塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

ハンド。サッカーにおける悪い手の歓び

2013-09-07 23:24:21 | 日記
 「わるい手の歓び」

 サッカーでは当然手を使う事はハンドに相当し、退場処分を喰らっても仕方がありません。

 しかし明らかに故意ではない、本当に偶然手がボールにあたってしまった例もあるように、時に残酷な事例が見受けられる事
も確かです。

 フランス・ワールドカップのイタリア対チリ戦がそうでした。

 ロベルト・バッジョは審判が確実に視界に入っているその中で、至近距離に迫った相手DFに対し、驚くくらいのゆっくりと
したボールを相手の「腕」めがけて蹴り込みます。

 緩やかで穏やかな放物線を描いた彼の恋人は、審判が完全に理解できる範疇で腕に当たり、

 「イタリアのPK」

 という先刻をもたらす形になるのです。

 これは明らかな不運と呼べるものですが、バッジョの発想がそれだけ逞しかったという見解もあるでしょう。

 その一方でディエゴ・マラドーナにルイス・スアレス、そしてティエリ・アンリ。

 この3選手が犯した「ハンド」は、その性格によるところもあり、自国と対戦国との間に極端なまでのしこりを残す、後味の
悪い結果をもたらしました。

 特にアンリが犯したハンドは、アイルランド代表との間で行われた

 「大陸間プレイオフ」

 で露見し、フランスとアイルランドの外交問題にまで発展し、紛糾する形になりました。

 審判、そして線審とアシスタント・レフリーすべての視覚から隠れる形でハンドを犯したアンリ、GKのシェイ・ギブンを筆
頭にハンドを強烈に訴えるアイルランド代表。

 アイルランドとしては2002年以来のワールドカップは、こうした形で去ってゆきます。

 しかし、この爪痕はフランス代表により多くの禍根を残す形になろうとは、2009年の段階では予期できないものでした。

 南アフリカの地でドメネクとアネルカが諍いを起こした挙句の練習ボイコット、そしてグループリーグ3戦全敗と、南アフリ
カとの一戦でドメネクがパレイラとの握手を拒否する。

 代表の断末魔を聞いたフランス国民はきっと、あのアンリのハンドを本人以上に公開し、一方でアイルランド国民は皮肉な笑
みで彼らの

 「空中分解」

 を見ていたように思えます。
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わるい脚の歓びという事柄を思う

2013-09-07 23:07:12 | 日記
 「わるい手の歓び」

 男ならば誰もが思う節があるこの言葉を、開健は著作「生物としての静物」の中で臆することなくこう記していま
す。

 (集英社文庫10ページを参照)

 ならばサッカーは「脚の歓び」と表現できると同時に、「わるい脚の歓び」という側面もあるでしょう。

 サッカーがその脚という、不的確な要素の中で行われるスポーツだからこそ、人々を虜にしてきたことは間違いあり
ません。

 しかしゲルト・ミュラーのように、華麗という言葉とは程遠い選手でも、自らの脚の歓びをドイツ国民の利益として
還元した例もあるように、サッカーは人々の心を癒す存在でもありました。

 日本がワールドカップで勝つ喜びを改めて感じた2010年も、本田と遠藤は自らの脚でボールを鮮やかに、同時に
美しく蹴ったものでした。

 しかし、「わるい脚の歓び」もしばし見受けられます。

 ドイツ代表代表のミハエル・バラックは結果的に2006年の自国大会が最後のワールドカップとなりました。

 それはチェルシー時代、マンチェスター・シティと対戦した際にジェローム・ボアテングからのレイト・タックルを
受け故障し、復帰が開催までに間に合わなかった為です。

 「レイト・タックルだったことは認める
  しかしわざとではない」

 ボアテングは非を認め、謝罪しながらも彼の事を傷つけることはなかったと釈明しましたが、バラック自身は納得で
きなかった事でしょう。

 そして1998年のワールドカップ、イングランド対アルゼンチン。

 ベッカムがシメオネを故意に倒し、レッドカードで一発退場になった際、ベッカムがシメオネを倒したのは彼が脚を
絡めた為でした。

 不的確な行動が白熱し、不的確な感情を芽生えさせることが、時にサッカーに起きる事を忘れてはなりません。

 
 
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サッカーをユー・チューブで観て感じた点

2013-09-07 15:44:51 | 日記
 どうして「ユー・チューブ」の映像は無料閲覧できるのでしょうか?

 スカイプと通信手段は衛星回線を用いているようですが、どうしてこの手段も無料なのでしょうか?

