、、、世界遺産へとの古墳群、まさしく日本のふるさとはこの地」というくだりがあり、内心、いんや、それは大和やろ、と思っていました。

くたびれてコンサートから帰ってソファでひっくり返っていると、大和の兄からの電話でした。「お前、雲幻寺(実家の近くの)にキリシタンがいたと、聞いたことあるか?」

「・・・えー、そういえば、そんな話聞いたような気もするなぁ。お父ちゃん、いろいろ教えてもろうた」

「明日、その講演会があって、その講演する先生が話を聞かせてほしいと言うてるらしいから、ちょっと確認しときたいと思って」

「へぇ、おもしろそうやなぁ」

「来るか?」

「うん、行く、行く」

 

翌日、ぼんやりした頭で 『寺小屋in額安寺』 http://kakuanji.jp/

寺小屋、第11回のテーマが『郡山-江戸から明治へ』と『大和郡山とキリシタン』

資料を手渡されて、これは眠たくなりそうだなと覚悟しました。でも、一睡もしませんでした!

譜代郡山藩15万石最後の藩主は柳澤保申(幼名時之助)。そのひ孫にあたるお殿様の末裔、国立大学の学長をされていた方だそうで早口だけれどおもしろい。

 

さて、いよいよキリシタン。江戸時代が終わったらキリスト教は認められていたとなんとなく思っていたのだけれど(実際、意識したことはない)、維新政府も「切支丹を一気に殲滅せんとして、七代に亘って潜伏を続けていた長崎県浦上村民3416名を明治2年、家族を分散総流罪に処した」

富山以西の20藩に流配されるのだけれど、その先々ではやはり棄教を迫られ迫害を受けていた。ところが郡山では厚遇されていたらしい、と。

明治6年、各地に流されていたキリシタンは故郷浦上に帰る。

各藩別死亡者数の割合が郡山藩5%の4名で最低、しかもこの研究の先生がおっしゃるには、当時の平均寿命から計算すると浦上にいれば6人は死んでいたことになる、と。

割当人数は各藩の禄高によって決められているが(大体が10万石以上)、財政難の時代は今も昔も変わらないらしく大変だったらしい。

ちなみに死亡率のトップは和歌山と高知の34%、ついで津和野が26%。

最後に先生が締めくくりました。(この先生は南山大学ですから郡山市とは関係ありません)

「教養があれば他者を人間として認めることができる」と。

 

 むずかしいことはぼくにはわからない。でも、宗教よりも教育が必要なんじゃないかしら、この地球に。

合歓が咲いています。