 そこには大手がスポンサーとして資金援助している為なのか、無料だからこそ人々が関心を寄せ、見て欲しい映像を次々に
投稿しているのでしょうね。

 僕は普段映像、動画を見ることはまずありません。

 でも先ほど、ブラジル代表FWロナウドが96-97シーズン、あの

 「コンポステーラ戦」

 で見せた美しいゴールをユー・チューブで閲覧できましたが、ぼくがサッカーに関心を持ち始めたころは、こんな簡単に映
像で選手の動きを確認することは不可能でした。

 90年代前半、映像商品は

 「買うか、借りるか」

 のいずれしかなく、販売商品はVHSかレーザー・ディスクの二者択一でした。

 映像の質は後者の方が高かったのですが、普及と価格、そして借りるという手段で言えば圧倒的にVHSが多勢を締めてお
り、DVDが一般に浸透した2000年代前半も、この状況に変化はありませんでした。

 そのころのサッカー雑誌には、ジャージと映像作品の新作広告が数多く並び、やはり買う物であったことが伺えます。

 つまり、携帯電話とパソコンで情報収集することが容易な今は、その陰で

 「作品としての映像」

 の市場が縮小しているという見方も出来ます。

 僕はレンタルもしませんが、現在ではレンタルのみでDVDでサッカー映像が確認できますが、一般販売分は随分見なくな
りました。

 確かに金を払ってみるよりは、短時間で無料でユー・チューブを観た方が面白いですね。

 CDも配信と言う形でより在庫の減少が進んでいますが、その反面店舗の衰退という面もあり、一概に喜ぶわけにもいかな
いのですが。
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日本が1994年のフランス代表に学ぶ姿勢

2013-09-07 15:34:25 | 日記
 ガーナはともかく、グアテラマ代表を対戦相手に指名した点に様々な意見があります。

 その多くが

 「グアテラマ相手では意味が無い」
 「彼らは既に予選で敗退しており、ブラジルに赴くことは無い」

 という物です。

 しかし、彼らはそこまで存在価値を否定される代物なのでしょうか?

 グアテラマが今回日本国内で巻き行った苦渋から逃れるには、彼らなりのやり方で代表とリーグの強化を果たさねばなりません
が、少なくとも20年前の日本も内外での評判は低いものでした。

 例えば1994年のキリンカップ。

 アメリカ行きを逃したフランス代表は、エメ・ジャッケの方針の下、結果的には構想外になりますがパパンとカントナを招集し、
当然ドゥサイーとデシャンの姿もありました。

 ではフランス国内、そしてフランス・フットボールとル・キップは

 「日本に遠征するなど馬鹿らしい出来事だ」

 と非難が集まったのでしょうか。

 僕には1994年のフランス代表を取り巻いた喧噪はわかりかねますが、少なくとも日本が完全否定されたようには思えません。

 フランスはワールドカップ開催地ですし、わざわざ極東にまで遠征しなくとも、近隣諸国と対戦することは容易だったはずです
から、虚仮にされたわけではなかったのでしょう。

 逆に言えば中米、東南アジア各国からすれば

 「日本と戦えることは有難い出来事」

 という認識に、時代が変化しているのかもしれません。

 今夏は日本人選手の海外渡航が陰を潜め、フィテッセの安田がジュビロ、永井謙佑は古巣のグランパスエイトと契約するなど、
その動きは地味な代物でした。

 それでも尚代表の主軸が海外リーグに籍を置く事に加え、J1の運営力が評価されている今、格下相手を虚仮にするのではな
く、かつてのフランスのような大きな態度を取ることも必要だと感じました。
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サッカーが社会全体に与える影響

2013-09-07 00:24:14 | 日記
 例えば僕は自分の女性上司をウマが合いません。

 その女性上司の出身地にはJ2のクラブが存在し、もし将来長野パルセイロがJ2に参戦し、そのクラブを倒すことがあるならば、
僕は心の中で快哉を叫ぶでしょうね。

 サッカーと言う競技の力を「勝手」に借りた

 「個人の復讐」

 となる為ですが、僕は表立ってその喜びを表さいでしょうし、パルセイロが昇格する事には上司の方が転勤しているか、僕の方が
転職しているとも限らないためです。

 そう、サッカーや仕事は変えることができます。

 少なくとも日本では。

 しかし欧州、南米では金持ちは金持ち、労働者は労働者として一生を過ごさねばなりません。

 アルゼンチン国内でやはりマラドーナの名声が落ちることがなく、テヴェス、リケルメが彼の後継者と盛んに叫ばれたのは、この
3選手がいずれも

 「貧民街」

 の出身であり、貧困から金持ちへ生まれ変わった、言い換えれば階級を超越したことも関係しています。

 ブラジルやパラグアイもそうですが、サッカーは労働者階級が金持ちをせせら笑う道具であるのと同時に、自分たちが金持ちに鞍替
えできる存在でもある為です。

 日本は

 「米国の傘」

 という見方もできますが、少なくともクーデタや政権の転覆など、社会そのものが混乱することもなく、アフガニスタンやイラク
のように戦争も回避してきました。

 ですからサッカーがプロ化する前、例えば野球で大金持ちになりたいと考える選手がいたことは確かですが、社会概念を覆すような
事はありませんでした。

 日本サッカーは良い意味で日本社会に影響を与え始めています。

 1・複数の言語を操ることは当たり前
 2・自分の意思で生きる事の大切さ
 3・外国籍の人物と堂々と渡り合う

 これらがそうですよね。

 社会通念を時に活かしてきたのがサッカーならば、日本もようやくその範疇に来たといえるはずです。
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